「もし碑文を残すなら」 使徒言行録17章22~34節

「もし碑文を残すなら」   使徒言行録172234

 

 8月に入りました。8月は、大多数の日本人が、帰省ラッシュを覚悟してでもふるさとに帰り、お盆休みを過ごす時期でもあります。その時、お墓参りをすることが多いでしょう。お盆は、彼岸の時と並んでお墓が注目される時期でもあります。私は今年は時期をずらして9月に帰省をしますが、その時お墓参りをしようと思っています。またこの時期、湘南台バプテスト教会のお墓にもまた行きたいと思います。その際、目を惹きつけるのが、墓石の碑文です。湘南台のお墓がある霊園にも様々な碑文を見かけます。そこには、「感謝」、「ありがとう」「希望」「愛」などの碑を見ることができます。当たり前かもしれませんが、「無慈悲の限りの一生」とか、「呪われるべし」などの恨み節や呪いの碑文を見つけることはできません。ちなみに、湘南台バプテスト教会のお墓の碑文には、「わたしは復活であり命である」と刻まれています。

 お盆は、人のことや、死後のことについてふと思いを巡らす時です。有名な古代ローマからある言葉、「memento mori(メメント・モリ)(「死を覚えよ」「死を忘れるな」という意味)とつぶやくことも無益ではありません。一瞬でも哲学的になるのは、それほど不思議なことではありません。

 お墓を建てたり、碑文を刻むのは、生きた証しを残したい、あの出来事を風化させたくない、その思いの集大成ではないでしょうか。せめて、家族・親族・関係者という狭い範囲だけでも、私の生きた証を風化せずに伝えたい。そんな思いの集まりが、お墓であり、墓碑銘だと思います。

 

 しかし、現代では墓碑だけではなく、様々な形で人は記録を残そうとします。今、「ブログ」から始まり、「フェイスブック」、「ツイッター」、「インスタグラム」、「TikTok」とSNSがすさまじい勢いで浸透しています。ある人は、短文で、ある人は長文で、公開日記のように自分の心の叫びを分かってほしいとそれらのSNSに書き込みます。ちなみに、「ログ」は英語で航海日誌という意味があります。「ブログ」は「ウェブ・ログ」の略です。すなわち「ウェブ上の航海日誌」です。自分の人生という航海の日誌をインターネット上に残す行為です。

 これらの行為は、IT時代の碑文と言えるかもしれません。

 しかし、サーバーの故障やウィルス作成に通じた人の手にかかると、ブログに書き込んだ碑文は変容し削除されるということも起こりえます。あるいは、AIによってフェイク動画も散乱している時代です。また、書いた思いが他の人には別の思いで受け取られトラブルを起こすことも多い時代です。どんなに技術が進歩しても、公平に、正確に、丸ごと情報を伝え保存することは難しいことかもしれません。しかし、そうだとしても人はその書き込みを続けます。それはまさに、自分の生きた証を残したい、誰かに自分の思いを伝えたい、という思いが根本にあるのかもしれません。

 

 2千年前、パウロという人も、アテネに行った時にある碑文を見つけました。アテネの人々にはよく知られていた祭壇の碑文でした。そしてそこに目をつけました。今日は、そこから私たちそれぞれが、どんな碑を立てていく必要があるのか、御言葉に聴きたいと思います。

 

 アテネはパウロが第2回目の伝道の旅に出かけた時に、コリントに行く前に滞在した町でした。パウロはアレオパゴスの丘と呼ばれる場所の真ん中に立って伝道メッセージを始めます。その初めに皆を注目させたのが祭壇の碑文です。

 

1.知られざる神(22-23)

「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」

 パウロはアテネの人々を全否定をしません。相手の肯定から入ります。「あなたがたは信心深い」と。しかし、暗に信心の対象が間違っているとメッセージを込めます。パウロは、アテネの人々が知らない神を教えると言います。それはどのような神様なのでしょうか。

 

2.造られたものではなく、造り主(24)

「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」

 パウロは、「神は名無しの権兵衛ではない。宇宙を創造された存在で、人間の歴史に介入され、今も私たちの生活の場に働いておられ、『ヤハウェ』というちゃんとした名前のあるお方だ」と伝えたことでしょう。その神様を、エルサレムの神殿にすら閉じ込めることができないなら、どうして実際には存在しない神々をまつっているアクロポリスの丘の神殿に神様が住むでしょうか。人間が神様を造ったのではなく、神様が人間を造ったのです。人間だけでなく、天地とそこに住むすべてのものを造ったのです。神様が造り、秩序を造って下さっているのがこの世界です。しかし、その秩序を破壊するのは人間です。

 

3.人間が本能として熱心に追い求める神(27)

「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」

 神様が人を造られたから、人間は本能として造った親である神様を心のどこかで求める存在です。そして、探せば見つけることのできる神様です。なぜなら、パウロが言うように、神様は近くにおられるからです。

 

4.裁き主(30-31)

「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

 神様は私たちの造り主であると同時に、裁き主です。イエス・キリストがこの世に来られる前、暗闇の中では人は神様を完全に知ることはできませんでした。しかし、今は、イエス・キリストの光のもとに、神様がどういうお方であるのかが、完全に鮮やかに示されました。今や神様の真理が表されているのです。その真理とは、私たちに悔い改めが必要だということです。裁きの日は必ず来ます。一人ひとりに、そしてこの世界に。

 当時も様々な哲学者が人生について議論を交わしていました。エピクロス派は、人生は無限に広がっていくものと考えました。ストア派は、人生は神に吸収されるための通路と考えました。しかし、人生は、神の裁きの座にいたる旅路です。イエス・キリストが裁き主です。そのことが真実であるといえるのは何故か。それがイエス・キリストの復活の出来事なのです。旧約聖書の時代から語られた神様の出来事は、絵空事ではなかったということをイエス様が証明したのです。

 アテネの人々が最初に学ばなけれなばならなかったのは、「・・・また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、」(ーⅠテサロニケ19)ということでした。

 

5.人々の反応(32-34)

 「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。

しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」

 魂の死をアテネの人々は信じていました。しかし、復活に関してはアポロの声明を彼らは信じていました。すなわち、「人がひとたび死に、地が彼の血を飲み干したら、もうよみがえることはない」。

 だから、ある人達は、復活の考えをばかげているとあざ笑いました。

 あとで聞こうと言った人たちも同様に復活について懐疑的でした。彼らは結論を延期したのでした。

 しかし、信じて神のことばを受け入れた人も何人かいました。アテネでは、パウロは思うように受け入れられなかったので相当落ち込みました。しかし、ディオニシオは、アテネの最初の司祭になったと伝えられています。ダマリスという女性は、おそらくその演説を遠巻きに聞いていたのでしょう。福音は、男女のあらゆる立場と地位とを問わず宣べ伝えられたのです。

 今日では、アレオパゴスのパウロの宣教が銅板に刻まれ、アレオパゴスの丘の登り口に置かれています。「知られざる神に」という碑文の代わりに、これが彼らの碑文となったのです。パウロの宣教は、パウロが上手くいかなかったと思った思い以上に、神様が用いられたのです。

 

 

 聖書は、パウロがギリシャの哲学者たちに議論を投げかけたように、皆さんに対しても、

「地上の見える記録(エピタフ)にこだわりますか、それとも、死後の見えない世界という永続する碑文を受け入れますか」と投げかけています。この8月、お墓参りの時、死についてぜひ考えてみて下さい。私が「死んだ後は」、私の「魂はどこに向かうのだろうか」と具体的に考えてみることは、故郷でのひと時をより一層貴重なものにするでしょう。科学技術が発達した現代にあっても無駄でないばかりか、一層必要なことです。本当は誰もが抱く思いです。

 そして、神様が造り主、支配者、裁き主であること、そしてイエス様の復活を思い起こしていただきたいと願います。イエス様の十字架と復活は皆さんの罪を赦すためです。そして、神様の方へと向きなおすためです。

 

 皆さんが碑文を書く時、「知られざる神に」ではなく、「死んだら終わり」でもなく、「イエス・キリストは私の救い主」でありますように。こう告白した時、それは心に刻まれ、天に記され、消えることのない碑文となります。