「きよい手を上げて」 テモテへの手紙Ⅰ 2章5~8節

「きよい手を上げて」

テモテへの手紙Ⅰ 2章5~8節


 今日は父の日を覚え礼拝をお捧げしています。 

 父の日の由来は、1909年のアメリカでの出来事にあります。ソノラ・スマート・ドッドさんという人は6人兄弟でした。彼女のお母さんは南北戦争が終わった後に亡くなります。その後お父さんが6人の子どもを育てますが、お父さんも、子どもたちが皆成人した後に亡くなります。当時母の日はすでにお祝いされていました。しかし、ソノラさんは、男手ひとつで育ててくれた父のことも教会で覚えてほしいと思いました。それで、お父さんの誕生月である6月に父の日を記念して礼拝を持ってほしいと教会にお願いをして、そのことが実現しました。そして、1966年に当時の大統領によって毎年6月の第三日曜日が父の日として定められました。

 日本でも母の日と父の日は同じように教会でも覚えて礼拝をささげることが多いです。それは、育ててくれた母の人生・父の人生を神様に感謝するということです。私も父が去年の12月に亡くなりましたが、ここまで育ててくれた父に、そして父の命をここまで支えてくださった神様に感謝を捧げました

 しかし家族の絆は大切なものですが、それぞれの家族が様々な事情を抱えています。両親にも色んな人がいるでしょう。母がいない、父がいない、という方もいるでしょう。愛してくれた父を持つ子どもは幸せだと思います。しかし、父とのいい思い出がない、傷つけられた思い出しかない、そのようなことも現実にあります。

 しかし、人と神様との和解、関係の回復を望まれる神様は、家族の絆も大事にされます。家族は血のつながった関係だけではなく、養子縁組をした方も家族です。さらに、イエス・キリストの教会はそのメンバーが神様の家族です。それらの家族の絆はどのように回復され、保たれるのでしょうか。今日は、テモテへの手紙Ⅰから共に神様の言葉に聞きたいと願います。父の日を意識してはいますが、共に聞きたい御言葉です。


1.神は唯一、仲介者もお一人(5-6)

「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」

 まず覚えたいのは、神は唯一である、ということです。神様はただお一人です。キリスト教が異教社会にもたらした最大の救済は、唯一の神のみがいるという確信でした。それ以前には、無数の神々に取りつかれた世界に人々は住んでいました。

 神が沢山いるなら、ある神の尊厳をいつ損ない、いつその神の怒りを招くことになったのか私達には知る術がありません。

人々はいつも神々を恐れて生活していました。それらの人々が、神はただ一人しかいないこと、その神が父であり、その方は愛であることを発見する時、それは大いなる解放であり自由がありました。

 次に覚えたいのは、仲介者もお一人だということです。

 仲介者とは、二つのグループや人の間に立って、両者を和解させる行為をする者のことです。その二つとは、神と人です。ユダヤ人は天使が仲介者であると言いました。ギリシャ人の言い伝えには、あらゆる種類の仲介者が登場します。しかし、ユダヤ思想でもギリシャ思想でも、人は直接神に近づくことはできませんでした。

 しかし、ここで仲介者は一人であるとパウロは伝えます。その仲介者とはイエス・キリストです。クリスチャンはイエス・キリストを通して、直接神に近づくことができるのです。

 もし一人の神、一人の仲介者でないとしたら、人間がみな兄弟と言うことはできません。

多くの神、多くの仲介者がいるなら、それらの神々や仲介者が人間の信頼と愛を勝ち取ろうと競い合うことを意味します。そうなると、宗教は人間を結び合わせるものではなく、人間を離れさせるものとなります。

 人間が互いに兄弟姉妹であるのは、一人の神、一人の仲介者がいるからなのです。まずそのことをこのみ言葉から確認したいと思います。

 その仲介者であるイエス様が、ご自身の生と死をかけられたのです。神様の愛を人に知らせ、人間を神様のもとに連れ帰るためにイエス様が十字架に架かられたのです。


2.宣教者として、証し者として、教師として(7)

「わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。」

 パウロは、自らではなく、神様から宣教者として、証し者として、教師として立てられたと述べます。

 (1)宣教者・・・真理を伝える人です。自分自身から出たものではなく、国の王から発せられた伝言を伝える者のことです。今私も宣教をしています。その宣教は、国の王の伝言です。それは福音です。福音とはイエス・キリストの十字架と復活です。聖書を通して語られた神様の言葉でないものを伝えるなら、私は宣教者ではなくなります。

 (2)証し者・・・「これは真実だ、わたしはそれを知っている」と言う人のことです。証しは、キリストの物語だけでなく、キリストが自分のために何をしたかをも、告げる人のことです。イエス・キリストを救い主と信じた人は、誰もがそのイエス様との出会いの中でイエス様が何をして下さったかを語ります。誰もがその聖書のストーリーだけでなく、そのストーリーを通して与えられた「私とイエス様のストーリー」を持っているのです。

 教師・・・宣教者は事実を宣言します。証し者は事実の持つ力を宣言します。そして教師はその事実の意味へと人々を導きます。キリストの生と死という事実を知るだけでは十分ではありません。その生と死がどのような意味を持つかを考えなければなりません。自分自身とこの世のために、その意味を深く考え抜かなければなりません。教師はその意味を考え伝えていきます。

 誰もがすべてのことを任命されているわけではないかもしれません。しかし、少なくとも教会にこれら全てのことは託され、任命されている働きを共に担っているのは間違いありません。


 お一人の神、お一人の仲介者がおられ、託されている働きがあることを土台として、今日のテーマである箇所へと導かれます。


3.きよい手を上げて(8)

「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」

 初代教会は祈りについてはユダヤ教の様式を受け継ぎました。ユダヤ人は両手を前にさし出し、手のひらを上に向けて立ったままで祈りました。清い手を上げての文字通りの意味はそのような形となるでしょう。しかし、この箇所で伝えられていることは、祈りの形をこえたものです。

 ユダヤ人は、祈りを神様からへだてる障害物があることを知っていました。

イザヤは神がその民にこう言うのを聞ききました。

「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を」ーイザヤ1:15

ここにいくつかのことが要求されています。

 (1)祈る者は聖い手を前に伸ばし、上に上げなければならない。

 神に向かって上げる両手は禁じられたものに触れたり、取り扱ったりしたものであってはなりません。これは、祈った口が乾かないうちに、あたかも祈ったことがないかのように、出て行って手を汚すような祈りには真実性がないということです。祈った後に、まるで祈ったことがないかのように生活する人のことがここで言われている人のことです。

 (2)祈る人は、心に怒りがあってはならない

 人間の赦しと神の赦しとは切っても切り離せません。私達が同僚と敵対関係にあるかぎり神の赦しを受けることは期待できない、ということをイエス様は繰り返し強調しています。

「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」ーマタイ5:23-24

「しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」ーマタイ6:15

 私達の赦せないという心も神様はご存じで、そのような私達の為に赦す愛を示して下さったのがイエス様です。しかし、そのイエス様が、赦されるためには、私達がまず赦されなければならないことを教えてくださっています。人の心に怒りの思いがあるなら、それはその人の祈りが神様に達するのを妨げる壁となるのです。

(3)祈る人はその心に疑いがあってはならない

 争い(disputing) →διαλογισμός(ディアロギスモス)→議論という意味と、疑いという意味があります。議論と取るなら、単に前に述べたことの繰り返しになりますが、ここでは疑いという意味に取ることができます。

 祈りが答えられる前に、神様がきっと答えてくださるという信念が必要です。癒されるには、その前に癒されることを信じなければなりません。神様の恵みに抱かれるには、神の恵みを信じなければなりません。神様に祈りを捧げる時、神様は祈りを聞き、祈りに応えてくださる方であることを、信じなければなりません。そうでなければ、それは形だけの祈りになってしまいます。


 特に、子どもたちのために、共にきよい手を上げ、怒らず、疑わず、祈りましょう。子どもがいる方には、これらの祈りが実践されるようにと祈ります。また、教会の子ども達に対しても、神の家族として私達が親の責任をみんなで果たせるように、きよい手を上げ、怒らず、疑わず祈りましょう。

 家族との関係で傷がある方は、その傷が癒されるようにも祈ります。何より、唯一の父なる神様がいて、私達の罪に対する怒りがすぐに下ってもよいはずなのにそれを保留し、よいもので満たしたいと願っていてくださることを覚えましょう。その上で、主がよいもので満たし癒やしてくださることを祈りましょう。そのように傷ついている方を知っていたら、その方の為にも私達が祈る者へと変えられますように。

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