「慟哭の先に」 ヨハネによる福音書21章15~19節

慟哭の先に」

ヨハネによる福音書211519

 

 

 バッハのマタイ受難曲は全68曲の3時間を超えるバッハの大作です。受難節によく覚えられ聞かれています。その中に「ペテロの慟哭のアリア」があります。正式な名称ではないかもしれませんが、38番の終わりがそこに該当すると思います。

 ペテロほど人生のやり直しを痛切に考えた弟子は他にいなかったと思います。考える前に言葉が出てしまう、よく言えば情熱的な人、悪く言えばちょっとお調子者といった感じでした。

 ある時ペテロは、「私はあなたの行くところならば、たとえ火の中水の中、監獄でも死でも、どこへでもついて行きます。」と高らかに宣言しました。しかも、「たとえ他の11人があなたを見捨てるようなことがあったとしても、私だけは絶対に裏切りません」と胸を叩いてみせました。

 しかし、イエス様が捉えられ、不当な裁判の場に引かれていくと、ペテロは急に怖気づきます。              ペテロは、裁判の行われている庭の片隅に身を隠して成り行きを見ていました。周囲の人から「あなたもあのイエスの仲間でしょう」と言われるや、三年半寝食を共にしたイエス様をののしる様に、「俺は、そんなやつは知らない」としらを切ります。しかも3度も。その後、鶏が3度泣き、ペテロは、3度イエス様のことを知らないと言うだろう、というイエス様の言葉を思い出します。そして深く後悔するのです。

 その深い後悔の思いが、「ペテロは、激しく泣いた。」という38番の最後で歌い継がれています。 38番の「ペテロの否認」では、テンポよくキビキビと歌われてきたレチタティーボ(朗読調の歌唱)が、最後で明らかに一転します。「激しく泣いた!」に相当するたった二つの単語、「weinete bitterlich!(英語では「wept bitterly!)が、おどろくほどスローテンポで歌われます。しかも静かに、消え入る様に。          

 

 ペテロは、心をギュッと絞り込むかのように涙した様子がありありと浮かぶようです。そして39番で哀れみを乞う有名なアリアへと続いていきます。

 ペテロの慟哭の中にあったのは、「自分は卑怯だ」という思いだったかもしれません。そして、もしかしたら周りの人達からも、他の弟子達からも「卑怯者」と言われたりそのように思われたかもしれません。ペテロが負ったのは「卑怯者の傷」だったのかもしれません。

 ペテロのことを考えていた時に、一つのニュースを思い出しました。試験でカンニングをしてしまった子が、周りから卑怯者と言われ、卑怯者と言われて生きるのが怖くなったと言って命を絶ってしまった、とても悲しいニュースです。「卑怯者」と言われたり思われたりすることが、どれほど重くて大きな傷を負ってしまうことになるのか、考えさせられています。私達は目に見える部分では卑怯者と周りから言われることはしていないかもしれません。しかし、見えない部分ではどうでしょうか。自分のことを省みた時に、過去を振り返った時に、全く卑怯だということをしていない、と言える人はどれほどいるのでしょうか。私自身を振り返ると、あれは卑怯なことだったと思うことが沢山出てきます。忘れたくても忘れられないほどに。

 ペテロの慟哭の中にあったのは卑怯者の傷かもしれません。今日の聖書箇所はその後のことです。ペテロの慟哭(激しく泣いた)の先にあったものは何か。共に聞いてまいりましょう。

 

 今日の箇所は、ヨハネによる福音書の最後の場面です。復活したイエス様は、3度弟子達の前に現れました。ここでは、ペテロたちが一晩中漁をしたけれど何も取れなかったところにイエス様が岸に立ち、網を投げる場所を教えると沢山の魚が取れ、弟子たちがイエス様に気付きます。イエス様は炭火を起こし、パンと魚をのせ、朝の食事の用意をしてくださいました。その後に続く場面が今日の聖書箇所です。

 

15

「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。」

 イエス様はペテロに聞きます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。ヨハネの子・シモンという呼び方は、何かを公の場で誓う時のような、厳かな響きがあります。「この人たち以上に」とは、「他の弟子たちがイエス様を愛する愛以上の愛で私を愛するか?」との問いかけです。

 ペテロは、以前は、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ1429)と言いました。しかし、3度イエス様を知らないと言い、自分が高らかに宣言したこととは真逆のことをしてしまったペテロです。そのペテロがここで誓いの言葉を述べます。しかし、その言葉の中にはイエス様を裏切る前の言葉とは違う響きがあります。もはや以前のような誰かと比較をするような主張はしないのです。

 ペテロは言います。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ペテロは、イエス様がペテロの心の中を知っていることも認めていました。

 イエス様はその答えを聞き、ペテロに任務を与えます、「わたしの小羊を飼いなさい」。「わたしの子羊」、イエス様の子羊です。イエス様が羊飼いです。ペテロはイエス様に代わって羊を飼うけれど、それでもなお、子羊はペテロの子羊ではなく、イエス様の子羊なのです。

 ペテロの答えを待つ代わりに、イエス様はペテロに再び問います。

 

16

「二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

 質問は同じです。唯一の違いは、「この人たち以上に」と聞いていないところです。イエス様はシンプルに尋ねます。「(あなたが愛していると言っているように)、わたしを愛しているか」。

 イエス様の答えも言葉は違いますが同じです。「わたしの羊の世話をしなさい」。ヨハネによる福音書では、羊はイエス様の弟子を表しています。したがって、ペテロに託された働きは、彼の仲間の弟子達の牧師としての働きでした。彼ら以上にイエス様を愛していることを誇る代わりに、彼らを愛しお世話をすることだったのです!

イエス様はペテロの答えを待たずに再び問います。

 

17

「三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

 イエス様が3度も同じ質問をしたので、ペテロは悲しみます。イエス様がペテロを信じてないと感じたからでしょうか。それとも、ペテロが3度イエス様を知らないと言ったことを思い出したからでしょうか。しかし、イエス様が3度聞いたことには意味があります。

ペテロは三回主を拒みました。しかし、主は同じく三回ペテロに愛を肯定する機会を与えられました。イエス様は、その恵み深い赦しの中で、ペテロに三回愛の宣言をさせることで、あの三回イエス様を拒んだ記憶を拭い去らせようとされたのです。

 ペテロはここでは「はい」と言いません。しかし、逆にその思いが強まっています。「主よ、あなたは何もかもご存じです」。イエス様はその答えが「はい」であることを、ペテロが再び言わなくても分かるお方です。ペテロはそのことを信頼して答えました。だからこそ、イエス様の答えも同じです。「羊を飼いなさい」。

 

18-19

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」

 ペテロの最後が殉教であることをイエス様は告げています。ペテロは自分の意志とは違うところで死ななければならなかったのです。しかし、それにもかかわらず、イエス様が十字架で栄光を現したように、ペテロもその死を通して神様の栄光を現すと告げられます。

 そして、イエス様は最後にもう一つの命令を加えます。「わたしに従いなさい」。

 

 

 ペテロの慟哭の先にあったものは、卑怯者というイメージからの解放でした。ペテロの愛に先立つ神様の愛によって、復活されたイエス様との出会いによって、ペテロはやり直しの機会が与えられました。復活されたイエス様からは、「私の羊を飼いなさい」という、思いもよらない新しい働きへの就任さえも告げられました。ペテロにとって、その招きは、「生まれ変わった!」と言えるほどのやり直しを意味しました。卑怯者の烙印が消し飛んだ瞬間でした。一番癒されたのは他でもないペテロ自身でした。卑怯者の傷が癒されたので、喜びにあふれて新しい働きに進んでいくことが出来ました。

 愛は働きを与えます。同時に、愛には犠牲が伴います。ペテロはイエス様に従う中で殉教が待っているということもきっと知っていたでしょう。しかし、生まれ変わったペテロは、自分を救って下さった、生まれ変わらせてくださったイエス様の十字架の苦しみに一緒にあずかれるなら、喜んであずかりたいと思ったことでしょう。その最後は、神様の栄光と復活にあずかる最後だと知っているからこそ、進んで行けるのです。卑怯者のイメージを負い命を絶ってしまった若者が、生まれ変わらせてくださるイエス様に出会っていたら、と願わずにはいられません。

 愛は働きを与え、責任を与え、犠牲を生みます。しかし同時に喜びを与え、喜びにあずかる特権を与えます。イエス・キリストの復活を信じることで与えられる、生まれ変わりのいのちに勝るものはないと知った時、特権をいただきながらこの責任に喜んであずかっていくことができます。

 また、ペテロは私たち一人一人のお手本でもあります。私達はヨハネのように優れた思索をすることはできないかもしれないし、パウロのように、地の果てまで出かけていくことはできないかもしれません。しかし、私たち一人ひとりは、誰かを守って迷わないようにすることもできるし、神様の言葉で、お互いを励まし合う、羊飼いの役を負うことができるのです。

 

 

 ペテロのように、全てを知っておられる神様に自分をさらけ出し、慟哭の先に、「わたしに従いなさい」と言ってくださるイエス様の招きに答えていくことが出来ますように。