牧師と教会⑥ 「教会の門をくぐりやすくする牧師と教会」 ヨハネによる福音書10章7~18節  

牧師と教会⑥ 「教会の門をくぐりやすくする牧師と教会」   

ヨハネによる福音書10718

 

今日は牧師と教会⑥です。いよいよこのシリーズも後半に入りました。これまでの5回のシリーズは、おもに礼拝に関わることでした。前半5回の宣教題を改めてお伝えしますと、「希望を語る牧師と教会」、「神のことばを宣言する牧師と教会」、「神のことばを通して対話する牧師と教会」、「祈る牧師と教会」、「歌や楽器を通しての賛美を大切にする牧師と教会」でした。

 後半6回は、おもに教会形成に関わる内容です。私たちの教会がどこに向かって歩んでいくのかが問われます。今回のシリーズは、わたしが神学校で学んでいる時に、このような牧師を目指したい、と聖書から導かれたものです。しかし、これらのことは、わたしという個人の目標にとどまるものではない、と、湘南台バプテスト教会に赴任してから思うようになりました。後半の5回は特に湘南台バプテスト教会に神様がどのように語られるのか、をご一緒に聞きたいと願っています。

 今日は、「教会の門をくぐりやすくする牧師と教会」です。今日は7-10節までをご一緒に見ていきたいと思います。1118節までは、2回にわたって、羊飼いであるイエス様を共に知りたいと願います。

 

 今日の中心テーマは、門であるイエス様です。

 門とは扉です。玄関も含むと言うことができるでしょうか。もちろん湘南台バプテスト教会にも扉があります。また、お店が2つあった建物を一つにしているので扉は2つあります。初めて来られる方はどちらから入ったらよいか分からない、というような問題もたまに出てきます。しかし、基本的には入口は一つで、会堂の後ろから入ってくることになります。湘南台バプテスト教会の扉、窓も含めてよいところは、ガラス張りで中が見えるため、中にいる人が何をしているかが見えるところだと思います。実際には、本当に何をしているのかは入ってみるまでは分からないわけですが、それでも全く見えないよりも、雰囲気を感じやすいと思います。

 わたしがこの扉を意識するようになったのには2つのきっかけがあります。一つは前にもお話したことですが、わたしが20代の時、若い娘さんが命を絶ってしまったことをお母さんが報告に来てくれたことです。もし教会が入りやすい、扉が入りやすいものだったら、助けを求めに来ることは可能性としてあったのではないか、そのように思いました。

 もう一つは、同じく20代の時、教会の前をおばあさんとお孫さんが歩いているのを見かけました。お孫さんは教会を指しておばあさんにこう質問しました。「おばあちゃん、ここは何?」。おばあさんはこう答えました、「ここは入ったら二度と出られないところだよ」。わたしも言いたいことがありましたが、その時はぐっとこらえました。ただ、そう思っているということは、そう思わせ要因があったのだろうと今は思います。それは宗教の問題がニュースになった社会的要因もあるでしょうし、教会そのものが出している雰囲気もあるのかもしれません。

 

 教会の門はいのちの門(イエス様)につながっている門のはずです。その門が入りにくいと感じている社会的要因があるとしたら、それを変えていくチャレンジが教会に求められているかもしれません。平日に完全に閉ざされているクローズな教会は周りの人に教会とはどういうところかを説明する機会がありません。教会は出入りできて神様の愛と安心をいただくことのできるところだということを言葉と行いで伝えていくことが必要です。

 皆さんはサードプレイスという言葉を聞いたことがあるでしょうか。第三の場所という意味です。おもには学生の方を対象とした言葉です。第一の場所は家、第二の場所は学校、ここで大半の時間を過ごします。しかし、そこで補いきれないものを補う場所がサードプレイスです。それは遊ぶ場所かもしれません。宿題をする場所かもしれません。相談をする場所かもしれません。私たちの教会も、第13金曜日に2Fを自習スペースとして開放するチャレンジをしようとしています。地域貢献の一つの活動として用いられたいと願っています。 そして、その中でもし希望を失っている子どもがいるとしたら、本当の希望はなくなることがないということ、神様を信じて生きていく時に希望は消えないことを伝えたい、と願っています。この働きのためにも祈っていきましょう。

 また、セカンドプレイスという言葉もあります。この言葉は、高齢の方や親御さんをおもに対象として使われます。すなわち、家以外の場所です。家以外で過ごしたり人と交流を持つ場所がない方もとても多いです。そうすると、人は孤独におちいっていきます。誰かと顔を合わせたり、少しの時間でも自分の負っている荷物をおろしたりできる場所が必要なのです。それらの働きは、きっとこれから湘南台バプテスト教会でも起こされていくでしょう。

 

 また、教会の門が入りにくいと感じるものに教会自身がしてしまっているとしたらどうでしょうか。雰囲気は愛と和解の欠如から来るものがあるかもしれません。憎しみと対立があるところに人はいたいと思いません。愛と赦しのあるところに人はいたいと思うものです。そこにイエス様を信じる者の集まりである教会へのチャレンジがあります。

 セカンドプレイス、サードプレイス、そして集う一人一人がイエス様の愛によって一致し、励まし合い、支え合い、祈り合う場所としての教会になる時、その門をくぐりたいと思う人々が増し加えられていくとわたしは信じています。そのようにして門をくぐってきた人にどのように聖書の希望と愛、神様の希望と愛を伝えることができるか、このことがさらには教会の使命として問われてくるでしょう。

 

 教会の門は物理的な門であると同時に霊的な門ですが、実はイエス様ご自身が「門である」と言っておられます。イエス様が門であるとはどういうことでしょうか。共に御言葉に聴いてまいりましょう

 

1.羊の門としてのイエス様(7-8)

7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」

 門として、イエス様は、盗人や強盗から羊を守る者であることを宣言します。この門であるという話をイエス様がされたことを理解するには、当時の羊小屋のことを知っておくと理解が深まります。当時の羊小屋は2種類ありました。

 羊小屋の一つは、村自体が共同の小屋を持っていて村中の羊が夜帰るとそこに入れられました。この小屋には、用心のために頑丈な扉がつけられていて、門番だけがその鍵を持っていました。

 イエス様がここで言われる羊の門とはそのような門番をイメージすることができます。その門番が門をしっかりと閉めているから、盗人や強盗はその門に入って羊を奪うことはできないのです。

 8節にあるイエス様の前に来た盗人や強盗とは、もちろんアブラハムやモーセのような預言者のことを言っているのではありません。当時パレスチナで絶えず起こっていた、民が従うなら黄金時代を来させると約束した革命家や扇動する者たちのことを言われたのです。

革命家や扇動する者達は、血を流してでもその黄金時代を実現すべきと信じました。当時一万近くの暴動がユダで起こったそうです。それは軍人たちによって起こされました。

 イエス様はこう言っているのです、「今までに、自分が神から遣わされた指導者であると主張した人々はいた。彼らは戦争・殺人・暗殺・死などが正当であると信じていた。そして彼らはますます神から離れる方向に進んでいる。しかし、わたしの道は、もしあなたがたがそれを選ぶなら、ますます神に近づく道だ。」

 暴力、階級闘争、破壊によって黄金時代が到来すると考える人達は今も昔も存在しています。しかし天では神様に、地では黄金の時代に導く唯一の道は、愛の道であるというのが、イエス様の教えです。その愛の道を教える声を羊は聞くことができるので、盗人と強盗の声は聞かないのです。

 

2.救いに至る門としてのイエス様(9)

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」

 もう一つの羊小屋があります。暖かい季節に羊が放牧されていて、夜村に帰る必要がない場合には、羊の群れは夜になると丘の中腹の羊小屋に集められました。この小屋はただ壁に囲まれた空間でした。その壁には羊が出入りする入口が取り付けられていましたが、戸のようなものはありませんでした。そして、羊飼い自身が夜になるとその入り口に寝そべったので、羊は羊飼いの体をジャンプして超えないかぎり外に出ることはできませんでした。だから、文字通り羊飼いは門だったのです

 ここでイエス様が言われるのはまさにその門です。そして囲いは救いです。イエス様によってのみ、人間は神様に近づく道を見出すことができます。イエス様は門であり、そこを通ってのみ、人間は神様からの永遠の命をいただく招きに向かって進むことができるのです。

 このイエス様という門と囲いは羊にとって牢屋ではありません。盗人や強盗に対しては、イエス様は閉ざされた門です。しかし、イエス様を求める羊にとっては、イエス様は開かれた門です。イエス様は、約束します、「出入りして牧草を見つける」と。そこには自由があるのです。出入りできるとは、生活の安全が完全に保証されていることを表すユダヤの人々の表現方法でした。恐れなく出入りできるのです。それは、国が平和であり、法と秩序が守られ、安全な生活を送ることができることを意味しました。旧約聖書にもこのように出てきます。

「あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。」ー申命記286

 冒頭のお話で出てきた、「入ったら二度と出られない場所」ではないのです。イエス様によって神様がどのような方であるかを知るなら、安全に対する新しい意味が生まれます。

 

3.命を豊かに受けるために(10)

「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

 屠ったり滅ぼしたりというのは、動物に関係のある例えです。羊は他の群れに加えられるために盗まれるのではありません。羊が盗まれるのは食物のために屠られのであり、だから滅ぼされるのです。盗人が来るのは滅ぼすため、しかしイエス様が来るのは羊が命を受けるためです。イエス様は豊かな命を与えて下さると言います。ただ生きている、ただ安全だ、というものを越えた命です。羊や人間にとって命を保つ食物以上のものを神様は与えて下さいます。豊かなとは、「ありあまるほどの」という意味です。その豊かな命とは、神様と共にある永遠の命に他なりません。神様が共におられること、イエス様の臨在を意識する時、私たちに新しい、ありあまる命が沸き起こります。その時、「わたしは今生きている」、と心から言うことのできる命が始まるのです。

 

 私たちを守ってくださる門としてのイエス様、救いへと通じる門としてのイエス様、そのイエス様がありあまるほどの豊かな命を私たちに与えて下さることを、私たちは今日知りました。そのイエス様という門に来ることができるよう、教会の門を共にくぐりやすくしていきましょう。それは、教会そのものの日々の奉仕と、日曜日の心からの礼拝と愛と和解の実践で実現されます。

 

 今くぐっておられる方は、救いにいたるイエス様という門を通りたいという願いがますます起こされますように。イエス様は十字架の愛で、両手を広げてその門をくぐるように招いて下さっています。