「涙は大切」 創世記45章1~15節

202469日 湘南台バプテスト教会 

「涙は大切」

創世記45115

 

 今日は花の日を覚えつつ礼拝をお捧げしています。花の日は一般的にはあまり知られていないかもしれません。由来はアメリカのキリスト教会にあります。元々は子どもの日という名前で呼ばれていました。子どもたちが花を持ち寄って教会堂を飾り付けて礼拝を行い、また、そのお花をもって病床にある方を訪問したのが始まりだそうです。現在でもアメリカでは、いくつかの州で6月の第二週に花の日が持たれています。日本のキリスト教会でもこの日を記念することが多いです。私達も、今日は有志でお花を持ちより、神様に礼拝をささげています。自然を含む花もそして人も神様によって造られ、与えられ、守られ、愛されて育ってきたことを感謝したいと思います。

 6月を含むこの季節は、花が多く咲き始めます。湘南台公園にもツツジやアジサイが華やかに咲いています。また、教会の前にも様々なお花が植えられています。

 この花が咲くために必要なものは陽射しと共に、水です。私の出身である九州はもう梅雨入りしたようですが、その水を与えてくれる梅雨がもうすぐ関東にもやってきます。

 梅雨は基本的に恵みの季節です。今年もラニーニャ現象が発生すると言われており暑くなりそうですが、最も陽射し(紫外線)が強くなる時に、厚い雨雲でその暑さを和らげてくれる日傘となってくれます。

 しかし、梅雨前線があまりに活発すぎると、集中豪雨や土砂災害を引き起こします。ここ何年かでも、線状降水帯が発生して豪雨災害が日本の各地で起こっています。また、高温多湿は、体調不良や食中毒の引き金にもなりえます。

 このように、恩恵とその反対の現象と表裏一体の中で生きているのが私達です。

 心理学の世界では、好悪あるいは愛憎のような対立する二つの感情の間で揺れ動く心のありようをアンビバレンツと呼びます。心が二分され、両者の間で綱引きしている状態を表す言葉です。すなわち、葛藤する心です。

 私達の多くが、長い人生の中で、顔で笑って心でなく経験を何度か味わっているのではないでしょうか。人前では強がってみせても、本音のところでは泣いている状態です。

 プライドは、自分の弱さを人前にさらしたくないと主張します。しかし、生身の体の方は、弱さに打ちのめされて音を上げていることもあります。病気を、災害を、人との関係の崩壊を前にして、私達の心は大きく揺れるのです。

 しかし、アンビバレンツな状態がずっと続くと、本人にとってストレスとなり、そのストレスが新たなストレスを呼び、心理的混乱や新たな病気を招くこともあります。

 アンビバレンスを解消する鍵はあるのでしょうか。全てではないかもしれません。しかし間違いなくその鍵の一つは涙にあります。よく、「男なら泣くんじゃない」とか、「人前でなくものではない」など、泣く、涙を流すことが否定的な言葉で表現されることがあります。しかし、本来涙を流してよい時、流した方がよい時、泣くべき時に我慢してため込んでしまうと、アンビバレンスな状態を生み、心が健康ではなくなってしまい、そして心も体も蝕んでしまうということが起こります。それは大切な感情の発散なのです。また、脳内の「辺縁系」という部分は、感情の処理領域です。思い切って涙を流すことは、辺縁系が強いストレスにさらされて、機能障害に陥ることを回避させている可能性があるそうです。うつ状態や無表情や悲哀感情から開放してくれる鍵を涙が握っている、とも言い換えられるかもしれないと、あるお医者さんは言っています。

 

 皆さんは、新約聖書の中で最も短い節がどこか知っているでしょうか。それはヨハネによる福音書1135節の、「イエスは涙を流された」です。神様であるイエス様も涙を流されたのです。私達の救い主は涙の人でもあったのです。

 

 皆さんの涙の声をどこかに書いてみてください。皆さんの本音を、誰を気にすることなく書いて見てください。

 

 涙は大切です。旧約聖書にも涙を流す人や預言者が出てきます。今日はその人達の中からヨセフの話と涙から、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

 ヨセフ物語の概要

 ヨセフの話は創世記3750章まで続きます。じつに創世記全体の4分の1を占めている重要な箇所です。ヨセフはヤコブの12人中11番目の子です。ヤコブがヨセフを可愛がっていたことや兄達が自分にお辞儀をするという夢を語ったことで兄達から妬まれ憎まれて、兄弟たちによって奴隷としてエジプトに売られてしまいます。しかし、神様の計画と配慮の中で、エジプトの王の信頼を得て、国の政治を司る大臣にまでなります。その後飢饉がその地方全体を覆い、ヤコブと兄弟たちはエジプトに助けを求めに来ます。ヨセフは兄弟たちとすぐに分かりましたが兄弟たちは分かりません。ヨセフは、ヤコブの12番目の子であるベニヤミンを連れて来させたり、ベニヤミンを自分の元に置くと告げたりしながら、兄弟たちを試していきます。兄弟の内のユダは、父が愛するヨセフを失い、ベニヤミンまで失うのは耐えられない、自分がベニヤミンの身代わりに奴隷なると申し出ます。切々と自分が身代わりになると訴えるユダに、父と弟と家族への真の愛情をヨセフは感じ取りました。

 

1 ヨセフの涙(1-3)

「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは、兄弟たちに言った。 「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」 兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。」

 奴隷となって孤独に過ごした日々、そして宰相となってエジプト王の信頼を得てからも、奴隷として売られたこと、兄弟に拒まれた痛みが消えることはきっとなかったでしょう。「自分は立派になった。しかし自分は捨てられた」。ここにヨセフのアンビバレンスを見る思いです。しかし、神様が家族と再会させてくださったそのご計画を見た時、もう見知らぬ者としての演技を続けることはできませんでした。ヨセフは感情を抑制することをやめ、激情に身を委ねます。ヨセフの泣き声は鳴り響きました。どれほど大きな声で泣いたのでしょう。懐かしさの涙でしょうか、赦しの涙でしょうか、あるいはその両方でしょうか。

 そして、家族だけの真の再会が起こります。兄弟たちにはまだ戸惑いが見えます。夢を見ているような感じでしょうか。しかし、和解の涙、アンビバレンスが解消されていく涙がヨセフから流れました。

 

2 神が私を遣わした(5-9)

「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。

わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。」

 この5節の間に、5回もヨセフは繰りかえし語ります。「神が私を遣わした」と。この物語の中心のメッセージです。この世の中の考える「現実はこうだ」という現実主義があります。しかし、聖書の現実主義があるのです。聖書の現実主義は、あらゆる出来事にある二つの面をはっきりと見ます。一方では人間の誤った働きや自然の見通しの利かない出来事があります。しかし、他方では、神様の完璧な意思があることを見て、その神様の意思に注目するのです。

 ヨセフは兄弟たちによってエジプトに奴隷として売られました。そのことがよかったとも言いませんし、その兄弟の罪は否定されません。しかし、その人間の憎しみや罪、そしてヨセフの苦悩という出発は、神様の側からはヨセフが神様に遣わされる出発となったのです。そして、その神様の計画が「大いなる救い」(7)へと導くのです。救いは一回起こって終わりの単発の出来事ではなく、長期間の出来事を含めた神様のわざです。その聖書の現実主義と究極的な救いの完成が、イエス・キリストの十字架です。一方では、イエス様はユダヤの時の権力者たちの策略によって十字架に架かり殺されます。しかし他方では、救い主として来られた方は私達の罪を贖うために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえり、人々にあらわれるという、聖書に書かれた神様の約束と計画の中にあったのです。

 

3 和解の涙とアンビバレンスの解消(14-15)

「ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。

ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」

 ヨセフは、年が近かった下の弟であるベニヤミンをとりわけ愛していたのでしょう。そしてベニヤミンもまた上の兄であるヨセフを愛していたのでしょう。涙の再会が果たされました。さらに、ヨセフは、ベニヤミンだけでなく。全ての兄弟に口づけをし、抱きしめ、そして泣きました。憎みながらの繋がりではなく、赦し赦された者としての新しい結びつきがあります。その涙は痛みを溶かし、赦しへと感情を統合していったのでしょう。兄弟たちとの語り合いも実現しました。相反する感情を統合するのが涙です。涙は大切です。

 

 

 ヨセフの涙を見てきました。私達は、泣くことをためらってはならないのだと思います。東日本大震災の時ボランティアで伺った施設でも、何カ月か経って泣くことができて、立ち直ることができたという方のお話を聞きました。それは熊本地震で被災された方にも起こりましたし、能登半島地震で被災された方にも起こるでしょう。そして、涙による立ち上がりは、私達にも主が起こしてくださるのです。

 涙は大切です。しかも、涙のままで終わらないとすれば、それは幸いの涙です。涙の向こうに希望を持てるとすれば、それは慰めの涙となります。実際に私たちはその慰め主から希望を頂いているのです。

3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」ーヨハネによる黙示録213-4

 

 ヨセフから遥かなる時を経て救いの計画を成し遂げてくださったのが、黙示録で語られているイエス・キリストです。涙のわけを聞き、そしてその涙をぬぐって下さる神様のもとで、みなさんが涙を流すことができますように。