「祈り、力、絆」 テモテへの手紙Ⅱ1章3~13

「祈り、力、絆」

テモテへの手紙Ⅱ1313

 

導入

 今日は母の日を覚えつつ神様に礼拝をお捧げしています。ここにいるすべての人が父と母の絆を通して、お母さんに産んでもらっています。年齢に関係なく、今日集ったすべての方に、それぞれのお母さんを思いだしていただきお母さんに感謝する時、また、お母さんとの時間を過ごさせてくれた神様に感謝をする時になることを願っています。

 母の日は、毎年 5 月の第2日曜日に持たれています。日本には大正時代に伝わり、第二次世界大戦後、全国に広がっていきました。 世界中で母の日は覚えられていますが、母の日が広がるきっかけになった1番有名なお話はアメリカにあります。

 20世紀初めの頃です。アメリカにアンナ・ジャービスという人がいました。

 アンナさんのお母さんのアン・ジャービスさんは、熱心なクリスチャンで、地域の医療や衛生環境を改善しようと、ボランティア団体「Mothers Day Work Club」という団体を作りました。その活動が最も注目されたのはアメリカ 1861 年〜65 年まで繰り広げられた南北戦争の時でした。

 アンさんの住んでいたウェスト・バージニア州のウェブスターという場所は、北軍と南軍のどちらも集まるところでした。当時は衛生環境が悪く、はしかなどの病気が流行っていました。

 アンさんは、南軍北軍どちらの兵士も関係なく、病気やケガで苦しむ人達に手を差し伸べて医療活動を行いました。また、その後も教育支援や平和活動に携わり、1905 5 9 日に亡くなりました。 アンナさんは自分を苦労して育ててくれたお母さんに感謝と尊敬の気持ちを持ち続けたいという願いから、母親のための祝日を作る運動を始めました。

 そして、1914年に、5 月第 2 日曜日を母の日とする法律が施行されて、母親のための記念日である母の日が誕生したのです。

 カーネーションを送る習慣は、お母さんのアンさんが好きだった白いカーネーションを祭壇に飾ったことから始まりました。そして、お母さんがまだ生きている場合には、赤いカーネーションを送るようになりました。

 

 日ごろから愛を持って家族を思い、支えてくれる母を敬う気持ちを、この母の日から新たにしたいと思わされます。そして、ご家族の中で母としての勤めを果たしておられる方への感謝も伝えたいと思います。教会にも沢山の母のような役割を果たしてくれている方々がおられます。その方々のことも覚えたいと思います。それは、十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」という主の祝福の戒めを思い起こし、実行していくことにもつながっていくでしょう。

 

 ご家族の中で子育て真っ最中の方もおられるでしょう。教会に集っている子供たちもいます。その子どもたちを私たちはどのように育んでいくことができるでしょうか。また、神様がこのように育ってほしいという方へと導いていくことができるでしょうか。パウロがテモテという人に宛てて書いた手紙の中から、神様にみんなで聞いてまいりましょう。世の中のお母さんだけでなく、神の家族のお母さんとして、メッセージを受け取って行きましょう。今日は全てを詳細には見ませんが、大きく3つのことをメッセージとしてお伝えしたいと思います。

 

1.母の涙の祈り(35)

「わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。4わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスとエウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。」

 テモテは、パウロの助手として様々な場面で活躍しました。そして、2節ではパウロが「愛する子テモテへ」と呼んでいるほどにテモテをわが子のように愛しているのが分かります。実際にはテモテはパウロの子どもではありません。しかし、パウロも関わる中で、テモテはイエス・キリストを信頼する人に益々なっていきました。パウロは、自分が祈りを持ち関わった人として、血縁はないけれどテモテを神の家族としての子どもと思っているのです。肉体を与えた親に喜びがあるように、魂の親にも喜びがあります。一人の人をイエス様のもとに導く以上の喜びはこの地上にはありません。

 そんなテモテを、パウロは祈りの中で思い出しています。皆さんにもそのように思い出す人はいるでしょうか。お子さんがいらっしゃれば真っ先にその子のことを思い出すでしょう。お子さんがいなかったとしても、パウロがテモテを思い出しているように、教会の中で神の家族として育った子どもを思い出すことがきっとあるでしょう。  

 テモテは、母親がユダヤ人、父親がギリシャ人のハーフでした。その愛の中で育まれましたが、テモテはキリスト教の信仰を持ちました。そのテモテの涙を忘れることはできないとパウロは言います。テモテの涙は、どのような涙でしょうか。詳しく知ることはできませんが、パウロが会って喜びに満たされたいと思ったテモテの涙です。それは信仰の涙、イエス様が共にいてくださる感動の涙、純粋な喜びの涙だったのではないでしょうか。その涙に触れたパウロに大きな感動をもたらした涙です。実際にその涙を流すテモテの信仰は純真だと5節で語られます。

 ここが大事なのですが、その信仰は、祖母ロイスと母エウニケに宿ったというのです。テモテはその信仰を受け入れているとパウロは言います。ここに、母の思い、教え、そして祈りがあります。何より先にあったのは祈りだと思うのです。テモテの純粋な涙は、まず母の涙の祈りから来ているのではないか、と想像するのです。

 ある道を踏み外した人の話を聞いたことがあります。どうしようもないところまで行ったけれど、その背後には絶えずその人のことを涙を流しながら祈っているお母さんがいました。ある時自分のやっていたことの罪深さに気づき、教会に行き悔い改めが起こり、クリスチャンになって神様に仕えていったのです。これが特別なことだと思うでしょうか。しかしそのような例は世界中枚挙にいとまがありません。

 私も祖母がクリスチャンでした。私が教会の合宿などに行くときには、献金と一緒に聖書を読んで電話越しに祈ってくれていました。聖書の箇所は残念ながら覚えていませんが、そのように祈られて送り出されていたことが今でも心に残っています。14歳の時、天城山荘であった少年少女修養会に参加しましたが、その時にも同じように電話越しで祈ってくれました。祖母はその月に心筋梗塞で亡くなりましたが、私はその月の終わりにクリスチャンになりました。自分で決断したように思えても、その背後には、修養会に送り出してくれた祖母の献金のサポートだけではなく、大きな祈りがあったのだと、今思わされています。

 祈る時間と場所がない、と思われる方もいるかもしれません。しかし、どこでも神様への祈りの場所となります。あるお母さんは、自分の部屋はなく何人もの子供のお世話をしていました。しかし、キッチンでエプロンに顔をうずめている時は、子どもたちも、今お母さんがお祈りしているのでそっとしておこうとしました。お母さんは実際にエプロンの中が神様の前に出ていく場所と祈りの時であり、そこで子どもたちや家族のことを祈っていたのです。

 

2.母の内なる愛の力 愛と力と思慮分別の霊による励まし 母の愛(6−7)

「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます。7神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」

 テモテには霊的な賜物が与えられました。テモテが牧師として仕えていくのに必要な力です。しかし、再び燃え立たせるようにとパウロに勧められていることから、テモテにも、意気消沈する出来事があったのかもしれません。

 そこで、パウロは何がテモテに与えられ、また私たちに与えられるのかを伝えます。それは勇気と力と思慮分別と愛の霊です。

勇気の霊・・・子どもたちにもわたしたちにも、時として一歩踏み出すことが難しい時があります。しかしその時に思い出したいのは、神様は聖霊を通して勇気を与えてくださるということです。その勇気は、イエス様が一緒にいてくださると絶えず意識することから生まれてきます。子どもたちにもただやりなさいというのではなく、「イエス様が〜と一緒にいるから大丈夫。やってみない?」と励ましていくことが、子どもたちにとって勇気の力になるのではないでしょうか。

 力の霊・・・クリスチャンには物事に対処する力があります。それは、私達の魂をすり減らすような悲しみに直面する力です。その力をいただいているクリスチャンは、心が打ち砕かれるような境遇に置かれても失望しない、と言うことができるのです。そのような力をもって、私たちは子ども達をサポートすることができます。

 思慮分別の霊・・・これは自己訓練の霊と言えます。私たちは、まず、自分を制御できて、初めて他の人の指導が本当の意味でできます。思慮分別の霊が与えられた人とは、まず自分がキリストの僕となり、神様の力によって自制する力を与えられたからこそ、他の人や自分たちの子どもを制する力が与えられた人です。

 愛の霊・・・アガペーの愛の霊です。クリスチャンに他の人と異なった性質を与えるのは、はっきり言って愛です。この愛は、私達に責任をもって委ねられている人に対して私達にどんな苦労があったとしても、それを辛いと思わないような愛です。

 勇気、力、思慮分別、これらは愛を土台としています。教会での子どもたちを育む働き、また、家庭で子どもを育むお母さんの働きに必要なものこそ、この内なる愛の力です。この愛の力をもって、テモテのように意気消沈している子どもたちを、私たちは再び燃え立たせるようにすることができるのです。この愛の力は、キリストの僕になることによって、そして、主なる神様に与えてくださいと祈ることによってしか完全には与えられません。なぜなら、愛の源は、私達の罪を赦しにこられたイエス様の十字架の愛だからです。苦労があったとしてもそれを投げ出さない、わたしたちを見捨てない神様の愛を私たちもいただくことでしか愛は完成しないのです。

 

3.母との絆(12)

「そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしに委ねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」

 パウロはローマの牢屋の中でこの手紙を書いています。いつ処刑されるかと不安の中で自暴自棄になってもおかしくありません。しかしパウロはそうはならないのです。なぜか。パウロは、自分の信じている方を知っているからです。知識として知っているのではありません。その知識を知っているとパウロは言いません。このお方を知っているというのです。理屈を超えて、見える現実を超えて、何よりも自分の心に影響を与え、深く結びついているものがあります。それがパウロとイエス様との絆です。パウロは生きている時も死んでからも安全だと信じていました。死んだとしてもパウロに出会ってくれたイエス様がおられるところに行くのだと、パウロは心から信頼していたのです。

 子どもも母親を疑いません。子どもも自分が信頼する母親を知っているのです。どんな時も一緒にいて、寄り添い守ってくれ、自分を愛し、大切にしてくれるのが母親であることを子どもは分かっています。神様によってそういう心が与えられているのです。そして神様がそういう絆を母と子に与えてくれるのです。

 世の中の激しい変化の中で、私達の心も、お母さんの心も激しく揺さぶられることがあります。時に親子の絆に傷が入っていると感じることもありません。しかし、そのような時にこそ思い出してほしいのです。絆がある、と。子どもが本能的に、自分に寄り添って守り愛して大切にしてくれていると信じる絆があると。また、お母さんも、寄り添い守り大切にしたいと思っている絆が自分の中に確かにあると。

 

 

 どうか、今日見てきたように、祈りと力と絆をもって仕えていっていただきたいと切に願います。パウロは、「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって」、パウロの勧めを手本にしなさいと言います。祈りと力と絆、これらのものは私たちが自分で生み出そうとしても必ず限界が来ます。絆は、生きていても死んでからも安全だ、私の自分ではどうしようもできない罪を赦して寄り添い守り愛してくださっている方が私にもいる、と知ることから回復します。どうかそのような愛を十字架で示し、復活して今も生きておられるイエス様に自分の人生を益々信頼して委ねていくことができますように。