牧師と教会③ 神のことばを通して対話する牧師と教会 ルカによる福音書18章35~43節

牧師と教会③ 神のことばを通して対話する牧師と教会

ルカによる福音書18章35~43節

 

 今日は、牧師と教会シリーズ全10回の3回目になります。「神のことばを通して対話する牧師と教会」というタイトルにいたしました。九州バプテスト神学校で学んでいる時、同時に中学校と高校の英語の教職課程も学んでいました。その時、英語の4技能である聞く、話す、書く、読むのうち、話す技能は、発表する力とやり取りする力に分けられることを学びました。発表は、私から一方向の流れです。もちろん何かを伝えようとするときにはこの力も大事です。私達も、神様からの言葉を上から頂きます。それは、先週み言葉を取り次がせていただいたように、神様の言葉の宣言を私達は聞き、イエス・キリストが神の子であることを知らされるのです。

 しかし、同時に大事なことがあります。それがやり取り、別の言い方をすると対話です。対話は私と誰かとの双方向の流れがあります。私の呼びかけから始まり、その呼びかけに答える声を聞き、その声にさらに反応していくのです。そこには絶えず新しい物語が作られていきます。まったく同じ対話というものはありません。なぜなら、同じようなやりとりに見えても、相手が違えば空気感が違ってくるからです。年齢、生活してきた環境、嬉しかったこと、悲しかったこと、その人にしか起こらなかったその人だけの体験です。そのことを聞きながら、共感やこの先のことを話し合うと言うことが生まれます。

 そのような対話を、私も2年ほどお仕事の中でさせて頂く機会がありました。あるオンライン英会話サービスのカウンセラーとして、のべ2000人ほどの方とお話する機会をいただきました。ちなみに、このカウンセラーというのは広い意味でのカウンセリングになります。もっと狭い意味でのカウンセリングは心理カウンセリングといって臨床心理学などの専門的な学習を積んだ方しかできない資格となっています。

 ほとんどの方はお話しするのが最初で最後という方々でしたが、中には3回4回と対話を重ねる機会のあった方もいました。私はもともと内向的な人間で対話やコミュニケーションが苦手意識を持っていましたが、そのような機会が与えられ、以前よりも対話に対して苦手意識が薄くなったように自分でも感じています。簡単ではありませんでした。時に同じ悩みをずっと抱え続けておられる方に対して、有効な助言ができないもどかしさを覚えたことも何度もありました。自分の能力不足を痛感したことも多くあります。しかし、相手の悩みを聞き、自分も通ってきた内容であった時には、体験談とそこから取り組んだことを分かち合う中で、自分もやってみようと思う、とポジティブな思いを聞かせてくださる方も多くおられ、私の喜びにもなりました。

 また、ソーシャルスキルという概念もその時に学びました。大まかに、ぐいぐい行くタイプ(Driving)、感情を表に出すタイプ(Expressive)、物事を分析するタイプ(Analytical)、感情表現が穏やかなタイプ(Amiable)という4つの傾向を誰もが持っており、その傾向によって求めることも違う、という理論です。もちろん人間はそこまで単純に出来てはいませんので、この一つにその人の全てを当てはめるのは間違っていると思いますし、2つのタイプが混在している方も沢山おられます。ただ、初めて出会う目の前の方が何を求めているのかを理解しようとしていく中で、ソーシャルスキル理論は助けになりました。

 さらに、カウンセリングに近いものに、コーチングとコンサルティングとティーチングがあるということもその時に学びました。カウンセリングは問題解決と心のテーマに焦点が当たります。過去の感情やメンタルの問題整理が大事になります。また、解決策を提示していくこともあります。コーチングは、自己実現の支援、将来の姿や行動に焦点が当たります。解決策をこちらから提示するのではなく、相手から引き出すことを目指します。特にカウンセリングとコーチングの違いを知ることは、どちらが相手にとって必要なのかを考えて対話をする上で助けになったと思います。

 

 対話というテーマからカウンセリングについて少しお話させていただきましたが、聖書ではカウンセリングという概念はあるのでしょうか。実際にカウンセリングという名前で始まったのは20世紀初めのアメリカだそうです。しかし、聖書にこそ、カウンセラーの到来が予言されています。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。」ーイザヤ9:5

 このイザヤの預言の「驚くべき指導者(wonderful counselor)」という言葉は、まさしくカウンセラーを指しています。

 そしてイザヤの預言の成就として実際に来られたのが、イエス・キリストだったのです。カウンセラーとしてのイエス様と目の見えない人の対話のみ言葉に聞いてまいりましょう。

 

1チャンスを逃さない盲人

35-37「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、」

 ここで大事なのは、イエス様が目の見えない人の側を通ったということです。

イエス様が通るということが、福音なのです。今、イエス様が通られる、その喜びの知らせをその耳で聞いたのです。この目の見えない人には自信がありました。彼の座っている道ばたにナザレのイエスが来られるということが、どれほど重要なことなのか、正しく理解していると。彼は癒しを求めていました。だから声をあげます。

38「ダビデの子よ、わたしを哀れんでください!」。ここで声をあげなければ、主が与えようとしておられる恵みを受け取らないという選択をすることになる。彼は心から癒しを求めていました。だからその与えられた機会を逃さず、とらえようとしました。そして掴もうとしたのです。

 

2あきらめない

39「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」

 先頭に立つ人は彼をしかって黙らせようとしました。この時代、貧しい人、障害を負っている人は、過去の罪の報いを受けているのだと軽蔑され、社会の外に追いやられていました。社会の周辺にいる人で、神の恵みの対象外とみなされたのです。この先頭に立つ人とは、自分は社会の真ん中にいる者だという自負があり、あたかもこう言っているようです。「お前のような者は何かを要求する権利はない。黙っていろ。おとなしくしていろ。お前は神の恵みを受けるに値しないものだ。

 しかし、この人は叫ぶのをやめませんでした。彼にとって目が見えるかどうかの瀬戸際です。引き下がることはできませんでした。

 この聖書箇所を思いめぐらしている時にある映画を思い出しました。『ベスト・オブ・エネミーズ ~価値ある闘い~』という2019年の映画です。実話に基づいた映画です。5年前サウスカロライナ州にいた時、NBCニュースを聴いて英語を勉強していたのですが、その時にこの映画が特集されていて興味を持ち、当時映画館で見た映画です。もう一度見たいと思って探していたら、日本語の字幕もついてオンラインでレンタルができるようになっていました。公民権法制定から7年経った1971年に、ノースカロライナ州のダーラムという町で起きた、黒人の学校と白人の学校を統合するかどうかという議論を追った映画です。当時はKKKの強い影響力がまだまだ強くありました。映画を最初に見た時は、公民権運動が終わって7年後でも差別は根強くあったのか、と、しかし何か現実離れした感覚で見ていました。それが、ジョージ・フロイドさんの死によって、今も変わっていない現実があることを知りました。その中で、映画の主人公アン・アトウォーカーはこのように言っています。「答えとしてのノーは受け入れない。世界にイエスと言わせなければならない。なぜなら、全ての人の血は、流れ出れば同じ色だからだ。今まで違った色を見たことはない。だから信じたことに立ち続けなければならない。」。「同じ神があなたを造り、私を造った」という映画のセリフも印象的です。

 正しいことのためには沈黙してはならない、叫び続けなければならないことがある、と言うことを教えられました。

 

 この目の見えない人の叫びは、同じルカによる福音書18章7節の御言葉を思い起こさせます。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。

 私たちは、神様の臨在を求めながら、何か難しいことが起こると簡単にあきらめてしまう者です。しかしイエス・キリストを見出していくのは、この目の見えない人のように、どんなことがあっても、キリストのみ前から引き下がろうとしない人だと教えられるのです

 

3対話を始めるイエス様

40~43「40イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。 41「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」 43盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」

 イエス様は尋ねます、「何をしてほしいのか」。ここに個人的な対話を始めてくださるイエス様がおられます。先週私達は神のことばを力強く宣言することの大切さを学びました。と同時に、ここで今日学びたいのは、このイエス様のお姿です。「何をしてほしいのか」。この言葉は、全員に知れわたるような大声ではなかったのではないか、と想像します。代わりに、この目の見えない人にだけ聞こえればよい、その人の声を聞こうとする声ではないかかと思うのです。目の見えない人は言います、「主よ、目が見えるようになりたいです」。イエス様はその声を聞き、「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と宣言します。この宣言は、もしかしたら周りの人全員に聞こえるような大きな声だったかもしれません。

 目の見えない人はイエス様の力によって見えるようになりました。しかしここでは見えるようになる以上のものがあります。イエス様は当時の人が抱いていた天国の価値観を逆転させました。当時目の見えない人に代表された、障害を負った貧しい人々。イエス様から見れば、この人々は社会の周辺、外に追いやられる人ではないのです。神の国においては周辺はありません。この人はイエス様に認められました。また、イエス様が作った神の家族として認められました。この人は神の国に入ったのです。彼の本当の救いは、目が見えることを超えた、神の国への入場だったのです。

 イエス様は、彼の言葉を聞き、言葉の裏にある思いを聞き、その助けが与えられるようにして下さいました。イエス様こそ真のカウンセラーです。

 

 今日のイエス様と目の見えない人との対話を通して語られます。[

私は与えられた神様の言葉を通して語りかけているか」、と。この目の見えない人がイエス様のもとに来たのは、イエス様がどういう方かを分かっていたからです。なぜ分かったかと言えば、イエス様が神の国の到来を宣言していたからです。そのように宣言された言葉を基に、イエス様は人々との対話へと入って行かれました。私ももっと、礼拝で頂いている御言葉を基に対話をする牧師へと変えられていきたいと願っています。かつて神学校でこのように学びました。「牧会が教会にとって必要なのは、神の言葉を個人に伝達するためである。神の言葉は、さまざまな形態で伝達されることを求めるのである」。本当の牧会とは、神様の言葉がその人の心に根付くことです。そのような牧会をさせて頂きたい、と心から願っています。

 また、皆様にもチャレンジとして受け取って頂きたいことがあります。それは、「与えられた神様の言葉を通しての対話があるか」、という問いかけです。それは、神様との対話であり、兄弟姉妹との対話であり、まだイエス様を救い主と知らない方との対話です。「今日の礼拝のメッセージでどんなことを神さまは語られた?」、とお互いの、そして神様との対話が溢れる時、私達のビジョンである「愛と信仰」が増し加わっていくでしょう。

 イエス様は語られたうえで、尋ねてくださいました。そこから愛の対話が生まれるのです。

 イエス・キリストが側に来ている、そう感じている方がおられたら、今、この時を逃さないでください。この時が、神様の恵みを受け取る、あなたの救いの時です。イエス・キリストは、私たちの罪の為に十字架にかかられるほどの愛をもって、皆さんが飛び込んでくるのを待っていて下さいます。「何をしてほしいのか」と尋ねてくださるイエス様に、あなたの心の奥の求めを伝える時、その時が、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださる時となるでしょう。その時が、この目の見えない人のように、主を賛美しイエス様に従う時です。