賛美礼拝 「栄光は誰のもの」 ヨハネの黙示録5章13節

賛美礼拝 「栄光は誰のもの」

ヨハネの黙示録513

 

「また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、 賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」

 

 今日私たちは、様々な歌を通して神様を賛美しました。プレイズソングを通して、新生讃美歌を通して、聖歌隊の賛美を通して、特別賛美を通して。そのような賛美礼拝は初めて、という方も多くおられたと思います。戸惑われた方もおられるかもしれません。

 しかし、教会によっては毎週今日のような賛美礼拝の形を取って礼拝をお捧げしているところもあります。賛美礼拝という時には、狭義の意味では、音楽と歌を伴う賛美を中心とした礼拝、ということになります。しかし、賛美礼拝という言葉そのものには、礼拝の本質があります。そこには、証しの言葉を通しての神様への賛美ということも含まれていきます。

 

 私たちが賛美をし、礼拝をする目的は、今日の御言葉の通りです。それは、神様が賛美と栄光と力を受ける方だからです。いえ、神様のみが、と言うべきでしょう。

 私が神学校時代に読んだモルトマンという神学者の本の中に、神様に栄光を帰すとはどうことかを教えてくれた言葉があります。

「神を「栄光化する」(神に栄光を帰する)とは、神の存在とその独自の存在を喜び、この喜びを感謝と賛美によって、生の喜びと祝いによって表現することを意味する。それゆえ、神の栄光化(神に栄光を帰すこと)からは、あらゆる道徳的目的や経済利用は閉め出される。神賛美には、目的もなければ利用もない。さもなければ、神は神そのもののゆえにほめたたえられていないことになる。」ーモルトマン『神の到来』Ⅴ栄光 p476

 

 バプテストは歌を通して伝道することを大切にしてきました。したがって招きの歌も多くあります。そのこと自体は間違いであるとは思いません。また、私も賛美を通して主のすばらしさを知ってほしいと願い、コンサート活動をしてきました。先週の礼拝でも、賛美を聞く人々に、神様から招かれていることを知ってほしいという思いを私も持っているし、湘南台バプテスト教会としてもそのようなミッションを持ってほしいとお伝えしました。そして、教育的な歌、というものもあるでしょう。それらも間違いだとは思いません。

 

 しかし、私たちが神様を心から賛美して礼拝をささげようとする時、あらゆる目的は消え去ります。そして、ただ神様を喜び、感謝と賛美を捧げたいという思いだけが残ります。神様が神様だから、イエス様がイエス様だから私たちは賛美と礼拝をささげるのです。

 賛美と栄光は私たちのものではありません。もし私たちが人に焦点を当てるなら、その時、賛美と栄光の対象は私たちも含まれてしまいます。しかし、賛美と栄光は主のものです。今日の賛美礼拝は、ただ神様だけに栄光があるように、神様を喜ぶ心だけが皆さんに残るようにと祈ります。

 

 神様と子羊であるイエス様は一つであり、共に賛美を受けるべきお方です。イエス様がご自身を十字架の上で与えられ、私たちに愛を示し、3日後によみがえり、死んで終わりではない命があると教えてくださったのです。

 

 全世界も一つとなり、天にあるものも地にあるものも、誰ももれることなく、賛美の歌を神様と子羊であるイエス様にささげるように招かれています。あらゆるものの中に私たちが含まれています。賛美・誉れ・栄光・権力が、神様と子羊であるイエス様だけにあるように、喜びと感謝をもってこれからも礼拝をお捧げしていきましょう。これが礼拝の目的です。