牧師と教会シリーズ6「教会の門をくぐりやすくする牧師と教会2」 ヨハネによる福音書10章11~15節

牧師と教会シリーズ6「教会の門をくぐりやすくする牧師と教会2    

ヨハネによる福音書101115

 

 前回の牧師と教会シリーズ6では、イエス様がご自身のことを門であると言われた場面をご一緒に見ました。

 (1)イエス様は盗人や強盗が入ってこないように私たちを守ってくださる門です。

 (2)イエス様は救いへと繋がっている門です。イエス様が入れてくださるその囲いは、出入りすることのできる自由と解放があります。そこに永遠の命があります。

 (3)門であるイエス様が来られたのは、私たちが豊かな命を受けるためです。私たちのうちから溢れる命をイエス様は与えてくださるのです。

 そのような門であるイエス様に繋がっているのが教会の門です。私たちが門であるイエス様のことを知りそこから平安と愛をいただいていれば、教会の門は物理的にも霊的にも開かれていくでしょう。しかし門であるイエス様のことを知らずに平安と愛がなければ、教会の門は物理的には開いていても、霊的には閉ざされたままとなるでしょう。どうか、門であるイエス様のことを深く心に刻んでください。

 この章で語られるイエス様の言葉はあまりにも深く幅広いため、さらに今日と来週でしっかりと神様の言葉を共に受け取っていきたいと願っています。

 今日は、私たちがしっかりと受け止めたいのは、羊飼いであるイエス様です。

 イエス様はよい羊飼いと悪い羊飼いの特徴をこの短い節の中で余す所なく伝えてくださっています。まず、悪い羊飼いの特徴を見てみましょう。

 

1. 悪い羊飼い(12-13)

12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――

 13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

(1)雇い人にとって、羊は自分の羊ではない

 ここでは、良い羊飼いの反対は雇い人です。雇い人は真の羊飼いではないと言わなければなりません。しかも羊が屠られても失うものはありません。羊はその雇い人のものではないからです。

 雇い人は羊を気にかけません。だから、羊の命は守りません。自分の命が第一だからです。その結果は避けられない事態を生みます。すなわち、狼は羊を奪い追い散らすのです。

(2)奉仕のためではなく、愛のためでもなく、お金のためにやっている

 雇い人、すなわち偽りの羊飼いは、神様から与えられた天職としてではなく、お金を儲ける手段として、たまたまその仕事に就いた人です。

 その羊飼いは、町は暑くて住みづらいから、羊飼いの職業を選んだのかもしれません。雇い人には、この天職が持つ誇りと責任がありません。

 狼は羊にとって脅威でした。イエス様は弟子たちに、こう言いました。

 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」ーマタイ10:16

 そのような狼が襲いかかると、雇い人は全てを忘れて、ただ自分の命を救うのに夢中になりました。

 ゼカリヤは、散らされた羊を集めようとしないのが偽りの牧者の特徴だと指摘しました。

 「見よ、わたしはこの地に羊飼いを起こす。彼は見失われたものを尋ねず、若いものを追い求めず、傷ついたものをいやさず、立っているものを支えもせず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを砕く。」ーゼカリヤ1116

 報酬を目当てに働く者は、お金のこと以外は何も考えない、というのがイエス様の言いたい点でした

 

2.よい羊飼い(111415)

(1)羊を守るのは羊飼いの責任

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 (11)

 イエス様は、良いという言葉を、「本物の(まことの)」とほとんど同じ使い方をしています。

「まことの光(1:9)、まことのパン(6:32)、まことのぶどうの木(15:1)

 まことの羊飼いであるのは、羊飼いの群れのために命を危険にさらすからです。

 パレスチナでは、羊飼いは羊に対して徹頭徹尾責任がありました。万一羊に何かが起こると、それが自分の過失ではないことを、何らかの仕方で証明しなければなりませんでした。羊飼いは、羊が死んだこと、その死が不可抗力であったことを証明する証拠品を持ち帰らなければならなかったのです。

12もし、野獣にかみ殺された場合は、証拠を持って行く。かみ殺されたものに対しては、償う必要はない。13人が隣人から家畜を借りて、それが傷つくか、死んだならば、所有者が一緒にいなかったときには必ず償わねばならない。」ー出エジプト記22:12−13

 羊飼いにとって、自分の群れのために命を賭けるのは、当然のことでした。    実際に羊のために命を捨てることもありました。特に強盗が群れの羊を奪いに来る時にそれは起こりました。

 羊飼いと羊は、狼や強盗の攻撃があるかもしれない野原に、危険と常に隣り合わせでいるのです。しかし、真の羊飼いは、危険を犯すことを決して躊躇しません。

(2)愛が動機。召命は奉仕のため

 本当の羊飼いは、その仕事に文字通り生まれついていました。彼は歩くようになると、もう群れと一緒に歩かされたのです。彼は羊飼いと呼ばれながら成長しました。羊は彼の友であり仲間となりました。

 自分のことを考えるより先に羊のことを考えること、それが羊飼いの天性となったのです。愛のために働く人は、何よりもまず、自分が仕えようとしている人々のことを考えます。雇い人の、自分の命を優先して羊を置いて逃げる姿とは対照的です。

(3)羊の名前と声を知っている。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 (14)

「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(15)

「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 」とは、10章最初の例えの考えのもとに建てられています。

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」ー10:3

 羊を愛し、羊の命を自分より先に考える羊飼いは、羊の名前まで知っています。その特徴も知っています。また、羊も家族のように結びついているその羊飼いを知っているので、信頼してついていくのです。15節の父と子が深く結びついているように。

 

3.イエス様はよい羊飼い

 イエス様は、103節ではよい羊飼いの特徴を述べます。しかし、今回は、イエス様は単純に良い羊飼いが羊にすることを述べてはいません。その代わりに、イエス様ご自身が良い羊飼いであることを明らかにされます。

 イエス様はよい羊飼いです。イエス様はその羊を深く愛し、その羊の安全のために危険を犯し、ついにはその命を私たちのために与えられました。 

 大牧者であるイエス様は、羊である私たちの名前を知り、思いを知り、私たちを守るために命をかけてくださったのです。

 

 今日与えられた御言葉からまず私に与えられているチャレンジがあります。

私には湘南台バプテスト教会の羊を養う羊飼いとしての役割があります。一人一人の名前を知り、思いを知り、一人一人の救いと成長のために祈り、関わる。ここでイエス様が言われていることに倣い、牧者としての役割を果たすことが教会の羊飼いである牧師の使命だと改めて示されています。雇い人としてではなく、お金のためではなく、自分のことを第一にするのではなく、羊のことを先に考えるような牧師になりたい、と切に願います。

 しかし、同時にもう一つのことが示されました。大牧者はイエス様お一人です。大牧者のみが、羊を本当に養うことができます。私もイエス様の元にあっては羊飼いではなく、羊です。しかし、神様と教会に託された羊飼いとしての役割があります。そういう意味では、私は小牧者と言ってもよいのだと思います。

 牧師が小牧者の自覚を持つことは大切な気がします。なぜなら、真のよい羊飼いはイエス様お一人であり、自分が大牧者だと勘違いしてしまうと、イエス様の思いを無視して自分の思いで教会を引っ張ることになるからです。

 また、皆さんが教会の牧師を大牧者だと勘違いしたらどうなるでしょう。間違って小牧者である牧師についていく、ということが起こりえます。皆さんがついて行く必要があるのは、大牧者であるイエス様です。小牧者である牧師は、大牧者へと皆さんをお連れするのが究極の役割だと私は信じています。言い換えるなら、皆さんが本当にイエス様のことを知り、イエス様に心から信頼していくことができるように仕えるのが小牧者である牧師の使命だと私は思うのです。そのことが忘れられてしまうと、牧師が変わった時、本当の大牧者が見えず、狼に追い散らされる群れとなるでしょう。それはまた、聖書のみを教会の土台として歩んだバプテスト教会の理念にも反します。

 

 さらに、よい羊飼いの元へとお連れする門が教会であり、私たちです。まずはよい羊飼いに覚えられていることを心に刻みましょう。

「よい」というのは、カロスというギリシャ語です。それはただよいということではなく、「よい」ということの中に、魅力的で人をひきつける要素がある「よい」なのです。

 私たちが病院に行って、「あの人はよいお医者さんだ」と言う時、それはただ診断が的確だ、という能力だけを言うことはほとんどないでしょう。その代わり、自分の訴える症状をしっかりと聞いてくれて、その症状が緩和するためにさらに深く今度は状況や気持ちすらも尋ねてくれ、治るための最善を尽くそうとしてくれ、一緒に頑張ろうと声をかけてくれる人ではないでしょうか。そんなお医者さんには安心感があります。また、この人に任せて頑張ってみよう、と思えます。

 同じように、私たちの人生の「よい」お医者さんであり、羊飼いであるのがイエス様です。私たちは「よい」イエス様に覚えられ、守られています。

 そんな「よい」人のことを聞けば行きたくなるような、魅力的な羊飼いであるイエス様です。この教会の門から入る人が順番待ちになるような、魅力的な羊飼いであるイエス様です。

 

 教会が教会の門をくぐりやすくするには、私たち一人一人が「よい」イエス様を伝える準備が必要です。そしてその準備は、よい羊飼いであるイエス様を心に刻むことから始まります。