「平和は悔い改めと赦しから始まる」 ルカによる福音書17章3~4節

「平和は悔い改めと赦しから始まる」

ルカによる福音書1734

 

 本日は平和礼拝を神様にお捧げしています。シオン人形劇団の皆さんにも公演をしていただきました。約5年ぶりの公演だったということもあり、久しぶりに観られた方にも懐かしさがあるでしょう。また、演じる側にも感慨深いものがあるのではないでしょうか。初めて人形劇を見た方はどんな感想を持たれたでしょうか。私はこれまで人形劇をあまり見たことがなかったのですが、シオン人形劇団の公演を今回初めて見て、とても引き込まれるものがありました。それは人形の動きや表情、そして声で演じている方の演技の素晴らしさと、全てがマッチしているからです。その時、劇の持っているメッセージがリアリティを持って迫ってきます。そして、それは聖書のメッセージ、神様のメッセージです。

 今日演じてもらった劇のタイトルは、「ロバ君と仲間たち」でした。そして、そこに込められたメッセージは「悔い改め」と「赦し」です。平和を考える上で不可欠な神様からのメッセージです。

 

 8月は平和を覚える月としてバプテスト連盟でも、私たちの教会でも大事にしています。その平和を8月に覚えると言う時、第二次世界大戦の惨状を切り離すことはできません。日本には大きな被害がありました。8/6に広島に原爆が落とされたことで、広島では約14万人の方が亡くなりました。8/9に長崎に原爆が落とされた時、約長崎では約74000人の方が亡くなりました。広島にも長崎にも日本人だけではなく、日本に宣教に来ていた海外の方や、日本に強制連行されてきたアジアの方々もおられ、その方々も犠牲となりました。

3/266/23に起こった沖縄戦では、約19万人の方が亡くなりました。沖縄出身の方は、約122千人で、そのうち住民は94千人です。沖縄県民の四人に一人が命を落としました。

 日本全体での戦死者230万人、民間人80万人が亡くなりました。これが日本の受けた被害です。

 同時に、日本は加害者でもあります。日本が占領したフィリピンでは、民間人の方100万人以上が亡くなりました。同じく、19421月日本が侵攻してオランダから奪ったインドネシアでは400万人の犠牲者が出ました。シンガポールは19422月から日本が占領し、5万人以上の人々が亡くなりました。中国1000万人の方々、韓国では20万人の方々が亡くなりました。

 戦争は悲惨です。それは、被害者の面と加害者の面のどちらか一方だけにとどまることはできないからです。そして戦争に加わった以上その罪から逃れることはできません。日本は被害者でもあり、加害者でもあるのです。

 そしてこれだけの惨状を経験してもなお、世界では今もなお多くの戦争が起こっています。202310月から続いているパレスチナ・イスラエル戦争では、パレスチナの死者約4万人、イスラエルの死者1400人以上と言われています。

 2022年のロシアのウクライナ侵攻以来、ロシア兵5万人以上 ウクライナ兵31千人 民間人3万人以上が亡くなっています。

 世界には戦争という罪が蔓延しています。戦争という病におかされているということもできます。

 双方、それぞれの命にそれぞれの人生があり、それぞれの物語があります。その命と物語が一瞬で終わってしまうのが戦争です。そして命の突然の終わりを告げられた家族には消えない悲しみが残ります。時には憎しみへと変わります。その炎は簡単に消すことはできません。

 世界は何かが失われています。完全ではない世界に欠けているものは何なのでしょう。

 

 平和礼拝を捧げている今日覚えたいのがイエス様の言葉です。そこに神様が与えてくださる平和への道があると信じています。

 

1.戒め、悔い改めれば赦す(3)

「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。」

 イエス様は言います。罪を罪のままにしておくな、と。1−2節ではイエス様は非常に厳しい言葉を投げかけていますが、これこそ戒めです。相手を罪に誘うようなことをしてはならない、とイエス様ご自身が私たちを戒めてくださっているのです。そのような罪に対しては、そのままでいいとは神様は言わないのです。罪は、神の民の共同体における障害物です。だから、戒めることが必要ですし、悔い改めが必要なのです。

 もしロバ君が自分のしたことを分かっていなかったとしたら、羊の牧師さんも含めて、まず、ロバ君がしたことは悪かったのだと、戒めたでしょうし、それは必要なことでした。しかし、ロバ君は自分自身で悪いことをしたと気づき、自ら戒め、「ごめんなさい」という勇気を持ちました。戒めと悔い改めがなかったら、再びその仲間に入ることを、実はロバ君自身が拒絶することになったでしょう。

 しかし、罪を犯した人が共同体の交わりへと回復するのを妨げてはならない、ともイエス様は言われます。                                                                                         

 イエス様が求めているのは、第一に戒めという対決、そして第二に赦しの準備です。放蕩息子の例えに出てくる兄のようではなく、罪人と距離を取って立つのではなく、積極的に兄弟姉妹の関係の回復を求めるのが、イエス様に従う人だ、とイエス様ご自身が言われているのです。

 ここに出てきた仲間たちは、ロバ君が悔い改めたかどうか最初は分かってはいません。でも、赦す準備をしている仲間として、ロバ君を待っています。

 

27回赦す(4)

一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

ユダヤ人教師(ラビ)の諺に、「三回赦す者は完全な人間である」、というのがあります。しかしイエス様は、それを二倍にしてさらにもう1回加えました.

 罪を犯しても、戒め、悔い改めるなら、徹底的に赦すようにイエス様は求めています。これは大げさなことではありません。むしろ、人生が慈愛の神様に向けられている人々の日々の生活の一部だということなのです。                                                                                            

 そうすることで、日々弟子であることをイエス様は要求しています。                            「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」ールカ9:23

 

3.からし種一粒ほどの信仰があれば(6)

 信仰こそこの世で最も偉大な力です。                                                                            

 たとえ不可能に見えることも信仰をもってあたれば可能になる、とイエス様は言われます。

 戒めること、悔い改めること、赦すこと、「そんなことはできっこない」と言いながらやるのなら、おそらく達成されないでしょう。しかし、「ぜひともそれをしなくては」という気持ちで取り組むなら、きっとそれを成就する機会は与えられるでしょう。

 わたしたちは、ひとりで進んでいるのではありません。神様が共にいて力を与えてくださるということを常に思い出さなければなりません。からし種という本当に小さい一粒の、「神様が平和のために私を用いてくださる」と信じる信仰が私たちにあるかどうかが問われています。                                                                                                                                        

 どうしても赦せないことがある場合もあるでしょう。不正によって赦せないことが起こった時、相手に戒めを聞き悔い改める心が起こされない時、正義を求めて裁判で戦うということも間違いではありません。実際、赦せない気持ちを自分に隠したまま赦すと言っても、心は苦しくなるだけです。赦せない、と心から叫んだ時に進んでいくこともあります。私たちには素直な心が必要です。

 しかし、それでもなお、神様の救いに至る道は、戒めと悔い改めと赦しの道です。世界においても私たちの日々の生活においても、平和が壊れるのは、戒めと悔い改めと赦しが欠けている時です。

 

「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」―マタイ59

 

 

何より、私たちを戒め、その上で私たちの罪を赦すと言って十字架でご自身を与えてくださったイエス様に、私たちの悔い改めの心を持って行きましょう。そして神の民の共同体に加えていただきましょう。完全な平和はそこからしか始まりません。そこから始めましょう。