「どこを切っても賛美」
聖書箇所:詩篇119編169〜176節
今日は、バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1番ハ長調フーガを弾かせていただき
ました。この曲集は、バッハが鍵盤楽器を学ぼうとする人の助けとなるために、また、音
楽を奏でる人の楽しみとなるためにという思いで作ったとバッハ自身が書いています。ピ
アノには12の音があり、それぞれの音に二つの調が存在するので合計で24の調があります
。バッハはそれぞれの調で二つの曲(プレリュードとフーガ)を作ったので、合計48曲もの
大作が一つの曲集に収められました。この曲集が世に出たのが1722年、300年以上も前で
す。
ある人はこの曲集を音楽の旧約聖書と呼んでいました。そのことからも詩編との近しさ
を感じる部分があります。
私が今回弾いたのは、4声のフーガと呼ばれるものです。プレリュードはシャルル・グ
ノーのアヴェ・マリアの伴奏として用いられているので、聞いたことがある人もいるでし
ょう。しかし、このフーガに馴染みのある人は少ないかもしれません。私はこの曲の中に
教会の響きを感じます。
好きな曲ですが、実は、一度この曲を弾くのを挫折しています。プレリュードは構成が
非常にシンプルで弾きやすいです。その勢いでこのフーガに取り掛かると痛い目に遭いま
す。この曲は4つのパートに分かれており、あまりにも複雑でとても覚えきれず、曲全体
を捉えきれなかったのです。しかし、今回様々なことが重なり、再びこの曲を弾きたいと
思いました。弾いてみたらやっぱり難しくて、やめようかなと何度か思いました
。
しかし、ある解説を聞いてこの曲が非常にクリアになりました。
フーガというのは一つの短いメロディ(モティーフと呼ばれる)が繰り返し表れて一つの曲
になっていきます。4つのパートに分かれてはいても、同じモティーフが、様々な場所で
、時には始まりの音を変えながら表れることで一つの曲が出来ているのです。実際に難し
い曲ですが、そうやってみると複雑な中にシンプルで一貫した構成を見ることができまし
た。
実際に演奏を聞いてみていかがだったでしょうか。同じメロディが何度も出てきている
のが聴こえたでしょうか。さて、これが詩編119編とどのように繋がっているのでしょう
か?共に御言葉に聴いてまいりましょう。
詩編119編の解説
聖書の中で最も長い章。何と176節もある。この章を最初から読んでいくと、少し難し
くとっつきにくいと感じる方もおられるかもしれない。さながらバッハのフーガのようだ
と最初に思った。途中によく分からないカタカナも挿入されている。これは、実はいろは
歌。ヘブライ語のアルファベット22文字を使って書かれている。途中によく分からないカ
タカナは、ヘブライ語のアルファベットの読み。
1つのアルファベット文字につき8つの行で詩は構成されている。しかも行の頭は同じそ
の1つのアルファベットから始まっている。
119編(以下節)
169~させて下さい(促意形)תִּקְרַ֤ב(tiq·raḇ)(いたらせ)
170~させて下さい(促意形)תָּב֣וֹא(tā·ḇō·w)(いたらせ)
171~だろう(未完了形)תַּבַּ֣עְנָה(tab·ba‘·nāh)(溢れさせる)
172~だろう(未完了形)תַּ֣עַן(ta·‘an)(歌うだろう)
173~させて下さい(促意形)+命令形(jussive) תְּהִֽי־(tə·hî-)(助けとさせて下さい)
174慕うתָּאַ֣בְתִּי(tā·’aḇ·tî)
175~~させて下さい(促意形)+命令形(jussive)תְּֽחִי־(tə·ḥî-)(私の魂を生かさせて)
176誤る(迷う)תָּעָה(taah)
非常に練って作られている。バッハがクラヴィーア曲集を作った時、実はこの119編か
ら着想を得たのではないか、と私には思える。全てのアルファベットを用いて神様を賛美
した詩人とこのクラヴィーア曲集は重なるのだ。そして、曲の終わりに「全ては神の栄光
の為に」という頭文字を書いていたバッハのことなので、全ての調をもって神様の栄光を
あらわそうとしたのではないか、これは証拠があるわけではないが、私にはそのように思
える。
聖書は神の霊感によって書かれた書物だと私達は信仰をもって宣言するが、その書物は
時に、これほど技巧的に緻密に計画性をもって書かれているのだ。ものすごい驚きと共に
感動をする。私達が信仰をもって聖書を読み、主に祈り教会の歩みを進めていくときに、
時に大胆に信仰をもって約束の地に赴いたアブラハムのように進む必要があり、時にこの
詩編119編のように綿密な計画をもって主に従っていく必要があるのではないか。詩編119
編を読んで教えられたことだ。そして、構成は緻密に作られているかもしれないが、メッ
セージと見るべき方向は一貫しているということをひとまず覚えていただきたい。
どこを切っても賛美になる
171わたしの唇から賛美が溢れるでしょう(タヴ)
溢れる→bubble up→泡になって吹き出る
172わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう(タヴ)
(sing responsively) (反応などについて)積極的に歌う→御言葉に賛美をもって応答する
119編の中にある直接的な賛美の言葉↓
164一日に七たびあなたをほめたたえます。(シン)
→定め・み言葉・おきて(律法)・さとし・戒め(道・あかし・約束)を教えて下さるから。
143あなたの戒めは私の喜びです(レーシュ)
129あなたのあかしは驚くべきものです(コフ)
114あなたはわが隠れ場、わが盾です。(ツァディク)
111あなたのあかしはわたしの喜びです(ぺー)
105あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。(アイン)
103あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。(サメフ)
91よろずのものは皆あなたのしもべだからです。(ヌン)
86あなたの戒めはみな真実です。(メム)
81わが魂はあなたの救を慕って絶えいるばかりです。(ラメッド)
75主よ、わたしはあなたのさばきの正しく(カフ)
72あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです。(ヨッド)
70わたしはあなたのおきてを喜びます。(テット)
62わたしはあなたの正しいおきてのゆえに夜半に起きて、あなたに感謝します。(ヘット)
54あなたの定めはわが旅の家で、わたしの歌となりました。(ザイン)
48わたしの愛するあなたの戒めを尊び、あなたの定めを深く思います。(ヴァヴ)
40わたしはあなたのさとしを慕います。(へー)
27わたしはあなたのくすしきみわざを深く思います。(ダレット)
20わが魂はつねにあなたのおきてを慕って(ギメル)
12あなたはほむべきかな、主よ、(ベート)
7正しい心をもってあなたに感謝します。(アレフ)
あたかもバッハが同じモティーフ(主旋律・メロディ)を使って一つの曲を緻密に構成し
ているかのように。賛美というメロディはそれぞれのアルファベットの詩の中で一貫性を
もって流れている。私達は今日の礼拝で主を賛美している。様々な賛美がなされ、一人一
人が歌によって主への賛美へと向かった。私達のそれぞれの賛美もまた、この詩編のアル
ファベット一つ一つの賛美となり、一つの大きな完成された作品となり、神様に捧げられ
た賛美だと思うのだ。そしてそれこそが神様が喜ばれる賛美ではないだろうか。
賛美が溢れるのはなぜだろう?
171主が掟を教えて下さるから
定めとは、書き記され定められた律法。
172主のすべての戒めは正しいから
この戒めとは、十戒と同じ言葉。人格的な神様の命令。私を信じる民の態度はこの
ようなものになるだろう、という神様の交わりを伴った命令。
174(おきて)律法は私の喜びだから。
すべてを集約した神様の律法(神様のルール)。それが私の喜びとなる。
この詩編119編は一見複雑に見えるかもしれない。実際に綿密に計算され作られた高度
な詩。しかし、言っていることはとても明解だ。本質的には同じ言葉を様々な側面から説
明しているものだ。それは、律法だ。律法とはすなわち神様が与えられたルール。
119編で言われている明確なことは、律法は私達を助け、守り、導き、そして賛美の心
で満たし溢れさせる、ということ。
あたかも、バッハのフーガのように、一つのモティーフが曲の中で繰り返し鳴り響いて
いるように、「神様、あなたの与えられた律法は一点の曇りもなく、私達を助け、守り、
導くものです、私達はこれからも律法を大切にしていきます。律法を与えて下さったあな
たを賛美します」と、全体を通して歌っているのだ。
失われた羊を見つけ助け出すイエス様
もう一つ最も重要だと言ってもよい、覚えておきたいことがある。176節。あらゆる努
力にもかかわらず、この詩人は羊飼いの恵み深い配慮を必要としている失われた羊にすぎ
ないと告白している。
祈りと行動のどちらも必要であることは聖書が教えるところ。しかし、それにも関わら
ず、どれだけ努力をしても私たちは迷う、また間違いを犯す。まさに失われた羊だ。
しかし、私たちは救い主が来られた時代を生きている。この詩編の時代は救い主が来ら
れるのを待っていた時代。誰が失われた羊を見つけ出して救って下さる羊飼いか分からな
かった時代。しかし私達はイエス様を知っている時代に生きている幸いに与っている。そ
のイエス様が言われる。
「わたしはよい羊飼だ。私は羊飼いとして私の羊であるあなたを知っている。あなた
も羊飼いである私を知っているだろう?」
「わたしは羊飼いとして、羊であるあなたのために命を捨てる。あなたが生かされる
ために、豊かないのちを受けるために。あなたのことを大事に思っているからだ。愛して
いるからだ。それが私が十字架にかかった意味だよ。そして、復活した意味だよ。」
戒めを忘れないので捜し出してください!という詩人の祈りから、戒めを完全には守れ
ない迷う者にも関わらず、捜し出して豊かな命を与えて下さったイエス様を私たちは思い
出すことができるのだ。
私たちも詩編119編のように、一人一人がこのアルファベットの一つのようになり、全
体で一つの作品となるような賛美をこれからも主にささげていこう。
この詩編で大事にされている律法の完成者である主イエスへの賛美を。