牧師と教会⑤「歌や楽器を通しての賛美を大切にする牧師と教会」 詩篇150編

2024623日 湘南台バプテスト教会 

牧師と教会⑤「歌や楽器を通しての賛美を大切にする牧師と教会」

詩篇150

 

 今日は牧師と教会シリーズの5回目になります。「歌や楽器を通しての賛美を大切にする牧師と教会」です。少し長いタイトルになってしまいましたが、タイトルに大切な思いを込めました。また、来週私たちは賛美礼拝を神様にお捧げします。その前に賛美の持つ意味をご一緒に神様から聞き、そして賛美礼拝をお捧げしたいと願っています。

 もう皆様ご存じのように、私は歌や楽器が大好きです。特に神様を讃える賛美を歌や楽器で捧げることが何よりの喜びです。先程もギターでの特別賛美を捧げさせていただきました。初めて聞いた方はびっくりしたかもしれませんが、私としては心からの賛美をお捧げしました。

 そのように歌や楽器が好きなこと、また、好きという思いを超えて大切にしたいと願うようになったのは、いくつかの出来事がきっかけとしてあります。そして御言葉に導かれました。

 最初のきっかけは、北九州にいた時の少年少女会です。神奈川バプテスト連合ではからし種の会という名前ですが、どちらも10代の方達がそれぞれの教会から集まり、共に聖書の言葉を聞き、共に賛美し、共に思いを分かち合う会です。約5年間リーダーとして関わりました。大変な時もありましたが、人生に悩んでいた時、10代の方たちとの関わりを与えられる中で、その悩みの中で負った傷が癒されるような時間を頂きました。そのような時間の中で共に賛美をした時、イエス様の愛が自分の心に迫って来て、感動の涙が流れながら賛美を共にする瞬間がありました。神様が共におられる、その中で私を用いてくださった、ということを賛美の中で実感したのです。喜びをいただき、感謝の思いを神様に表すことのできるのが、賛美だと実感しました。その時ちょうど賛美の伴奏をしていたのはピアノでした。私の場合は、神様を賛美する時、絶えず楽器がそばにあったように思います。

 もう一つは、アメリカのギターコンテストで準優勝を頂いた時のことです。自分の限界をコンテストの場でも見ましたが、それにも関わらず準優勝を与えられたことに、神様から、賛美で仕えて生きなさい、とのメッセージを頂いたと感じました。そう感じていた時に泊めてもらっていた牧師先生が牧会している教会で特別賛美をさせていただき、歌っている賛美の歌詞が心を打ち、途中で涙し歌えなくなった程でした。その歌詞はこう歌います。「この義の道の途上にあって、時に山がとても険しいことがある。その歩みが揺らぐこともある。でも、神様の手が届かないところはない」。今でもそのように信じています。

 また、その後、このようなことがありました。私がアメリカに行ったことがある、ということを聞いて、ある方が大きな手術のための病院に入院するのでどこか滞在できるところを紹介してほしい、と友人を通して尋ねてきました。私は病院のことは全く分かりませんでしたし、実際に私が滞在した州ではないところにその方は滞在する予定と聞きました。何もできないかもしれないと思いつつ、まずはその方とお祈りをして、何人かの知人に相談しつつ、滞在先の教会と連絡を取りました。教会の方が快く受け入れて下さり、その方は半年間滞在できることが決まりました。その後、その方はもう一度私を訪ねてきてくださり、今度は私にお祈りをしてほしい、と言われました。ギターを通して、賛美で仕えたいという思いを通して、神様は様々な方を日本だけにとどまらずつなぐという役割を私に与えてくださったのだ、ということを感じました。

 さらに、神学校時代に奉仕をした教会でも、メッセージ奉仕に伺いましたが、1曲賛美をさせていただきました。礼拝後に教会の88歳の方から、「もっと賛美を聞きたかった」という言葉を頂きました。御言葉を取り次ぐという大事な働きを頂いていますが、その中にあっても、神様は礼拝で賛美を求めておられる、その賛美を通して人々に神様があがめられることを求めておられる、そのように感じた出来事でした。

 それらいくつもの神様からの賛美の恵みを頂いたことで、歌や楽器を通して神様を賛美することをずっと大事にしていきたい、と思い、ここまで来ています。それは牧師になってからも変わらない思いとなっています。

 実際に神様は賛美をどのように考えられるでしょうか。聖書には沢山の賛美についての箇所がありますが、私が特に教えられた箇所が今日の詩篇150編です。私という個人だけではなく、キリストの体である教会に対して、神様が賛美をどのように思っておられるか、共に御言葉に聴いていきましょう。

 

詩篇150

 この詩篇は、ハレルヤ詩篇と呼ばれています。実際に、この詩全体が、礼拝での叫びである「ハレルヤ」一色になっています。詩篇の最後に「ハレルヤ」という賛美が来ることで、詩編の全ては究極的に賛美への招きの書であるということができます。

 また、この箇所は、10の命令文と最後の指示文からできており、それぞれが主を賛美することへの招きとなっています。

 その賛美は、誰が賛美されるのか、どこで賛美されるのか、なぜ賛美されるのか、どのように賛美されるのか、そして誰によって賛美されるのかを凝縮して教えてくれています。

 

1.誰が賛美されるのか、どこで賛美されるのか(1)

「ハレルヤ。聖所で 神を賛美せよ。大空の砦で 神を賛美せよ。」

 ハレルヤとは、ハレル=賛美する、ヤ=神様を表すため、神様を賛美せよという意味です。すなわち、賛美は神様に向かってささげるものであることをこの箇所全体で表しています。

 神様を賛美するのはどこででしょうか?一つは、「聖所」で、そしてもう一つは「大空の砦」とあります。大空の砦という高い場所が、神様が全てを支配される最高の主権者だと表しています。その全てを支配される方を私たちは今日礼拝堂で賛美しています。イエス様は、二人、または三人のイエス様を信じるところにイエス様もいてくださると言われました。すなわち、主が共におられるところどこででも主を賛美するようにと招かれているのです。礼拝のために取り分けられた(聖なる)場所が教会であるのは確かです。ここで私達は喜びと感謝を携えて主を礼拝し賛美します。しかし、大空は地球の全てを覆っています。神様が支配されるこの地上は、そして神様が共にいてくださる場所はどこででも賛美の場所となるのです。

 

2.なぜ賛美されるのか(2)

「力強い御業のゆえに 神を賛美せよ。大きな御力のゆえに 神を賛美せよ。」

私達が神様を賛美するのは、「力強い御業のゆえ」、そして「大きな御力のゆえ」です。それはすなわち創造の御業と購いの御業です。

 神様がこの天地を造り、私達人間も造り、神様の完全なバランスの中で地球を保っていてくださいます。その造られたものは、神様ご自身が、「それはきわめて良かった!」と言われたのです。その創造の御業を私達は感謝し讃えます。しかしそれだけではありません。イエス様が地上に来てくださり、私達の罪を赦すために十字架にかかり、3日後に復活して下さったことにより、神様が私達を愛していることを示してくださいました。神様ご自身がその命を私達に与えてくださったのです。それが購いの御業であり、神様の力であり、神様の業なのです。

 

3.どのように賛美されるのか(3-5)

「角笛を吹いて 神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて 神を賛美せよ。

太鼓に合わせて踊りながら 神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて 神を賛美せよ。

シンバルを鳴らし 神を賛美せよ。シンバルを響かせて 神を賛美せよ。」

 主はどのように賛美されるのでしょうか。それは、角笛、琴、竪琴、太鼓、弦楽器、笛、シンバルを使って、そして踊りながら、なのです。

 オーケストラをイメージするようです。賛美のイメージが覆されます。それほどまでに多様な賛美を主は喜んで下さるのです。そして、なんと太鼓(タンバリン)と踊りまであります。前回礼拝の奉仕をさせて頂いた教会でも、ある方が、「いつくしみ深き」を聞きながら踊りたくなったと言ってくださいました。主を賛美するところには自然と体を動かしたくなるような喜びがあるのです。実際に、詩篇の祈りにさえも、曲はつけられ、音楽に合わせて祈られていました。主の御名は音楽に乗せられ、音楽的である言語に託して口にされます。それが賛美だと詩篇は教えてくれます。それらの賛美は、言葉の領域を超えます。そして、神様の創造の領域とイエス様の十字架の贖いの領域へと私達の視点を移してくれます。

 

4.誰によって賛美されるのか(6)

 「息あるものはこぞって 主を賛美せよ。ハレルヤ。」

 讃美は誰によってされるのでしょうか。教会に通っているごく一部の人だけがするようにと言われているでしょうか。そうではありません。「息あるのものはすべて」なのです。造られ、息をしている人間、そして人間だけではなく鳥や動物や森の木々や花も全てのものが賛美をするように招かれています。

 すべての人間は、神様が与えてくださった息吹によって、生命を持ちます。そしてその命は息によって保たれます。神様がその息吹を取り去られるなら、全世界は塵に返ります。命の息吹は、最終的に人間が持ちうる唯一の持ち物であり、この息吹において人間は主に頼るのです。したがって、主を賛美すること以上に、生命にとって正しく真実でありうる息の用い方はありません。主を賛美すること以上に、良く生命の喜びを語りうる音はないのです。

 詩篇は、人生を主への賛美に用いることへと招きつつ、ハレルヤと招き閉じられます。この詩編は、生命が主に依存していること、生命が負っている主への責任、そして生命の抱いている主への感謝を言葉にしたものです。

 

 歌や楽器を通しての賛美を大切にする理由が今日の詩編の御言葉です。招きに応えたいという思いです。同時に、賛美を聞く人々に、神様から招かれていることを知ってほしいという思いです。このことは、私個人だけに当てはまりません。詩篇は共同体で読まれてきた共同体の詩編です。すなわち、歌や楽器を通しての賛美は、共同体である教会が大切にするように招かれているのです。皆さんがその息を神様を賛美するために用いるように、その声を命の喜びを語る賛美に用いるように、招かれています。

 

 賛美のある所に良き訪れ、すなわち福音があります。神様の創造の御業とイエス様の十字架の購いの御業を、その福音を、礼拝において、そして日々の礼拝の場である生活の場において、賛美を通して共に届けていきましょう。