「貧しさの中に」 詩編102編1~12節

「貧しさの中に」

詩編102編1~12節

 

 今日は、香港のキリスト教会から証しと賛美に来てくれた方々と共に礼拝をお捧げして

います。この恵みを主に感謝します。今年に入って、香港のクリスチャンの方との交わり

の機会を多く頂いています。この出会いは神様が湘南台に与えて下さった恵みであると感

じています。

 香港と私たちをつなぐものは何でしょうか。香港にとどまらず、私たちの教会には他の

国から日本に来ている方と礼拝を捧げることが機会が与えられています。何が私たちをつ

ないでいるでしょう。それは、イエス・キリストを信じる信仰です。そして、神様のこと

が記された聖書です。証しはイエス・キリストと自分のストーリーと恵みであり、賛美は

主なる神様の御業をたたえるものです。私たちはこの共通の土台を持ち、「ハレルヤ」「

アーメン」と言うことができるのです。改めて今日来て下さり、証しと賛美をして下さっ

た香港チームの皆様に感謝いたします。そして、私たちの主をほめたたえます。

 9月終わりの賛美礼拝では、102編の19節を共に覚えました。

「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造

された」」

 この節を中心に102編は前半と後半に分かれます。102編の中心テーマは、「私たちは神

様を賛美するために創造された」ということなのです。

 このことを覚えつつ、今日は前半の節から共に神様の言葉に聞きたいと願います。

 しかし、1-12節は、苦しみの言葉、叫びの言葉が並んでいます。ここのどこに神様の御

心があるのか、と思われる方もいるかもしれません。

1節に掲げられているタイトルは、「祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎだす貧しい

人の詩」です。おおよそ神様の恵みが語られているタイトルとは思えません。この貧しさ

とは、物質的な貧しさでしょうか、それとも心の貧しさでしょうか。

 詩人は祈りを聞いてほしいと神様に祈ります。そして叫びます(2)。苦難が襲う日は、お

そらく今詩人を襲っているものです。その時、祈りを聞いてほしいと呼びかけます。

 4~12節までは、詩人の叫びが具体的になって並べられます。

 生涯は煙となって消え去る。体の最も固い部分である骨は炉で焼けるようになる(4)。

 心は干し草のように乾く。心が乾く時、感覚は麻痺し、食べることも忘れてしまう(5)。

 しかし、骨は肉に離れないでとすがる。生きようとする心があるかのようです(6)。

 荒れ野のみみずく、廃墟のふくろうは孤独を表しているでしょう。孤独であるが、目覚

めています(7-8)。

 敵がいます。外敵でしょうか、それとも自分の中にいる敵でしょうか。あるいは両方で

しょうか。その敵は自分を辱め、あざけります(9)。

 灰という燃え尽きたものを口にし、飲み物には絶えず悲しみの涙があります(10)

 わたしに主の怒りが及び、私は投げ出されたと、詩人は嘆きます(11)。

 4節で語られた生涯が同じテーマの下で語られ一連の嘆きが閉じられます。生涯は移ろ

う影であり、その生涯は枯れるのだと(12)。

 

 苦しみはこの詩編の前半を占めています。神様の御心はどこに?という嘆きです。これ

らが聖書になぜ書かれているのでしょうか。実は、これらの嘆きが残されているのも、私

たちへの恵みなのです。

 

 詩編の中には7つの「悔い改めの祈り」がありますが、102編はその5番目になります。

この102編は悔い改めの祈りです。

 この詩は、おそらく病を負った人のために作られた、「個人の救いを求める祈り」です

しかし、後半では、シオンを再び建て直す主をとこしえの王として賛美します。したがっ

て、この詩は、個人の祈りとしても共同体の祈りとしても祈ることができます。

 私たちは不完全な時を生きています。その中で様々な苦しみを抱えます。「貧しい者」

とは、この「不完全な時」をめぐる人間の苦しみを表しているのです。私たちは、直接的

な病を負った時、自分自身の限界と欠けを感じざるを得なくなります。その不完全な時の

中での限界を、貧しさという表現で詩人は残してくれています。このことに共感を抱く人

は、この詩を祈りの中で祈ることができます。

 そしてこの祈りはただ貧しいと嘆いて終わるのではありません。全ての人は時が支配で

きるかのような幻想を抱くように出来ています。おそらくは私たちが持っている罪のゆえ

です。そうではないことに気付いた時、貧しさに気付き、そして嘆きます。しかし、そこ

にこそ主なる神様の臨在に気付く鍵があります。 詩人は主がその生涯を定めて下さって

いることを知っていました。主と共にあるなら、時は日々の事ではなくなり、永遠の出来

事となります。

「あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終わることがありません」(28)

 私たちは「不完全な時」のなかで移ろいでいます。だからこそ、「わたしの神よ」と、

永遠である方に呼びかけることができることは慰めとなります。すべてのものが(天と地さ

えも含めて)変わり、うつろいゆく世界のただ中で、「わたしの神よ」と言うことは、永遠

に変わることがなく、その歳月の終わることがない方をしっかり掴んで離さないことなの

です。私たちは、自分が永遠である創造者に知られているということを知ることによって

のみ、自分の限界を、その貧しさを背負っていくことができるのです。そして、イエス様

を信じる人は、主がその貧しさを私たちのために負って下さったことを知ります。そして

これからも私たちの貧しさを共に背負って下さることを知るのです。

 そして、神の御国において私たちのうめきに耳を傾け、解放して下さった、という賛美

へと移っていきます。苦しみ呻く者が、悔い改めの中で方向転換し、光を見るのです。こ

の祈りを祈る中で、御国の希望を私たちは見出すことができるのです。

 苦しむ時があるでしょう。叫ぶ時があるでしょう。病を負った時、私たちは最もこの苦

しみの祈りが近づいてくるかもしれません。また、社会の中で不正が行われている時、世

界の中で戦争が終わらない時、この苦しみと貧しさの祈りはそのただ中にいる人にも、そ

れを見て何もできないと感じている人にも迫って来るかもしれません。自分の為にも、他

の人の為にも、この祈りは迫ってきます。

 その時、この詩編の祈りを、悔い改めの祈りとして祈ることができるかがカギとなりま

す。

 私たちは、この苦しみと貧しさの祈りでつながることができ、そして、「わたしの神よ

」という祈りで繋がることができます。どうか、「私の神よ」と呼ぶ信仰が皆さんの中に

起こされますように。そして、何より、愛なる神様が、皆さんのことをしっかり掴んで離

さないお方であることを知ることができますように。イエス・キリストが私たちの罪のた

めに十字架に架かり、三日後によみがえり、神様の愛を示してくださいました。「あなた

の苦しみ、あなたの叫び、あなたの貧しさを私は負った。」そのお方こそ、イエス・キリ

ストであり、皆さんをしっかり掴んで離さない神様です。そして、「わたしの神よ」と呼

 

ぶことのできるお方です。