牧師と教会シリーズ6「教会の門をくぐりやすくする牧師と教会3」

牧師と教会シリーズ6「教会の門をくぐりやすくする牧師と教会3」

ヨハネによる福音書10章16~18節

 

 8/19〜23まで能登に行ってまいりました。3日間のボランティアを終え、無事に帰ってくることができました。皆様のお祈りに感謝いたします。この出来事を思いめぐらしながら、次週のメッセージで神様の言葉を取り次ぎたいと願っています。


 さて、「牧師と教会シリーズ6」は3回シリーズで語らせていただくことなりました。

先週と先々週で、私たちは次のことを学びました。

・イエス様私たちを守ってくださる門であること。

・イエス様は救いに至る門であること。

・悪い羊飼いは羊に対して責任を持たないこと。

・良い羊飼いは羊の名前を知り、特徴を知り、その羊を守るために命をかけること。

・そのような本当の羊飼い、良い羊飼いがイエス様であること。

・その大牧者にお連れする小牧者が、教会の牧師であること。

皆さんが本当についていくべきは小牧者ではなく大牧者であること

 今日のタイトルも、「教会の門をくぐりやすくする牧師と教会」です。前回学んだこととタイトルを思いめぐらしつつ、このシリーズ最後の神様の言葉から恵みとチャレンジを受けていきましょう。


1.世界が一つになることができるのは、イエス様によってのみ(16)

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼い導かれ、一つの群れになる。」

 イエス様の凄いところは、門の中の囲いの羊以外も自分の羊と認識しているところです。ということは、小牧者たる私も、教会の羊である皆さん以外に、自分の羊がいることを認識しなければなりません。私の羊は、教会の羊、からし種の会の羊、湘南台という地域の羊だと考えています。いえ、そこにとどまらないでしょう。失われた羊は日本中に、そして世界中にいます。出会う人を失われた羊だと認識した時には、イエス様が導くことを求めている羊だということです。

 そして、イエス様はこう願っておられます。それは、全ての弟子が、ユダヤ人も異邦人も、現在の弟子も将来の弟子もすべてが、神様との関係において、また、互いへの愛において、そして世界への使命において、一つとなることです。

 この箇所には3つの重大な真理が含まれています

 (1)イエス・キリストにおいてのみ、世界は一つとなることができる。

 人間が一つとなる唯一の可能性は、お互いが神の子であるという共通の場においてのみです。世界には、民族と民族の間に分裂があります。一民族の中にも階級と階級の分裂があります。この障害を貫通し、差別を一掃できる唯一のものは、神様がすべての者の父であると語りかける、イエス・キリストの福音のみです。

(2)一人の羊飼いによって一つの群れとなる。

 一つになるということは、すべての羊がただ一人の羊飼いに聞き従い、応答する、という事実に基づきます。ひとつになるということは、ひとつの教会が組織的にまとまるということではなく、イエス・キリストに従うことで起こる全教会的な一致です。日本にも世界にも様々な教派のキリスト教会があります。それらの教会も、イエス・キリストに対して共通の忠誠心を持つことで一つとされるのです。

 能登ボランティアでは、兵庫、大阪、愛知、神奈川、そしてイギリスからボランティアの方が来て一つのお手伝いをしました。私が最後にお祈りさせていただきましたが、その時、ここにイエス様によってまとめられた一つの群れがあることを感じ、感謝の祈りを捧げました。

 (3)イエス様の言葉は、一人一人に問われている。

 このイエス様の望みを実現するために、私たち一人一人が参与できるし、参与するように招かれています。礼拝においては、私たちは説教者なしに御言葉を聞くことはできません。他の羊は、誰かが出て行って連れて来なければ集まることはできません。ここに、教会の宣教の栄えあるわざが、私たちの前に開けてくるのです。私たちがキリストの愛を知らない人を知っているなら、キリストはその人を求めておられます。私たちは、その人をキリストのもとに連れていくことができるのです。

 それはすなわち、囲いに入れられていない羊がイエス様の囲いに入り、一つの群れとなる、という御言葉に一人一人が参与することができるということなのです。ここに教会の建っている目的と使命があります。


2.イエス・キリストの従順と自発性(17-18)

「17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 十字架へと向かうイエス様が語られます。十字架と復活についてこれほど簡潔に、しかもこれほど多くのことを語っている箇所はほとんどありません

(1)イエス様はその全生涯を、神様に対する従順の行為と考えていた。

 イエス様が神の子であるというのは、どんなことがあっても神様が望まれることをする、という関係に基づいていました。イエス様にとって神の子であるということは、偉大な特権であるとともに偉大な責任だったのです。

 イエス様にとっても、私たちにとっても、神様の子であるということは、信じて従うことにのみ基づいています。

(2)イエス様は十字架の死と栄光とを一緒に考えていた。

 イエス様は死ななければならないということを一度も疑いませんでした。しかし同時に、イエス様はもう一度よみがえるということも疑いませんでした。神様に従えば苦しみを受けると確信していました。しかし同時に、イエス様は神様を信じて従うことは必ず栄光をもたらすということも確信していたのです。

 さらに、苦しみは一時のものだけれど、栄光は永遠のものであることを確信していました。私たちがイエス様に従う時も、十字架の死と復活の栄光を確信していたイエス様を思い出しましょう。安易な道を選んでおいて栄光に入ることは誰もできません。時に困難なことが押し寄せてきます。しかし、困難な道を選んだ人が、栄光を見ずに終わることは決してない、とイエス様は教えてくださっています。

(3)イエス様の死は完全に自発的なものだった。

 イエス様はその状況の犠牲者ではありませんでした。イエス様は自発的にその命を捨てられたのです。イエス様はその命を失ったのではありません。その命を与えられたのです。イエス様は殺されたのではありません。死ぬことを選んだのです。

 十字架がイエス様を刺し貫いたのではありません。イエス様が自らそれを受け入れたのです。私たちのために。

 

 

  一つの群れとなることを願い、またその時が来るだろうとイエス様が言っておられることを今日の御言葉から聴きました。その一つの群れとなるために、イエス様が私たちの罪の身代りとして、ご自身の命を与えて下さいました。

 その愛に応える生き方を、イエス様の父なる神様への従順さから学びましょう。

 皆さんは、囲いに入っていない羊と聞いてそれぞれ誰を思い出すでしょうか。全く思い出さないという人がいるでしょうか。イエス様の愛を知らない人がいる限り、全く思い出さないということはないでしょう。その思い出した人にとって、教会の門はくぐりやすいでしょうか。何が妨げるものとなっているでしょうか。それは、時には教会のシステムやスタイルかもしれません。時には愛と祈りの欠如かもしれません。イエス様を知らない人が思い浮かんだら、まずは祈ることから共に始めましょう。そして、どうしたらその人が救いの門に至ることができるか、共に祈り、考え、そして求めていきましょう。

 イエス・キリストが与えてくださった命、そして復活して再び得た命を私たちも共にいただくことができます。そのイエス様の愛に感謝しつつ、イエス様を知らない方がその愛を受け取ることができるように、共に仕えていきましょう。

 

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