「恵みの賜物」
エフェソの信徒への手紙4章7~12節
皆様は冬の休暇をどのように過ごされたでしょうか。私も休暇を頂き、北九州に帰り、
久しぶりに家族と過ごす時間を持ちました。共に過ごす時間は大切な時間だと、改めて感
じる帰省でした。そのような時間を下さった神様と教会の皆様に感謝します。また、帰省
の際は北九州の傷んでいる地を覚え祈る時間も持ちました。主の救いと癒しが日本中に起
こされることを祈りつつ、その祈りの輪が広がっていくこともまた願っています。
また、先週は横浜YMCAの新年礼拝でも宣教の奉仕をさせていただく恵みに与かりまし
た。キリスト教主義の施設で、若い世代の方々に御言葉を取り次ぐことができたのは私に
とっても喜びでした。また、職員の皆様がイエス・キリストの福音に基づいて地域の方々
に関わっていこうとしていることもその後の報告で伝わり、とても嬉しく励まされました
。イエス・キリストによって一つであることを先週のメッセージでもお伝えしましたが、
改めて私たちは唯一のお方に仕えるために互いに協力する群れであることを思わされまし
た。これからもYMCAの祝福を祈りつつ関わっていきたいと思います。
さて、執事選挙の開票まであと1週間となりました。すでに投票をされた方もいると思
います。私も投票を行いました。皆さんは祈って投票をされましたでしょうか。祈ってな
かった、という方は今からでも遅くありません。ぜひ来週の開票まで御心に適う選挙とな
るように祈り続けましょう。
執事選挙の時、それぞれに与えられている賜物が生かされようとしていることを確認し
たいと願います。また、今日与えられた聖書箇所から、その賜物がどこから来ているのか
を共に聞きましょう。
この執事選挙は2025~2026年度の任期になります。これまでの任期を担った執事の皆様
のお働きにも感謝を表したいと思います。一人一人の賜物が生かされ、教会の働きを支え
て下さいました。賜物は発揮されました。しかし、執事選挙の時、特に覚えていただきた
いことがあります。彼らはできるから執事を担ったのではなく、執事を担ったからできる
ようになった、ということです。
私自身、執事の働きを母教会で8年間担いました。30歳から4年間、そして、母教会では
再任をされた場合次の1期は被選挙権がなくなりますので、その後36歳から4年間執事を担
いました。何でもできる、器用だ、と言って頂くことがあるのですが、事実は逆です。私
は本当に不器用な人間です。一応パソコンは触っていたくらいで、パソコンを扱える方が
あまりいなかったということで自動的に総務執事になりました。しかし、週報作成は失敗
の連続でした。総会の運営に対してもうまくいかないことがありました。お叱りを受ける
事も数知れずの状態で最初の4年を終えました。その後、パソコンを扱う仕事をしたこと
もあり、少し慣れることができ、次の2年の総務を担いましたが、決して得意分野という
わけではありませんでした。会計執事も2年間担いましたが、財務の仕事をしたことがな
かったので、一からのスタートでした。こちらも得意分野どころか不得意分野そのもので
した。ただ、仕事で日曜日にしか預け入れができないため、そのようにできる体制を整え
たり、工夫できることはありました。
これをやりたい、と心から思えることだったとは言えません。しかし、神様の憐みによ
り教会の大切な働きを担うことができ、また任期を終えることができたのは感謝でした。
そして、そこから学んだことも大きく、今、湘南台バプテスト教会で仕える時の大きな助
けとなっていることを実感しています。ある意味では、得意ではないと自分で思っている
分野の賜物を神様が実は与えておられるということもあるのかもしれません。湘南台で執
事を担った方の賜物もまた、その仕える中で発見され、そして磨かれたのだと思います。
私もまた同様です。
神様は、私たちの思いを知り、そして私たちの思いを越えて祝福して下さるお方です。
できるからしたのではなく、やったからできるようになった、そのような私たちの思いと
は逆の出来事を神様は皆さん一人一人に祝福をもって起こしてくださいます。その祝福を
ぜひ受け取って頂きたいと祈っています。
さて、今日の与えられた聖書の言葉から、私たちに与えられている賜物がどこから来て
いるのかを知ることができます。
すべての賜物を与える方
「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられて
います。」(7)
いきなり「しかし」から始まりますが、この「しかし」は、前節で語られた、教会は一
つ、信仰は一つ、体は一つ、という箇所からの続きです。全体の一致がある、しかし、で
す。それは、私たち一人一人に恵みが与えられている、ということなのです。全体の中の
一人一人が尊い一人一人と見られています。そこにこの人はそう尊くはない、この人より
は尊くはない、という人はいないのです。神様の目には一人一人が尊いのです。そして尊
い一人一人に、その人にしかできない特別な役割を神様は与えているのです。
もうひとつ大事なことがあります。パウロはここで、私たちが持っている才能、賜物は
、イエス・キリストの恵みの賜物だと言っています。イエス様は、クリスチャンが所有す
るあらゆる才能を与えているお方です。
「そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた
」と言われています。」(8)
この言葉は、詩編68編19節の引用ですが、王の帰還の出来事を、パウロはイエス様の昇
天の出来事と見ました。そして、その王であるイエス様が一人一人に賜物を与えておられ
るということを、御言葉から示しました。皆さんに与えられている賜物は、イエス様が、
一つとなるために、与えて下さっているものなのです。
すべてのものを満たすため
「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く
昇られたのです。」(10)
イエス様はこの世界に入って来て下さいました。上られたキリストと下られたキリスト
は同じお方です。栄光のキリストがこの地上を歩まれたイエス様と同じ方です。主は今も
人々を愛され、罪人を探し求め、苦しんでいる人々を癒され、悲しんでいる人々を慰め、
見捨てられた人々の友人となっておられるお方です。
このお方が高い所に昇られたのは、人々を見捨てたのではなく、すべてのものをご自身
の臨在で満たすためでした。イエス様が地上にいた時は肉体を持っていたので、一度に一
か所でしか活動はできなかったでしょう。肉体を離れて栄光に戻られた時、肉体に限定さ
れずに、聖霊によって、世界中で働きかけて下さるようになったのです。イエス様の昇天
は、イエス様が満ちた世界であることを示すためでした。
このイエス様が満ちた世界であることを示していくために、キリスト教会は存在します
。そして一つであるように招かれ、イエス様が満ちていることを示すように、私たち一人
一人に恵みの賜物が与えられているのです。
今日集ったお一人お一人に祈りの中で問うていただきたいことがあります。それは、「
わたしは与えられている賜物を軽んじていないだろうか」ということです。また、「その
賜物は恵みでありイエス様から与えられていることを知っていただろうか。」という問い
です。「こんな私にはできない」、「到底わたしにできることではない」、私たちはその
ような思いに捕らわれ、神様の招きに応えられないことがあります。しかし、与えた恵み
の賜物を発揮してほしいから、イエス様はその寛大なはかりを使って、わたしたち一人一
人に賜物を与えて下さっているのです。これは人間が思う能力を超えたものです。私たち
の思いを越えて、私達が思った以上の恵みの賜物を神様は一人一人に輝かせて下さいます
。ただ、それはその賜物を発揮するように招いておられる神様の招きに、「はい、主よ」
と答えていく時に輝いていくのです。あなたに与えられているイエス様の恵みの賜物に
、「はい、主よ」と答えていく信仰を、主に求めていきましょう。必ず祝福されます。
まだイエス様を救い主と信じていない方には、皆さんにも神様が与え、使ってほしいと
神様が願っている賜物があります。賜物とは、自分で獲得したものではなく、ただただ与
えられたものです。イエス様を自分の罪を救って下さった救い主だと信じる時に分かる賜
物があります。皆様がその賜物に気付き、その賜物によってますます輝く皆さんになるこ
とを祈っています。