イースター 「復活信仰!」 ヨハネによる福音書20章11~18節

イースター 「復活信仰!」

ヨハネによる福音書201118

 

 湘南台バプテスト教会では、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターの日をイースター礼拝として、また、先に召された方を覚える召天者記念礼拝としてお捧げしています。本日もご家族の方にお越しいただき、共に神様に礼拝をささげることができ、感謝いたします。私は昨年の10月に福岡から湘南台に引っ越してきました。そのため、今回紹介させていただいた皆様を直接は知りません。しかし、この地に湘南台バプテスト教会が建ち、様々な出会いが起こされてきたからこそ今日お捧げする礼拝があることが分かります。お一人お一人がイエス・キリストに出会い、イエス・キリストの福音を信じ、そして天国へと旅立っていきました。召天者記念礼拝とは、先に召された方を覚え偲ぶ時です。しかし、それだけでは終わりません。なぜなら礼拝は神様に捧げるものだからです。私達は、先に召された方の人生の背後に、今も生きて働いて下さっている神様、主イエス・キリストがおられたことを覚え、感謝をささげます。今日は写真を見てご家族を懐かしんで頂きたいと思いますし、ご家族の思い出もお聞かせいただければ幸いです。そして同時に、ぜひ「生きている者と死んでいる者の主」であるイエス・キリストに思いを馳せていただきたいと願っています。

 

 さて、私の大好きなアーティストグループの一つに、サルーキ=というロックンロールバンドがいます。ロックンロールにのせて信仰の歌を歌い続けている、素敵なバンドです。 今日の宣教の題は、「復活信仰!」としました。実は、これはそのクリスチャンアーティストのサルーキ=さんの曲の題に似せてつけさせていただきました。サルーキ=さんの題は「復活進行」です。「出発進行!」という掛け声のごとく「復活進行!」と高らかに歌います。その歌の土台は、やはり「復活信仰」なのです。

 

 私たちは時に困難な状況の中で立ち尽くします。挫折を味わい立ち上がれないということもあります。しかし起き上がれなかった人が起き上がる、死んでいるようだった人が再び生きる力を与えられる、そして前に進むことができる、サル―キ=さんはそのような力のことを歌にしてくれています。その力は、まるで私達が今復活したような力です。しかし、そのような私達の復活はどこから来るのでしょうか、そのことが今日ご一緒にお読みした聖書のに書かれています。イエス・キリストの十字架の死の先の出来事を、今日、神様に聖書を通して聴いていきましょう。

 

11-15 涙の意味

 今日の聖書箇所では、マグダラのマリアという、イエス様に救われて、その後も最後までイエス様についていった女性が登場します。

 マリアは泣いています。マリアはイエス様が十字架に架かった時もその側にいました。自分を救ってくれた方が十字架につけられ、何もできずにそれを見ているだけなのは本当につらかっただろうと思います。マリアはイエス様が亡くなって悲しんでいるのに、さらにその遺体がなくなってしまったのでさらに悲しみました。しかし、イエス様の遺体のあった場所には二人の天使がいました。イエス様の遺体がなくなり、そこに天使がいたということは、神がこのことに関係しているのです。しかしマリアにはその時には天使だとは分からず、お墓だけを見て泣き続けます。

 マリアはその後、お墓の反対方向の後ろを振り向きます。誰かがいる気配を感じ取ったのでしょうか。それはイエス様でした。しかし、天使を見た時にそれが天使だとは分からなかったように、イエス様を見た時にその方がイエス様だとは分かりませんでした。それは涙で前がちゃんと見えなかったからだと思います。単純ですが胸を打つ光景がそこに広がっています。

 イエス様は天使と同じ質問を投げかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。しかし、さらに付け加えます。「誰を探しているのか」。マリアはイエス様に、イエス様のことについて話します。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」(15)。マリアは、イエス様が別のところに運ばれて再び埋葬されたと思ったのでした。墓を塞いでいた石がどかされていたのを見ても、二人の天使を見ても、イエス様ご自身を見ても、マリアの頑固な結論は変わりませんでした。そして再び墓の方を向きます。イエス様に背を向け、お墓から目を離すことができません。

 

16 親しい人の呼びかけ

 そこで、イエス様はただ一言、「マリア」と呼びます。ただこの一言がマリアにとって必要だと分かっていたからです。

 同じヨハネによる福音書に、羊飼いと羊のたとえ話があります。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」ーヨハネ103

「マリア」という名前を呼ぶイエス様の声の響きは、マリアをあたかも眠っている状態、絶望のまどろみから目覚めさせました。

 イエス様の声を知っている者として、マリアはイエス様の「マリア」という一言に、同じ一言で応答します。「先生」と。

 この「マリア」という名前のところに、皆さんお一人お一人の名前を入れて読んでみてください。私たちを目覚めさせるのはイエス様の呼び声です。復活したイエス様が呼んでくださる声から、私たちは目覚めていくのです。

 

17 全ての人の父 同じ父の子どもとしての兄弟姉妹

 マリアはイエス様だと本当に分かりました。墓の方に向いていましたが、イエス様の方に振り向いてイエス様を抱きしめようとしたか、足元でひれ伏して礼拝しようとしたかもしれません。しかし、イエス様は、「私にすがりつくのはよしなさい」と、一見冷たく聞こえる言い方をします。しかしこれには意味があります。マリアは献身と礼拝の行為としてイエス様にすがりつきたいと思いました。礼拝自体は適切なことです。しかしそのタイミングがイエス様の考える時ではなかったのです。イエス様はマリアに他の計画を持っておられるのです。それは、イエス様のメッセージを弟子たちに知らせることでした。マリアがイエス様と一緒に留まる時間が長いほど、イエス様が彼女に伝えたメッセージを届けるのが遅くなるでしょう。マリアにはその使命が託されます。

 「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

 これまでは、兄弟と弟子は明確に分けられていました。しかし、ここで、兄弟という言葉が弟子に使われています。イエス様の弟子が彼の兄弟であるのは、天に同じ父がいるからです。私の父であり、あなたの父、私の神であり、あなたの神なのです。

 

18 マリアの信仰告白

 私達は、イエス様とマグダラのマリアの出来事がどのように終わったのか知らされていません。しかし、多分イエス様の言うことに従い、イエス様が庭にまだ立っているうちに、すぐに旅立ったのではないかと思います。

 イエス様はマリアに、このように言いなさいと伝えます。しかし、彼女が弟子たちに言った最初の言葉は、「わたしは主を見ました」でした。マリアはイエス様のメッセージを伝えます。しかし、彼女の言葉で伝えるのです。それが、「わたしは主を見た」です。

 弟子たちもまた、自分たちの言葉で「私達は主を見た」(25)と、マリアの言葉に合わせて言うことになります。そしてイエス・キリストを主と信じたクリスチャンも、「私は主を見た」と言うのです。私もです。そしてここに集っているクリスチャンの兄弟姉妹もそうです。まだイエス様を救い主だと信じておられない方は、教会の誰かに聞いてみてください。「あなたは主を見たのですか」と。その方がまた、自分の言葉でイエス様のメッセージを伝えてくれるでしょう。イエス様は生きておられるからです。そのイエス様に出会ったからクリスチャンなのです。

 

 冒頭、サル―キ=さんの「復活進行」の歌を紹介しました。私達にはこの世でも生きる力・立ち上がる力が与えられます。その私達の復活は、イエス・キリストの復活を信じる復活信仰によって起こされるのです。人生の最後が墓で終わるのではなく、復活して今も生きているイエス様と顔と顔を合わせて会う時と信じてください。その時、この先に召された方々とも、「さようなら」で終わりではない世界が開けてきます。クリスチャンにとっては、「また会いましょう、神様のもとへ行く時に!」と言えるのです。

 マリアのように、墓からイエス様に向きなおして、復活信仰と共に生きていかれますように。