アドベント第1週 「ろばに乗って来られる方」
ゼカリヤ書9章8~10節
今週からアドベントに入りました。12/1という月の最初にアドベントが始まるのは特別感があります。そのような年は2019年以来です。また、次に来るのは2030年になります。
アドベントは、日本語では待降節と言います。ラテン語で「到来」を表し、イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするクリスマスの前、その時が到来することを待ち望む期間です。
クリスマスの4週前からアドベントは始まり、1週ごとにロウソクに火を灯していきます。今日、1本目のロウソクに灯がつきました。クリスマスまでに、4本(あるいは5本)のロウソク全てに明かりが灯ります。その1本1本のロウソクには意味が込められてきました。1本目のろうそくは「預言のキャンドル」と言われています。また、その預言を通して人々に与えられた「希望」を象徴するのが、この1週目のアドベントです。
今日は、預言のキャンドルが灯ったことを思いながら、小預言書の一つであるゼカリヤ書から神様の言葉を聞きたいと願います。小預言書と言っても、ゼカリヤ書の特に9-14章は、福音書の受難記事の中で最も引用されている書です。今日ご一緒に開く箇所には、「到来」されるメシアがどういうお方であるか、そして、何をされるのかが書かれています。そのメシアは、「ろばに乗って」来られます。そこに「平和」と「希望」があります。
1.ゼカリヤ書
「イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ」(1:1)とあります。イドは、ネヘミヤ記12:4を見ると、捕囚の後最初に帰還した、ヨシュアとゼルバベルと行動を共にした祭司の一人に数えられています。今日の聖書教育で取り扱われたマタイによる福音書にも、1章11~12節にヨシュアとゼルバベルの名前が出てくることから、ゼカリヤ書に馴染みが出てきます。ゼルバベルは、前538年バビロンからエルサレムへの帰還民約4万2人余りの指導者として登場します。ヨシュアはエルサレム神殿を再建した時に指導をした祭司です。捕囚から帰って来た後、神殿工事が始まりましたが、様々な妨害にあい、工事は18年間中止されました。その後、神殿工事が再開されたのが前520年です。「ダレイオスの第二年」(1:1)は、アケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世が前522年に在位していることから、前520年と考えられます。ちょうど神殿工事が再開される時に神様の言葉を伝えた預言者がゼカリヤです。ゼカリヤは神殿再建工事を励ますと同時に、9-14章では終末の場面に関しても、神様から与えられた言葉を語っています。
今日の聖書箇所は、その最初の部分であり、マタイによる福音書にも出てくるとても大事な箇所です。
1.主が目を注いで守られる(8)
「そのとき、わたしはわが家のために見張りを置いて出入りを取り締まる。もはや、圧迫する者が彼らに向かって進んで来ることはない。今や、わたしがこの目で見守っているからだ。」
そのときとは、主が来られる時です。神様はご自身の家に見張りを置き、出入りを見られると言います。家は神様の神殿を越えて、もっと広い場所を指していると考えられます。私は、イエス様が来られる時に訪れる新しいエルサレムだと考えています。そこでは、誰も命と尊厳を踏みにじりに来る者はいないと言われます。それは、主の目が注がれているので、主がそこを守り、強大な権力が占領することもないからです。
主のすべてを見通す目は、ご自身の民を守り、必要を備えて下さいます。主ご自身が、その目で見守ってくださるのです。
2.主の到来の歓喜、義なる方の勝利、ろばに乗ってくる方
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。・・・」(9節前半)
この箇所は、マタイ21:5において、イエス様がエルサレムに入城する時、マタイが預言の成就として引用した箇所です。
「「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」―マタイ21:5
都は神様が娘として語りかけます。娘という言葉は、主とご自身の民との人格的関係を表しています。人格的な関係をもってくださる王がここに来られる時、それは踊らずにはいられない、歓喜の時です。そのような喜びの時がイエス様が来られた出来事でした。
「・・・彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(9節後半)
神に従い、という新共同訳の言葉は、王なる方は義なる方である、と原文では書かれています。この「義」は、動きのない「義」ではなく、ただ見ているだけの「義」ではありません。義によって治める、義を進めていく王の行動について義だと言われています。
悪が絶えずにその罪を罰せられることなくまかり通り、その一方で無実の者が苦しんでいる時があるように思うかもしれません。しかし、義なる方は勝利を与えられた方です。義が勝利し、義人が守られると約束されることは、大きな喜びと励ましとなります。
義なる方の勝利は、その王が試練を通ってきて、その中で神様の解放を経験したから得られた勝利です。それはまさにイエス・キリストの十字架と復活の生涯です。それは神様の恵みと力による勝利であり、私達もその勝利に与かることが許されています。
その義なる方であり、勝利者である方は、ろばに乗って来られる方です。
士師の時代には、王子がろばに乗ることは自然な光景でした。また、イスラエルの王ダビデもエルサレムから逃れる時にはろばが提供されました。ろばは王が乗るにふさわしい乗り物と言えるかもしれません。しかしまた、預言者ゼカリヤは、神様からの言葉を10節で告げます。
3.完全非武装
「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」(10節)
戦車も武器としての弓も武装した馬もなくすと神様は言われました。その戦いの馬ではなく、ろばで来られると神様は言われるのです。したがって、ろばは平和の使者として来る人にふさわしい乗り物です。そして、イエス様が救い主として来られた証拠として、この箇所はマタイによって引用され、イエス様は平和の王としてエルサレムに入城されたのでした。
「エフライム」は、北イスラエル王国初代王のヤロブアムが、エフライム族出身であることから、北イスラエルを指すようになりました。エルサレムは南ユダ王国を指しているといってよいでしょう。戦い合って分裂した南北から武器がなくなり、平和が訪れるのが王の到来なのだと約束されています。全ての国の民の幸せに配慮する力ある支配者がいる時に、それらの武器は全く調和しないからです。
その王の支配は、「海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」と言われます。特別な領地の名前はありません。なぜなら、この王は全ての人が待ち望み、忠誠を誓うべき方だからです。特定の領土を武器によって守り奪う方ではなく、地の果てに及ぶすべての国々と人々を守られ平和をもたらす方だからです。
世界平和が実現されるとしたら、唯一の現実的希望は、この王にかかっているのです。もっと言うなら、一人一人が、王はロバに乗って来られる平和の王であり、その平和の王こそが義なる方であり、その平和に勝利があるのだと知ることです。これは一見理想に見えて、最も現実的な希望だと、聖書から教えられるのです。
暴力という終わりのない連鎖に頼るのではなく、「敵をも愛する」という新しいやり方によってこそ、すなわち敵を理解し和解の道を求めるという新しい方法によってこそ、神様の支配・神様の平和は実現します。神様の力によって励まされた人々、イエス様の生き方に倣おうとする人々には決して不可能な道ではありません。暴力と戦争が絶えることのない現代においても、ろばに乗って来られるお方、イエス様の示した道の衝撃はいささかも衰えることはありません。
暴力と戦争のニュースを毎日聞く今こそ、私たちはこのろばに乗って来られる平和の主イエス様の誕生をお祝いする日を心待ちにし、クリスマスを迎えたいのです。
ろばは、ウマ科の中では一番小型です。しかし、力が強く、人も荷物も運んでくれる存在です。私達も、小さいけれど、力強く生きることができます。そのろばに乗ったイエス様をお迎えするからです。私たちの希望は待ち望む次元に存在します。勝利の主がロバに乗って来られる、という約束が聖書の真実である限り、その約束を待ち臨むところに希望の灯は常に灯り続けます。預言のキャンドルに灯った希望の火を、神様から私たちの胸に灯していただき、クリスマスを待ち望みましょう。