「大きな光が能登にもこの地にも」

マタイによる福音書4章12~17節

 

 先週は、東口商店街の納涼祭でステージに立たせていただき、湘南台防災デイズのアピールをさせていただき、バイオリンを4曲弾かせていただきました。そのような機会を与えてくださったことを主に感謝します。お祭りでは、前日の金曜日と終わった後の月曜日に準備と後片付けにも加わらせていただくことができました。能登ボランティアでも感じましたが、一緒に何かの作業を集中して行うと、チームの絆が強まるような気がします。少しでもお役に立てたのなら感謝ですし、商店街のまだ知らない方とご挨拶もできて、よい機会を頂いたと思います。

 お祭りでも何人かの方に声をかけていただき、お話をしてチラシをお配りすることができました。地域のことを少し知ることができた気がします。また、私から声をかけるように示された方にもお話に行きチラシを配ることができました。全ては祈りから始まる、と、強く思わされた今回の出来事でした。

 

 さて、今日は、8/19-23まで行ってきた能登ボランティアで神様に教えていただいたことをそのままお伝えしたいと思います。沢山の方にお会いしました。熊本地震の時に九州キリスト災害センターが立ち上がりましたが、そこで中心的な働きをしておられたスタッフの方が、能登ヘルプにも派遣されており、8年ぶりに再会することができました。また、1月に私たちの教会も能登地震を覚えて献金を捧げましたが、捧げた先であるOM(オーエム)事務所で働いているスタッフの方も能登ヘルプに関わっており、初めてお会いすることができました。チームで働いた方もそうですし、実際に能登に行って出会った現地の方とのまじわりもありました。簡単にスライドにまとめましたので、まずは一緒に見ていただきたいと思います。


 今日の中心聖句は、16~17節です。

「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、 異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 この箇所は、イザヤ書8章23~9章1節を短く引用しています。

 「23 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。1闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」ーイザヤ書8章23~9章1節

 「闇」と「光」は、絶望から希望への変容を物語っています。

 当時、ガリラヤを含む北部パレスチナは、ゼブルンとナフタリの種族に与えられましたが、アッシリア軍の侵入によって荒らされてしまっていました。その中にあって預言者イザヤは、いつの日か征服された土地に自由が与えられることを預言しました。荒廃という絶望からの希望が語られます。


 それから時が経ち、イエス様が神の子として地上に来られた時、マタイはこのイザヤの預言の中に、イエス様が光をもたらすという本当の意味を見ました。イエス様こそが、旧約時代にもたらされると言われた光そのものであり、希望の光だと、マタイは告げます。

 その光が差し込み、民が光を見ることになると言われたのはガリラヤです。ガリラヤの正式名称は、イザヤの預言にあるように、「異邦人のガリラヤ」です。ガリラヤは異邦人に囲まれている町でした。ヨハネが捕らえられ、イエス様も捕らえられるかもしれない、となってイエス様はそのガリラヤに退かれ、そのことがカファルナウム周辺に光をもたらしました。前に進むだけが神様の御心ではないということなのだと示されます。私たちも時に一歩引き、神様の時となったら進むということが必要なのかもしれません。

 ここにイエス様が故郷を離れて住まわれ、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、ガリラヤが福音を告げる出発点となりました。そして最終的には、イエス様の十字架の死と復活の後、宣教の使命が全ての国に届くために再び弟子達が向かった場所がガリラヤです。

「16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」ーマタイによる福音書28章16~17節


 そのガリラヤは実は地理上はもうありません。しかし、マタイがイザヤの預言の中に神の国が発展しているのを見たように、「異邦人のガリラヤ」は世界中で起こされています。それが能登であり、湘南台です。

 ボランティアの初日に現地の先生がメッセージをして下さいました

 その先生は、このマタイ4:16-17の御言葉が今、能登に与えられていることを感じているそうです。能登半島は伝道が難しいところと言われていました。陸の孤島であり、閉鎖的、仏教の生活が人々に浸透している地域です。

 しかし、このことがなければ、能登に光はささなかったと言われました。今、現地に沢山のクリスチャンが神様の愛を携えて、本当の希望があることを伝えに能登に来ています。そのことが希望の光なのだと。

 しかし、まだ闇がはびこっている、とも先生は言われました。それは絶望という闇です。これから解体が進み、大事にしていたものが整理され、なくなっていきます。見える記録がなくなってしまうのです。そこには私が想像もつかないような喪失感が襲うだろうと思います

 しかし、そこに寄り添う人がいるだけで慰められる、一歩踏み出せる、そのような出来事がこれからきっと起こっていきます。先生は、そのような時にこそ、「優しい眼差しが、ここに神様の眼差しがある、とみんなが気付くことになる。」と言われました。

 神の国のドラマは始まっているのです。それは、イエス様がヨハネが捕らわれたことで、前に進めなくなったように見えて、実は異邦人のガリラヤの地に光が差し、そこから世界宣教が始まっていったような、神様の逆転劇のドラマです。神様の愛と恵みがますます広がっていくように、共に祈りましょう。


 イエス様の希望の光が差しているのは能登だけではありません。この地、湘南台や藤沢北部にもその光は差しています。ガリラヤと同じように。能登と同じように。

 以前、東北でボランティアをさせて頂いた時に、一緒にいた牧師先生がこう言いました。「僕達が神様の手となって一生懸命仕えたのと同じように、自分たちの地域でも仕えたら、教会変わるよね」。

 イエス様の希望の光は、私たちの手を通して伝わっていきます。私たちも神の国のドラマの出演者です。イエス・キリストこそが、絶望を希望に変えてくださる唯一のお方です。

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