「創造主のエネルギー」 コヘレトの言葉12章1~2節

「創造主のエネルギー」   

コヘレトの言葉1212

 

 7月も終わろうとしています。7-8月にかけては、海や川や山に繰り出してエネルギーを発散させる季節です。ちょうど夏の甲子園も行われ熱気であふれています。太陽の光を全身に浴びて歩む時です。子どもたちや若者たちの姿がまぶしい季節でもあります。

 私も、からし種の会の顧問として8月にかけていくつかのキャンプの行事に関わります。子どもたちのエネルギーには本当に目を見張るものがあります。どこからそれだけのエネルギーが生まれてくるのかというくらい、全力で楽しむ姿にほほえましくなり、時に元気をもらいます。

 ただ、同じテンションで同じようにエネルギーを発散できるかというと、それは難しくなってきた、とも思うことがあります。スポーツを一緒にやる時も、なるべく怪我をしないように、と少し慎重になりながら動いている自分がいます。

 年を重ねると、「輝いている時」、「エネルギーに満ち溢れている時」、「惜しみなくエネルギーを使っている時」が懐かしくなることがあると思います。もう一度取り返せるものならば、と思うこともあるかもしれません。

 

 イスラエル統一王国の全盛期に三代目の王として登場したのが、ソロモンという人です。兄弟間の後継者争いをたくみに勝利したソロモンは、若くして偉大な父ダビデの築いた王国を引き継ぎました。才能豊かであった為、王国に華をそえました。また、贅の限りを尽くしました。一年間に使えた金の量は22.4トン(約千億円)と言います。20年かけて神殿と宮殿を建て、建物の内側も調度品も金で覆いました。

 まさにソロモンはエネルギーの発散を象徴するような、「イスラエルの七月」でした。

 しかし、晩年にソロモンは「空の空。伝道者は言う。空の空。全ては空。」ーコヘレトの言葉1:2

と、とてつもない空虚な言葉と想いを延々と書き記します。

 ソロモンのその思いと、今日の御言葉はどのようにつながってくるのでしょう。御言葉に聴いていきましょう。

 

コヘレトの言葉について

 今日の聖書はコヘレトの言葉です。聞きなれない言葉ですが、コヘレトとは、「話をするために集会を召集する人」という意味があります。集会を開いて話す人、というのは神様の道を伝える人、すなわち伝道者のことです。したがって、この書は「伝道者の書」とも言われています。

 ではその伝道者とは誰のことでしょう?直接の名前は出てきませんが、明らかにソロモンのことを指していると言うことができます。11の「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」という言葉を読む時、当時のユダヤの人もダビデの後を継いだ王であるソロモンのこと以外に思い浮かばなかったでしょう。また、ソロモンは知恵ある人として有名でした。

 コヘレトの言葉という書物自体をソロモンが書いたというよりは、受け継がれたソロモンの言葉と思いを編集した人がいるようです。しかし、ソロモンの思いが満ちている書であることは確かです。

 この書は12章からなっていますが、最初からこのような言葉で始まります。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(12)と。ものすごく悲観主義的な言葉で始まります。聖書の中では特異な書物です。ただし、そのような悲観主義自体は古代中近東には古くから知られているようでした。B.C.2300-2100には、エジプトで「人生に疲れた男」という作品が書かれていました。「人生は生きるに値するものか」、「人生は束の間のものだ」、「お前は生きている。しかし何の益を得るというのか?」と、自分自身に不平を言う言葉が書き記されています。

 コヘレトの言葉は、その悲観主義の伝統の線上にあり、その主張の多くに同意しています。「すべては塵から成った。すべては塵に返る」(320)

 しかし、伝道者の書には別の側面があります。それが創造者である神様の存在です。人に命を与え、イスラエルの中心である神殿で礼拝され、すべてのものを支え、そして裁く神様であることが語られます。

 

 空しい空しいと言いつつ、そこに生きて働かれる神様を覚えるソロモンが、コヘレトの言葉の最後に残したのが今日の箇所です。

 

1.避けることのできない苦しみ(1-2)

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。 苦しみの日々が来ないうちに。

『年を重ねることに喜びはない』と 言う年齢にならないうちに。」

 ここに招きがあります。「青春の日々にこそお前の創造主に心を泊めよ」。そのような行動へと促す動機は、人生の短さです。「青春の日々」はすぐに過去のものとなるからです。

 年齢が増すにつれて、避けることのできない衰えが忍び寄ります。「苦しみの日々」はそのような衰えが来る日々と言ってもよいでしょう。

2節の言葉も同様に年を重ねた時に近づいて来る衰えを表しています。

「太陽が闇に変わらないうちに。 月や星の光がうせないうちに。」

 特にヨブ記では、「光」が「暗くなる」ことは、喜びが失われていく様子として描かれています。

雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。」

 戻って来る「雨雲」は、悲しみが絶えることなく続くことを表しています。「たとえ嵐が止んでも、別の嵐がやがて来る」、これは、はっきりとした雨季のある国では容易に認めることのできる事実です。そのように、年を重ねて老いを経験するのは、さけることはできないということを私たちに示します。

 実際、老年期は「喪失の年代」とも呼ばれています。仕事の喪失、社会的な役割の縮小、身体疾患、知人や配偶者の喪失体験など、多くの「何かを失っていく悲しさ、わびしさ、空しさ」を体験することになるでしょう。特に、高齢自殺の90%は身体の不調を訴えていたと言われています。また、高齢の方の孤独死も大きな課題となっています。今年20241-3月には約17千人の高齢の方が孤独死で亡くなっており、年間68千人に上るだろうと言われています。

 そのような、衰えも含めた喪失の体験が、苦しみの日々と言われているのかもしれません。苦しみとは「大災難」を意味する言葉です。「大災難の日々」・・・苦しみの大きさをひときわ表すような言葉です。

 

 

2.だからこそ創造主を覚えよ(1)

 神様が覚えられないところ、無視されていったところでは、喜びの能力は失われ、喪失だけが際立ちます。そのことを知らずにいると、過ぎ去ってゆく年月が、自分でも認めざるを得ない絶望の言葉へと導いてしまうでしょう。すなわち、「年を重ねることに喜びはない」と自らで言うことになるのです。

 だから、ソロモンは言うのです。「あなたの創造主を心に留めよ」と。しかも「青春の日々に」。

 

 栄華を極めたら、ピークを過ぎたら、あとは没落と衰えが待っているだけなのでしょうか。「驕れるもの久しからず」「盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわり」は日本人の人生観の根底に重くのしかかっています。しかし、本当にそうなのでしょうか。

 

 年を取ったら、かつてのエネルギーあふれる時代をなつかしむ、そんなノスタルジアに浸るだけの日々が待っているだけなのでしょうか。

 聖書は強烈に反論します。

聖書は、持続する成長・絶えざる前進を語り続ける書です。人生に苦境はつきものです。しかし、それは二度とはいあがることのできない谷底に転落してしまうことではありません。次の成長、次の前進のためのステージのなのです。

 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」ーⅡコリント416

 人間は歳を取ります。しかし、輝き続けることはできるのです。

持続した成長は、私たちの内面において顕著に表れると聖書は強く主張してやみません。それは、神様を待ち望む限り、約束された変化です。「あなたの創造主を覚える、あなたの創造主を心に留める」限り。

 なぜでしょう。それは、聖書に出てくる創造主とは、エネルギーが決して枯渇することのない「永遠の存在」だからです。

 創造者なる神こそがほとばしるエネルギーそのものなのです。

 さらに、私たちは、このコヘレトの言葉が書かれた後に、イエス・キリストが私たちの罪の身代りとしてご自身を与えるために来てくださったことを、新約聖書から知ることができます。それは神様の愛の証です。私たちの内面が新たにされるのは、その復活したイエス・キリストが今も皆さんと共にいてくださることを知ることで起こされるのです。

 創造主のエネルギーとイエス・キリストの愛のエネルギーが、皆さんを生かすのです。外においては衰え、できることは少なくなるかもしれません。しかし、内側から新たにされ神様のエネルギーによって満たされ輝いていくことが起きるのです。

 

 

 この7月、「創造者なる主よ。復活のイエス様、今日私を生かしてください」と腹の底から叫んでみてください。その時、皆さんの内面からエネルギーが湧き上がってくることを感じるでしょう。