2024年6月2日 湘南台バプテスト教会  牧師と教会④ 「祈る牧師と教会」 テモテへの手紙Ⅰ2章1〜4節

202462日 湘南台バプテスト教会 

牧師と教会④ 「祈る牧師と教会」

テモテへの手紙Ⅰ214

 

 先週は、湘南台バプテスト教会に横浜戸塚バプテスト教会から先生が来てメッセージを届けてくださいました。兄弟教会である横浜戸塚バプテスト教会の支援に心から感謝いたします。神様への礼拝が豊かに捧げられたことを主に感謝いたします。

 私は藤沢バプテスト教会に招かれ、特別礼拝で奉仕をさせて頂きました。送り出してくださった湘南台バプテスト教会の兄弟姉妹に感謝します。藤沢バプテスト教会の礼拝もまた神様の恵みに溢れた時となりました。賛美の力を共に体験させていただいた礼拝となりました。午後には教会の青年が楽しい企画をしてくださり、皆様の喜びが見える安息日となりました。何より、母教会である藤沢バプテスト教会で奉仕をさせて頂いたことは子教会としての喜びがあります。そして兄弟教会の支援も頂いたことで、協力伝道が輪となってなされた神様の導きがありました。これから、さらに励まし合う関係を主が起こしてくださるのではないかと期待しています。共に祈り合っていきましょう。

 

 金曜日には、2ヶ月間準備をして祈ってきた香港ミュージックカフェが開かれました。このイベントも神様の恵みをいただく時となりました。ミュージックカフェというのは初めての試みでしたので、正直どのような感じになるか、果たして来られる方はいるのか、金曜に開催というのも大丈夫なのか、様々な不安もありました。しかしカフェイベントは終始和やかな雰囲気の中で行われ、その中にも宣教師の先生が聖書の言葉を語って下さり、香港の青年も心からの証をしてくれた、神様の恵みの中に置かれた時でした。地域の方も数名来てくださり、最後の最後まで残ってくださった方もおられました。総会では、愛に生きるビジョンの実現を目指して、「☆愛があふれて地域にこぼれる群れ。私たちが信仰と希望に生き、互いに愛し合う群れである時、その愛を知りたいと願う人々が起こされていくことを信じます。地域に「愛されている」というメッセージを発信していきたいと考えます。」と計画に入れさせていただきました。また、「ほっと一息つける場所となることを目指します。」とも書かせていただきました。ここに神様の平安がある、そのことを知って頂くことを願い祈りつつ、ほっと一息ついてほしい、思っています。カフェイベントは、まさにその「ほっと一息つける場所」になっていたのではないか、と思います。

 イザヤ書559節「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」、の御言葉が再び心に迫って来る時でした。

 そのような時を祈りをもって備えてくれていた香港のチームに感謝致します。また、香港の教会も私達の教会を覚えて祈ってくださっていました。それだけではなく、香港の教会から献金まで頂きました。その働きがすでに尊く、祈りがすでに有難いことなのに、それに加えて献金までしてくださったのです。パウロがエルサレムへの献金を携えて戻ってきたことを思い出しました。それほどまでに私達湘南台バプテスト教会が覚えられ祈られていることを知った時、熱い思いがこみ上げてきました。最後には、香港チームの若者の働き、先生の働き、そして香港の教会のことを覚えてお祈りして送り出しました。少し長くなりましたが、この恵みを分かち合わないわけにはいかなかったので、お伝えさせて頂きます。また、今日のメッセージともこれらのことは深くかかわってきます。

 

 今日は牧師と教会シリーズの4回目になります。4回目は、「祈る牧師と教会」です。神学校時代にまとめた私の牧師像では、祈る牧師になりたい、と書きました。牧師が祈るのは当たり前だと思われるかもしれません。しかし、本当に聖書の御言葉通り、「絶えず祈る」牧師にはまだなれていないと思うのです。しかしそのような牧師として仕えたいと願っています。そう思ったのは、二人の先輩がいたからです。

 一人は友人の牧師です。高校生の頃から知っているその友人は、大学を卒業するとすぐに牧師になった私の大先輩でもあります。私が賛美のツアーで関東に行った時に、彼が関わっている病院でコンサートをさせて頂く機会がありました。彼はその時副牧師で、病院のチャプレンもしていました。コンサートの部屋で待機していると、入院している方が入って来られます。ベッドごと入って来られる方も何人かおられました。彼はその来る人来る人に挨拶をして、そのままその方のことを手を置いてお祈りしていました。私はその姿に心を打たれました。牧師はまず何よりも祈る人なのだ、ということを15年も前に教えてくれたのがその友人でした。その友人は、私の父が亡くなった時にも何よりも先に一緒に祈ってくれました。

 もう一人は、神学校時代に研修で行った教会の牧師先生です。先生は、礼拝で教会に来た方とお話をし、その中で礼拝堂の椅子に一緒に座ってお祈りをする姿を私は何度も見ていました。留学生が卒業して就職する時には、涙の祈りと共に彼らを送り出していました。私との交わりの中でも、最後には必ず祈って下さいました。何よりも御言葉を愛し、そして人々のために祈る、ということを大事にされていた先生から私は教わりました。

 この二人の先輩のような、祈る牧師になりたいと今でも思っています。

 

そのような祈り、キリスト教では「祈り」はとても馴染みのある行為です。私達は、今日の礼拝でも祈り、教会学校でも祈り、水曜の聖書の学び会でも祈ります。また、会話の中で「祈っているよ」と声をかけることもあります。馴染みがあり、自然に祈りが出るのは素晴らしいことです。しかし時に、あまりにも馴染みすぎているために、祈りが一つの文化として捉えられたり、形式的なものにおちいってしまったりすることもあります。

 この祈りは、「信仰と希望と愛に生きる」という私達のビジョンが実現していくためにも、特に大切なものです。総会資料の牧師計画の中には、このように書かせていただきました。1.信仰に生きる☆生き生きとした信仰を告白する群れ

「礼拝を心から主にささげ、賛美と祈りによってイエス・キリストに変えられていく私たちを目指します。」祈りによって私達は変えられていくのです。

 また、祈りは教会のエンジンであるという人もいます。エンジンがなければ車は動きません。すなわち教会を通して神様が働いてくださることを求めるならば、私達は共に祈りのエンジンをかけなければなりません。

 

 今日は、祈りについて、パウロがテモテに当てた手紙の中から神様に共に聞いていきましょう。1節の内容があまりにも豊かで深いため、今日は特に1節の内容を中心に学びたいと思います。

 

1.福音はすべての人々のために

「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」

 福音の普遍性をとても強く表している箇所です。祈りは全ての人々のためになされるべきです。なぜなら、神様は全ての人々が救われるのを願う救い主だからです。イエス様は全ての人々のために罪の贖いとしていのちを与えられました。神様は全ての人々を求めておられます。だから、イエス様の体である教会は全ての人々を求めなければならないのです。

 福音の中にはいかなる階級もいかなる差別もありません。全ての人が、神様の限りない抱擁からもれることはないのです。福音は善人とされる人も悪人とされる人も包みます。未信者の方からよくこういう誤解を受けます。クリスチャンになるためには、聖書をしっかりと理解して、立派な人間でなければならない、と。しかし、教会が存在するのは、善人とされる人をさらに善人にするためではなく、罪人である人間をあたたかく迎え入れて救うためです。ローマの信徒の手紙310節には、「正しい人はいない。一人もいない」とあります。「正しくなったら救う」、のではないのです。救いが必要だと知った人をそのまま十字架の恵みによって迎え入れるのが神様の愛です。クリスチャンになるために必要なのは、その救いが必要だ、という欠乏感のみです。このことを、宗教改革者ルターは、行いではなく信仰により恵みによって救われる、と大事なことを伝えました。

 

 また、1節には祈りに関する4つの重要な言葉がまとめられています。

2.願い 

 これは、人間に対する願いとしても神に対する願いにも使うことのできる言葉              ですが、基本にある考えは欠乏感です。欠乏感があって、その欠乏感を埋めてほしいという思いが願いとなります。祈りは欠乏感から始まります。それは、自分では人生を乗り切ることができないという自覚から始まります。祈りは私たちの無力感から始まります。祈りは人間の弱さを自覚することから始まります。人間の弱さを自覚することは、人間が神に近づく第一歩です。

 ある詩人はこのような言葉を残しています。「心を清め備えをしてからと言ってためらうな。神の求める備えは一つ、神なしに生きられない思い。」

             

3.祈り 

 願いは人間に対しても神に対しても使われますが、この祈りは神様への語りかけのほかには全く使われません。神様だけが満たすことのできる欠けがあります。私達が神様にしか持っていけない欠けがあります。神様だけにしか与えることのできない力があります。神様だけにしか与えることのできない赦しがあります。そして、神様だけにしか与えることのできない確かさがあります。

 私達が自分の欠けを別のところに持って行って満たそうとしても、失敗に終わる理由がここにあります。私達の欠けを誤ったところへ持っていくことが問題を大きくするのです。      

4.執り成し        

 元々の意味は、会うこと、誰かと一致することです。そこから、ある人と親密な会話を持つという意味に転じました。さらにそこから、王の前に出て何かの請願をするという意味になりました。神様との親密な対話という贈り物が私たちに与えられています。   

私達の請願を王である方に携えていく権利が与えられているのです。クリスチャンとは、その欠けを御座に持っていくことができると知っている人のことです。

             

5.感謝 

 感謝は祈りの不可欠な部分です。祈りとは、神様に何かを願い求めるだけではなく、何かのことで神様に感謝をささげることでもあります。私達の祈りは時に不平不満の中でなされることが多く、感謝の中でなされることが少ないかもしれません。私の母教会の牧師は、詩篇の祈りの言葉を用いて、感謝の祈りを捧げなさい、とよく言っていました。

 

 私達には欠乏や願望や要求を神様の御元に携えていく権利があります。同時に私達には神様に絶えず感謝をささげる義務があります。そしてそれらを全ての人々のために神様に捧げるのです。それは、神様が全ての人を愛していることを、イエス・キリストが十字架で死なれ、3日後に復活されたことで教えてくださったからです。

 

 自分の為の祈りも大事です。しかし、今日は特に共に他者の祈りへと共に心開かれたいと願います。もし私達が神様への愛を知らない人に対して欠けていると感じなかったら、その人達のことを祈らないでしょう。そして関心も持たないでしょう。愛の反対は無関心なのです。私ではない誰かのために、この1週間を通して、願いと執り成しと感謝を携えて、主なる神様の御前に出て祈ってまいりましょう。