牧師と教会① 「希望を語る牧師と教会」 コロサイの信徒への手紙1章23~29節

牧師と教会① 「希望を語る牧師と教会」

コロサイの信徒への手紙12329

 

 先週は主イエス・キリストの復活をお祝いするイースターと召天者記念礼拝を捧げ、私達は新しい年度を迎えることが出来ました。復活した主イエス様から頂いている恵みに感謝いたします。その恵みを受けて今年度を歩んでまいりましょう。

 さて、4月から新しい生活がスタートする方々も沢山いらっしゃると思います。皆様はどんな年になることを期待するでしょうか?

 私は、去年から掲げられている新ビジョン「信仰と希望と愛に生きる」を通して、ますます神様が皆様の中で働いて下さることを期待しています。と同時に、イエス様の言われた言葉が思い浮かびます。「・・・もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(ヨハネによる福音書150節後半)

 神様の計画は私達にははかり知れません。その計り知れない計画を共に見させていただきたいと願っています。偉大なことを見ることになるという、主イエス様の約束に信頼して進んでいきましょう。

 今年度の前半の宣教では、「牧師と教会」シリーズを10回に渡って語らせていただきます。これは、神学校で学んでいた時に発題をした「私の牧師像」で、このような牧師になりたいということを10項目にわたって聖書から考えたものです。これまでの様々な出会いと御言葉によって導かれてきたことを通して、一つずつ分かち合っていきたいと願っています。と同時に、私のことだけで終わるのではなく、その牧師像が湘南台バプテスト教会とどのように重なり響き合っていくのか、答えはまだ出ていません。神様に共に聞いてまいりましょう。

 第一回目は、「希望を語る牧師と教会」です。私の原点であり、湘南台バプテスト教会のビジョンの一つです。

 

 実は、この希望というテーマは、私が湘南台バプテスト教会で初めてメッセージを取り次がせていただいた時のテーマでもありました。その宣教題は、「見えない希望をつなぐ者として」でした。私たちは、目には見えないけれど確かにそこにある希望を頂いており、「苦しみが苦しみで終わらない世界がある」、その希望をまだ知らない方々に、そして次の世代につなぐ者とさせていただきたい、と語らせていただきました。2023423日のことでしたので、もう1年前のことになります。しかし、1年たってもその思いは薄れるどころかますます強くなっているように感じます。湘南台に来て今日でちょうど半年が経ちました。湘南台バプテスト教会が神様から与えられていたビジョンと私の牧師像が重なっていたことにも神様の不思議な導きを感じる今日この頃です。そしてさらにそのビジョンが重なり響き合っていくことを祈っています。今日はコロサイの信徒への手紙から、その希望はどのような希望なのか、私達はどのようにその希望に生きているか、チャレンジを頂きたいと思います。

 

 コロサイの信徒への手紙は、パウロがローマで捕らえられている時に、コロサイというローマの一部であった地域のクリスチャンに向けて書かれました。コロサイはエフェソから約160km離れた場所にありました。パウロはコロサイには直接行っていませんし、教会建設にも関わっていません。しかし、パウロがエフェソに3年間滞在していた時に、当時アジア州と言われていた地域にイエス様の福音が一気に広がっていきました。コロサイの教会がどのように建ったのかは分かりませんが、コロサイ地方の人がパウロのことを聞いてエフェソまで行き、パウロから福音を聞いて信じ、コロサイに戻り教会を建てたのかもしれません。

 コロサイの教会のメンバーの多くはユダヤ人以外の異邦人でした。そこでは神様に純粋に従っていこうとする群れが起こされました。しかし、パウロがローマでコロサイの教会の知らせを聞いた時、よい知らせと共に、問題も聞きました。まだ大きな問題ではありませんでした。しかしその問題を放っておいたら、教会が破滅するかもしれないとパウロは考え、このコロサイの信徒への手紙を書きました。その問題を要約すると、偽教師の異端思想ということになります。

 (1)占星術が流行っていた時代、占星術が霊的なものから人々を解放すると主張する人々がいました。その偽教師が教会にいて、人々を解放するためにイエス・キリスト以上のものが必要だと教えていました。また、悪霊や悪魔の力も今以上に信じられていた時代で、それらの悪魔を打ち負かすのにも、イエス・キリスト以上の何かが必要、イエス・キリストだけでは不十分だと、偽教師たちは教えていました。

 (2)さらに、偽教師たちは、聖書の教えは福音のシンプルさに、もっと緻密で深い知識を加える必要があると考え、そのように教えていました。

 (3)さらに、偽教師は霊的・知的エリート意識を持ち、そのような福音の知識は選ばれた自分たちのような小数者にしか与えられていないものだ、と考えました。そして貴族社会のようなものを作っていきました。これらはグノーシス主義とも関わってきます。

 

 パウロはそれらの異端思想に対抗します。イエス・キリストは完全なお方で、福音はシンプルで、そして全ての人に開かれていると。

 

 23

「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」

 そこでパウロは、それらの異端思想に惑わされることなく、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストを信じる信仰に固く立つようにと勧めるのです。コロサイの人達が最初に聞いた福音は希望の福音です。その福音とは、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架に架かって死なれ、3日後に復活して死に勝利したことです。そして、イエス・キリストの十字架の死は自分の罪の為だったと信じ悔い改めるなら、その人は誰でも例外なく罪が赦され救われ、永遠のいのちをいただいて生きることが出来る、という福音です。ここに、人が罪の中で死んで終わりではない希望があります。そのような赦しの道を備えてくださったほどに、神様は私達一人ひとりを愛してる、これがコロサイの人が聞いた福音の希望だと思います。

 シンプルです。偽教師は福音に様々な哲学を加えて難しいものにしようとしました。そして信仰を揺さぶろうとしました。しかし、福音はシンプルなのです。そのシンプルだけれど真実の本当の福音にしっかり立ち、福音の希望から離れないように、とパウロは進めているのです。福音は希望です。そしてその福音の希望が文字通り世界中に宣べ伝えられています。パウロはその働きに仕えました。私がボランティアをしたOMの事務所にも、「help」、「hope」、「 knowlegde」という旗が掲げられ、希望を伝えるという使命が明確に現されていました。私もその希望を宣べ伝える者の一人に連なっています。そして、教会も、いや、キリストの体である教会こそ、その福音の希望を語り伝える働きに遣わされているのです。

 

 24

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」

 コロサイの人のために、苦しむことを喜んだ、とは何とすごいことでしょう。

苦しむことを喜べるってすごいことです。しかも人のために。でも、主が愛した人の為になら、私達にも出来るのかもしれません。パウロは、イエス様の愛した人々のために苦難を負うことで、イエス様の苦しみを共に味わっていたと気付いていました。そして、パウロが仕える中で耐え忍んだ苦しみによって、パウロは彼らが苦しんだ時に仲間のクリスチャンと共感することが出来ました。また、パウロは、神様の御手の中で経験した慰めをも分かち合うことが出来ました。パウロはそのようにイエス様の苦しみを担うことを喜んでいるのです。このことはⅡコリ1:4でも共に見ました。

 

25

「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、

この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」

使徒言行録9章でパウロにイエス様が語られた時、パウロはこんな風に思ったでしょう。

「こんな私に、ずっとキリスト教を迫害してきたこんな私を憐れんで、神様は真逆の道、イエス・キリストの愛を伝える道を与えてくださった。」

パウロは全く新しい光景、新しい景色を見たのです。そこにパウロは大きな希望を見たのです。

神学校時代に平野克己先生の『説教のキーワード』という本を読みました。今でも印象に残って大事にしている言葉があります。

「やっとの思いで礼拝に帰って来た教会の仲間たちが、来た道と帰る道の光景が違って見えたら、どんなにすばらしいことでしょう。・・・本当に大切な人と出会ったら、その前とあとではすべてが変わって見えるのです。世界が光に満ち、自分を包む空気さえ変わってしまいます。聖書は、そのような出来事を起こす書物です。」

そのような出会いがパウロとイエス・キリスト間で起こされたのです。私もその新しい光景を希望として語り続けていきたいと願っています。

 

26-27

26世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。27この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」

計画と言う言葉は、英語でミステリーと書かれています。神のミステリーが明らかにされました。旧約聖書の時代はまだ隠されていたミステリーです。ミステリーは旧約聖書の時代にも語られました。しかし、完全にそのミステリーを解釈できる人はまだおらず、そのミステリーが明らかになることもなかったのです。

 この神のミステリーは、ユダヤ人だけのものではないことを、神様はパウロに伝えました。それがパウロの喜びとなり、パウロはユダヤ人でない人たちへの伝道へと遣わされます。

 そのミステリーとは、イエス・キリストそのものです。パウロはキリストが「あなたがたの内におられる」と言います。イエス・キリストを信じた人々の中に、聖霊を通して、個人的にキリストが住まわれるとパウロは言うのです。イエス・キリストを信じた人は、キリストの体の一部となり、復活したイエス様のいのちを自分自身の中に持つのです。これがミステリーでなくて何でしょう!しかし、このことが明らかになったのです。

 

28

「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。」

 キリストがすべてです。イエス様が始まりであり終わりです。信仰へと導く救いのメッセージであろうと、既に信じている人々に教えるメッセージであろうと、キリストがすべて、イエス様がすべてです。イエス様を知らない人に福音を伝えることと共に、人々が福音を信じた時には、知恵を尽くして導き全ての人を教えることが必要です。そのどちらにも私は遣わされていると信じています。そして教会もまたそのように遣わされていると信じています。また、パウロは2回、全ての人にと強調しています。エリートだけが知っておけばいいキリストの教えなどないのです。神様の真理は、全ての人に開かれています。だからこそ、私には関係ない、とも言えません。

 

29

「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」

 パウロ自身も与かっていく福音の希望という祝福に満ちたゴールのために、パウロは全ての力をつぎ込み、福音の希望を伝えています。パウロは労苦していると言います。しかし、もしパウロが教えた人々が心からイエス様に従う成熟したクリスチャンとなったなら、パウロの喜びはどれほど大きいことでしょうか。そしてまた、そうならなかったとしたら彼の悲しみもまたどれほど大きいことでしょうか。

 しかし、パウロは分かっています。そのパウロの絶え間ない働きに必要な力は、彼自身から来るものではないと。その力は、パウロの中で力強く働いてくださり、全てを可能にする主イエス様から来ると。私達にも同じことが起こります。イエス様を救い主と信じた時には、皆さんの内側で力強く働いて下さるイエス様が共にいてくださるのです。

 

 

 今日の御言葉から、皆さんは希望をどのように表していくでしょうか。イエス・キリストを救い主と告白していない方には、この希望の福音が自分のために伝えられているのだと、そして神様から招かれているのだと知ってください。「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」というのが神様の願いであり、招きです。生きて働くキリストの力にあずかってください。

 

 既にイエス・キリストを信じ告白している皆さん、希望に生きるのは教会の務めであり特権です。一人一人が希望を表していくことで、救われる人がいます。表し方は様々です。証、賛美、日々の生活、奉仕、何でも希望を表すことにつながります。皆さんが「私の内にイエス様が働いて下さっている。だから苦しみは苦しいだけで終わらない」と、言葉で、また、体で表していく限り。