「聖霊の風が吹く時」 使徒行伝2章1-13節

「聖霊の風が吹く時」

使徒行伝2113

 

 バプテスト連盟の発行している機関誌のバプテスト誌に証しのリレーというコーナーが以前ありました。5年前のものですが、掲示板に張っているので、よかったら読んでいただければと思います。内容は5年前のアメリカ滞在時に受けた恵みについてです。1年間楽しみにしていたその旅の最初は、行って5日で帰りたくなりました。しかし最後には、イザヤ書559にあるように、神様の思いは、私達の思いをはるかに超えて高く、私達を導かれることを体験しました。

 その証しを楽しみにして下さっていた方が何人かおられたということを後から知りました。そしてある方からお手紙を頂きました。その方は、私の保育園の時の先生でした。今おいくつでしょうか。最後に会ったのは東京で10年ほど前ですが、私のことを変わらず覚えて下さっていることに感動しました。

 とても励まされました。当時は北九州に住んでいましたが、私の書いた文書が北九州から遠い東京の人の目に止まり、誰かの喜びとなり、また私を励ましてくださるものとして帰ってくる。証しってうれしい、そう思いました。

 

 今日はペンテコステです。キリスト教会では聖霊降臨日とも呼ばれます。元々は、ユダヤ教の3大祭りのひとつです。ペンテコステは、文字通りには50番目という意味ですが、過ぎ越しの祭りから数えて50日目の日曜日に、オオムギの初めての収穫を感謝する祭りとして祝われました。また、モーセが十戒を神様から授かったことを記念する日としても祝われていきました。

このペンテコステの日に、弟子たちは一緒に集まっていました。

 

1 最も大事なことは、この日聖霊の力が彼らに下ったということ。(2-3)

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 この激しい風は弟子だけが聞いたものなのか、他の人にも聞こえたのか。明確な答えはありません。しかし神の霊の象徴であることは確かです。

エゼキエル書の379-10「主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」

10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」とあります。

 エルサレムに集まっていた弟子たちは、イエス様の復活を見たとはいえ、イエス様が天に昇られた後は、自分たちはどうなるのか、不安だったかもしれません。

 しかし、神の霊は、死んだようになっている者を生かし、立ち上がらせるのです。弟子たちも立ち上がっていきました。

 炎のような舌については、バプテスマのヨハネは、彼の後に来る方、すなわちイエス様が、風と炎によってバプテスマを授けると預言しました。

また、炎は、モーセが見た燃える柴のように、神の聖なる臨在を意味しています。(出エジプト記32-5)

 さらにイエス様もまた、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒18)。と言われました。

 確かなことは、神の霊が、そこに現れて、力をもって彼らに下ったのだ、ということです。

 

2 神の偉大な働きは、のべ伝えられた。(411)

4節「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」11節「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 バプテスマのヨハネの預言通りに、また、イエス様の約束通りに、聖霊が下りました。

旧約聖書では、霊に満たされた人は預言をしました。そこでも霊が下り、預言をしています。

 しかしここでは決定的な違いがあります。イエス様は聖霊が「あなたがたの上に下る」と言われました。信仰共同体として経験した霊の満たし、これは霊のバプテスマと言ってよいものです。それはこの時初めて起こった出来事です。だからこそ、ペンテコステは教会の誕生日と言われるのです。

 聖霊の力を受けたときに、神を賛美する言葉、キリストを告白する言葉が共同体に与えられます。湘南台バプテスト教会に与えられるのです。当時も、別の霊によって語ることもありえたし、今もあり得ます。しかし、11節、人々は神の偉大なわざを聞きました。それはすなわち、キリストの福音です。パウロは、証しというのは聖霊によってキリストを告白するものだと言っています。

Ⅰコリント123『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』

私達は6月に賛美礼拝をお捧げする予定です。そこで証しをしていただく予定です。その証しも、キリストを指し示すものであり、聖霊を受けていなければすることができないものです。そして、それは個人の証しであると同時に、湘南台バプテスト教会がイエス・キリストを証ししているということなのです。

 キリストの教会は今もなお様々な言語で語ります。それは、ペンテコステの日に起こった超自然的なものではないかもしれません。しかし、その日語られたよりはるかに多くの言語で、同じメッセージが今日も語られています。それは、「神様の偉大な働き、イエス・キリストの福音」なのです。

 

3 神の偉大な働きは、広がっていった。

 聖霊の力を受けたときに与えられた、キリスト告白、賛美を人々は聞くことになります。9-11節にかけては、17もの国や人のことが語られています。このエルサレムに集まった人々はディアスポラといって、様々な迫害を受けて地方に住んでいたユダヤ人でした。彼らの公用語はアラム語とギリシャ語で、どちらも喋ることができました。イエス様もアラム語をしゃべったと言われています。しかし、それぞれの方言があったに違いありません。

 例えば、スペイン語を喋る国は多いですが、スペインで話されるスペイン語と南米で話されるスペイン語はかなり発音が違う。大きな違いは、南米ではJ(ジェイ)L(エル)と発音することです。アメリカでスペインの友達に、「名前は何ですか」という言い方を教えてもらい、ベネズエラに住んでいた人に話したら、「ん?」という形で伝わりませんでした。せっかく覚えた基本的なフレーズも伝わらなかったので悲しかったことを覚えています。それくらい言葉というのは生活に根付いているものです。また、コロンビアの人とアメリカで会ったことがありますが、海岸地方と、内陸部ではまた違った方言になるそうです。

 

 ユダヤ人共同体も、それぞれ別の地域に住んでいても、公用語は一緒なのでコミュニケーションは取れたことでしょう。ただ、弟子たちはガリラヤ出身です。ガリラヤ地方は訛りが強いことで知られていました。ペテロは、イエス様を知らないと言った時、ガリラヤ地方の出身であることを周りから指摘されました。それはきっとガリラヤの方言で話していたからでしょう。しかし、エルサレムの人々が驚いたのは、その多様な国の言葉の賛美を、ガリラヤ人がしていることだったのです。確かなことは、彼らの心にすっと入る形で、福音が伝わったということです。

 その中にはローマから旅をした人達もいました。パウロが行くことを熱望した、ローマの教会がどのようにしてできたのかは分かっていませんが、このペンテコステの日に福音を聞いた人が、福音を持ち帰りローマにキリストの教会が誕生した可能性は大いにあります。

 

 この箇所を読んだ時に、私が5年前に携わったロゴスホープ号のことを思わずにはいられなくなります。ロゴスホープ号は様々な国の人が一つの船で世界中を周り、聖書を配り、福音に関する本を販売し、困っている人や地域を援助する働きを長年に渡って行っています。私がコンサートで伺った長崎や神戸、その他の地域でも、日本に来たその船のことを何人もの方々が懐かしく語って下さいました。当時コロナの状況で、南米での宣教を終え、ヨーロッパに行く予定だったその船は南米に留まっていました。その働きが守られることを祈らずにはいられませんでした。しかしきっとその働きは今後も止まることはないと信じていました。そして今は、新しい船、デュロスホープ号が誕生し、世界宣教は続いています。主がその働きと働き人を起こし続けてくださることを改めて知らされます。

 私は船ではなく、陸で、本の仕分けをして船に送るというボランティアを2か月しただけです。しかし、その小さな点の働きを主は世界中に福音を延べ伝えるために用いられます。私達が仕分けした本はアジアの人に届けられるかもしれません。そこで福音を聞いた人が救われ、教会が誕生するかもしれません。

 私たちの捧げている礼拝も同じです。私達の捧げる礼拝を、賛美を、証しを、主は受け取って下さり、用いられます。インターネットで説教原稿を見た誰かが救われるかもしれません。それは日本に住んでいる人かもしれないし、私達から見て地球の反対側にいる、日本に興味のある人かもしれません。

聞いた言葉はそれぞれの場所に持ち帰られ、福音の力が働くことになるのです。

 

4 神の偉大な働きは、人生に驚きと戸惑いを与える。(12-13)

12節「人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。」

 福音を聞いた人の反応は2つです。一つはあざけり、拒絶。

13節「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」

 新しいぶどう酒は、発酵していないぶどうの甘さが強いワインです。私はあまり詳しくはありませんが、甘いワインはすっと飲めるので、飲み過ぎて酔いも早いのだろうと思います。

 現代でも同じことが起こるでしょう。あの人達は何か変なことをやっている、怪しい人たちだ、と。

 私達が、地域に開かれて、丁寧に信じていることの説明をし、信頼関係を築いていくことはとても大事なことです。しかし、それでもなお、理解されないことも起こるでしょう。聖霊を受けるとは、ペンテコステの出来事のように、信じがたいこともあるからです。

 もう一つの反応は悔い改めです。この出来事の後、ペテロはイエス・キリストの十字架の福音をそこに集った人に伝え、「邪悪なこの時代から救われなさい」(240)という勧めに応えて、その日に3千人がバプテスマを受けたとあります。

 

 大事なことは、イエス・キリストの福音は、あなたの罪を赦し、あなたを救う神の力だ!と宣言し続けていくことです。神の偉大な働きをのべ伝え、神を礼拝し、賛美し、信仰共同体として証しし続けていくことです。

 今日、このペンテコステの日、イエス様を主と告白している一人一人が、聖霊を受けていることを思い出しましょう。

 

 イエス様をまだ救い主と信じていない皆さん、イエス・キリストはあなたの罪を赦すために十字架にかかり、3日後に復活されて今も生きておられる神様です。皆さんに聖霊が働き、この福音を心から受け入れて救われることを願っています。イエス様の福音は、あなたを救う神の力です。