「信仰と希望と愛に生きる教会」 コリントの信徒への手紙Ⅰ13章8~13節

「信仰と希望と愛に生きる教会」

コリントの信徒への手紙Ⅰ13章8~13節

 昨日は、伝道開始31周年を記念してチャーチコンサートを開催しました。地域の方にも

来て頂くことができ、この喜びを共にすることができたことを主に感謝します。そして今

日は、伝道開始31周年を記念して礼拝をお捧げしています。1989年に藤沢北部に教会を作

ることが決まりました。準備的な活動として、一人の兄弟の家で集会が始まり、90年に湘

南台公民会館に移動して集会を持ち、93年に正式に湘南伝道所として開かれました。湘南

台駅西口のビルを借りて礼拝をささげ、99年に東口のビルに移動して礼拝を続けました。

そして、2003年に現在の建物を購入し、以来21年に渡りこの場所で礼拝を捧げています。

ここに来るまでに4つの場所を移動してきました。荒れ野を旅するイスラエルの民を思い

起こさせます。

 1993年に第一代牧師李志堅師を迎え、1998年に第二代牧師李キョンヨル師、2004年に

第三代牧師坂元俊郎師、2023年に第四代牧師西野修平が就いています。

 私たちの教会は、伝道開始30周年を迎えた昨年、これまで掲げてきた新会堂を建てると

いうビジョンを一旦取り下げ、「信仰と希望と愛に生きる」というビジョンを掲げて新た

な歩みを始めました。主にある希望を語る牧師になりたい、と願っていた私のビジョンと

も一致するビジョンが湘南台バプテスト教会に与えられていることを主に感謝し、今年度

の歩みを進めています。また、この31周年を迎えるに当たり、記念の証し集を発行したい

という願いが叶いました。一人一人が信仰の歩みを証しとして残すことができたのは、大

きな恵みです。信仰の歩みは、希望の歩み、愛の歩みです。ビジョンを土台としたのが証

し集であると感じています。

 今日は、教会のビジョンである「信仰と希望と愛」が記されている聖書の箇所から、こ

のビジョンの土台を神様からもう一度共に教えて頂きたいと願っています。そして、この

土台の上に、続く40周年への歩みを進めて行きたいと願っています。

 教会のビジョンの聖書箇所は、コリントの信徒への手紙の13章13節です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなる

ものは、愛である。」

 この13章は「愛の賛歌」とも言われています。結婚式でも愛を誓う二人の前で読まれる

ことの多い箇所です。

 愛は忍耐強く、愛は情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらない。と愛の尊さを説きま

す。パウロは13章に入る直前に言います。「あなたがたに最高の道を教えます」と。その

最高の道がこの「愛の道」なのです。そして私が北九州にいる時に聞いたのは、この愛と

いう言葉に「イエス・キリスト」を入れると、神様がよく分かる、ということでした。イ

エス・キリストは忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらない。まさにイエス

様の十字架に至る道と十字架上での死を表しているのが愛です。十字架の道は、神様の愛

の道だったのです。

 今日は、8節から13節までを通して、愛の究極的な事実を3つ確認したいと思います。

1.愛は永遠

 「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」(8)

 愛は永遠です。人間が誇るすべてのものは消えさります。不完全な時の中ですべてのも

のは移ろいゆきます。しかし、ただ愛だけは存続します。征服できないただ一つのもの、

それは愛です。クリスチャンは永遠の命を信じていますが、愛が永遠であることが、永遠

の命を信じる偉大な理由の一つです。神様の愛の中に飛び込む時、時間も死も歯の立たな

い一つの関係が命の中に入ってきます。それが永遠である神様と私たちとの関係です。私

 

たち一人一人が自分では拭えない罪を持っており、その罪を拭いさるために、イエス・キ

リストが十字架に架かり、3日後に復活されることで私たちに永遠の愛を示されました。

そのことを信じる時に、私たちはその自分では拭い去れない罪を神様が拭って下さり、神

様と共に生きる人生が始まります。神様との関係の中で生きることができるのです。

2.愛は完全

「9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えて

いた。成人した今、幼子のことを棄てた。

12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔

とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、は

っきり知られているようにはっきり知ることになる。」

 完全なものが来る、と預言されています。それはイエス・キリストが再び来られるとい

うことです。私たちが知っているものは部分的なものにすぎません。

 パウロはここで鏡の例えを使っています。鏡の表現は、今日のわたしたちよりも当時の

コリントの人達にピンとくる言い方でした。コリントの町は鏡の産地として知られていま

した。しかし、物を完全に映す現代の鏡は、13~14世紀になって初めてできたものです。

コリントの鏡は金属をよく磨いて作られた物で、最高の品でも不完全にしか物を映すこと

ができないものでした。しかし、現代の鏡でさえも、しっかりと映しているように見えて

、それは決して本物ではありません。鏡に映っている自分の姿と写真に写った自分の姿は

反転していてびっくりしたことがあります。それは高校生の時でした。私たちは自分の姿

を自分で見ることは永遠にできません。それも私たちが知っていることは一部分であるこ

とを証明しています。

 この世では、私たちは神様を完全に知ることはできません。聖書は神様の言葉であり、

私たちは聖書を通して神様のことを知ることができます。その神様はイエス・キリストを

通して完全に現れたということを知ることができます。しかし私たちの信仰が完全ではな

い限り、神様を完全に知ることはできません。9節にあるように、私たちの知識は部分的

なのです。有限なものは、けっして無限なものを把握できないのです。

 私たちの知識は子供の知識のようなものです。しかし、愛の道は完全に知る日へと導い

てくれるでしょう。愛なしにはだれもその日に到達することはできません。なぜなら、神

は愛であり、愛する者のみが神を見ることができるからです。その愛の道の先には、神様

が待っていてくださいます。そこで、神様とはっきりと顔と顔を合わせてお会いする時が

来ます。

その時、私たちの様々な思いに対する、神様の思いをはっきりと知ることができるでしょ

う。そこに希望があります。

3.愛は最も偉大

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなる

ものは、愛である。」(13)

 信仰と希望は大いなるものです。しかし、愛はさらに大いなるものです。愛のない信仰

は冷たいものです。愛のない希望は先行きの見えない、厳しく暗いものです。

 しかし、愛は信仰を燃やす火です。そして、愛は希望を現実に変える光です。

 私は神様の希望を語る牧師になりたい、と神学校時代に思いました。その時にこの聖書

の言葉に再び出会いました。語りたいと思った希望は、信仰と愛に挟まれています。希望

というサンドイッチは、信仰と愛という確かなパンによって出来上がるのです。愛を土台

 

とした希望のサンドイッチが命のパンとして皆さんに与えられています。どうかこのパン

を食べて生かされる方が起こされますようにお祈りします。

 永遠であり、完全であり、偉大である神様の愛を頂くことができる恵みを感謝します。

この愛をどうぞ受け入れて下さい。その愛を受け入れた時、信仰と希望が輝きます。信仰

と希望と愛に生かされる人々が溢れる教会として31周年を感謝し、来たる40年へと向かっ

ていきましょう。