受難週 「『なぜ?』を越えていくお方」 ルカによる福音書23章39~43節

受難週 「『なぜ?』を越えていくお方」

ルカによる福音書233943

 

 先週の金曜日には、香港から2人の若者が宣教に来てくださり、伝道イベントを行うことができました。このような素晴らしい機会を与えてくださった主に感謝します。イエス様を愛し、イエス様に希望を見出す信仰は香港を含め世界中に起こされています。私達はイエス・キリストを信じる信仰にあって一つです。彼らが日本を愛し来てくれたように、私達も香港の現状とそこに建てられているキリスト教会の為に祈ることができます。これからお互いを覚えて祈り合っていきましょう。

 

 神様の愛と希望を伝えたいと二人の若者は日本に来てくれました。今日からいよいよ始まる受難週の中に見出す愛と希望です。

 受難週とは、イエス様が十字架にかけられ、墓に葬られるまでの1週間を思い起こしつつ過ごしていく週のことです。

 受難週の日曜日は、棕櫚の日曜日とも言います。英語では「パーム・サンデー(Palm Sunday)」です。イエス様がエルサレムに入場する時に、群衆は棕櫚の葉っぱを敷いてイエス様を歓迎したことを覚えてそのように呼ばれています。群衆は「「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」」(ルカ1938)と熱烈に歓迎しました。しかし、その5日後には、群衆も共にイエス様を十字架につけるのです。群衆の変わりやすさ、私達の変わりやすさを見るようです。天に上げるように称賛しながら、次の日には地に落とす、ジェットコースターのような評価が下されます。それだけ私達は流されやすい、コントロールされやすい存在です。何を基準にしているかによってその流され方も異なってくるでしょう。今日は、イエス様が実際に十字架に架かる場面から、イエス様が与えてくださった希望を見たいと思います。十字架が希望、とはいったいどういうことでしょうか。今日の場面から見えてくることがあります。

 

 話は変わりますが、何かご自身に降りかかった出来事や身の回りの人に起こった出来事について、「なぜ?」と思ったり言ったりしたことはありますでしょうか?自然災害や犯罪や突然の事故にあった時、そのことで家が壊れたり物が盗まれたり健康を損ねたり、あるいは誰かが命を落としたり、そのようなことが実際に起こります。その時、天命ですと受け止めることのできる人は少ないでしょう。突然の悲報に、割り切れない思いがつのり、「神がいるならなぜ?」、「よりによってなぜ私が?」、「よりによってなぜ私の親が?」、「不条理だ!」と叫びたくなるのが普通です。私にもあります。

 

 今から二千年前のイエス様の十字架の死も、弟子たちにとっては突然のことでした。ばりばり伝道活動をしているさなか、群衆達からも熱烈に歓迎されてエルサレムに入城したにもかかわらず、イエス様はローマ帝国の極刑につかざるを得なくなりました。弟子たちは、「なぜ?」「イエス様は救い主・メシアだったのではないのか?」「神がいるならなぜ私がついていった人にこんなことが起こるのか?」そのような「なぜ」が弟子たちにもうずまいていたことでしょう。神様はその「なぜ」に答えてくれるのでしょうか。今日の聖書箇所から一緒に聞いてまいりましょう。

 

ローマ兵はイエス様の十字架を二人の囚人の間に立てました。これには目的がありました。

犯罪を犯した強盗と一緒に配置することで、群衆の前でイエス様を辱めるためでした。

 

39

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」

 イエス様は、3つのグループの人たちにあざけられます。一つ目は議員達、二つ目はローマ兵、そして三つ目は今日出てくる十字架に一緒に架かった犯罪を犯した人達です。

ここで、この犯罪を犯した人の口から、私達は既に真実だと分かっていることを繰り返し聞くことになります。「お前はメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ。」

 文字通り、イエス様の王としての地位と救い主としての役割は繋がっているのです。しかし、この罪を犯した人は、ローマとエルサレムのエリートたちと同調してイエス様をあざける中でこの言葉をイエス様に言いました。ルカはこう言っているかのようです。すなわち、この犯罪を犯した人は、そしておそらく彼と共に十字架の上のイエス様をあざけった全ての人は、イエス様をののしることで、神の力をののしっているのだと。

 さらに、この罪を犯した人は、大胆にも自分ともう一人の十字架につけられた人をイエス様と同じ地位に見ています。「自分自身と私たちを救ってみろ」、すなわち、自分を救えるなら私たちも救えるはずだ、救われるべきだ、と思っていたのでしょう。

 しかし、この罪を犯した人は、誤っています。その言葉から分かります。メシアはその死から救う人間だ、と思っているのです。そしてこの犯罪を犯した人も、ここにいた人たちも含めて彼らは、イエス様の苦しみと死は、イエス様の聖なる働きと計画が否定された出来事だと見ました。

 しかし、イエス様は、この苦しみを受けている正しいお方は、目の前の死から救うのではなく、そのご自分の死を通して、私達を救おうとされているのです。そのように、イエス様は救い主としての役割を果たし続けておられるのです。

 

40-41

「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」

 この人がどんな犯罪を犯したかは分かりません。マタイによる福音書では強盗だと書かれていますが、ルカによる福音書ではこの犯罪人と書かれています。そもそも十字架に架からなければならない犯罪とはどのようなものだったのでしょうか。ローマでは十字架の刑は「国家反逆罪」への罰であったという記録もあります。しかし、この人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けている」と、自分の罰を受け入れています。最後の最後で自我が砕かれたのかもしれません。そしてなぜ知っているのかは分かりませんが、この犯罪を犯した人は、イエス様に罪がないことを知っています。「しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 

42

「そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」

 さらには、イエス様の名前を知っており、名前で呼びます、「イエスよ」、と。

 この犯罪人の「わたしを思い出してください」という要求は、神様(ヤハウェ)に繰り返し述べられた言葉の響きがあります。神様が覚えてくださっているということが、神様が与えてくださった契約と一致した聖なる祝福の源だったからです。

 「主よ、わたしたちを御心に留め 祝福してください。イスラエルの家を祝福し アロンの家を祝福してください。」ー詩編11512

 ”The Lord remembers us and will bless us: He will bless his people Israel, he will bless the house of Aaron," - Psalms 115:12

 この罪を犯した人は、他の聖書箇所で出てくる社会的に締め出された人々のように、イエス様の地位と正体を知っています。彼は、救世主が苦しむことは矛盾しているとは考えませんでした。それが救い主としての役割だったと認識した初めての人だったのです。彼は、イエス様の十字架は、救い主が王として即位する前触れだと理解した初めての人でした。したがって、「御国においでになる時はわたしを思い出してください」という彼の要求において、イエス様の王としての支配を待ち望んでいます。

 

43

「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』」

 楽園は、パラダイスと言われています。古代ペルシャ語で、囲まれた場所、庭や公園を指しています。ペルシャの王がその民に特別な名誉を与える時には、その人を王の庭に入ってよい者として、王と共にその庭を散歩する名誉を与えました。

 イエス様はその悔い改めた罪を犯した人に、天国の庭園を一緒に歩く栄えある地位を約束しました。しかも、今日、その楽園に私と一緒にいる、と言うのです。今日楽園にいるという約束は、救いはイエス様の言葉を受け入れたその時すぐ起こるという他の箇所とも重なります。

イエス様は伝道を始めた最初の頃このように言いました、 「そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。」ールカ421

また、ザアカイにはこのように言いました、 「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。』」ールカ199

 

 イエス様が共にいてくださる、そこがパラダイスであり、救いがその人と共にある、という証拠なのです。

 この場面を通して、イエス様のもとに帰るのに遅すぎることはないということを教えられます。他のことでは、「もうその時は過ぎた。私は既に年を取ってしまった」ということはあるかもしれません。しかし、イエス様のもとに帰るとなると、そんなことは言えません。私達の心臓が鼓動している限り、イエス様の招きは続いています。命ある限り希望があるとは、神様の真理です。

 

「するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」

 

 この言葉こそが、突然の悲報(肉体の死)、わたしたちの「なぜ」を乗り越える約束であり、希望です。突然いのちを失った時、魂の行き先が不明なら、もがきあがくしかありません。しかし、行き先がはっきりとしていて、イエス様が共におられ、天国に自分の国籍が移されていると知るなら、残念無念と呪う必要も、不条理と叫ぶ必要もありません。

 

 すべての「なぜ」に対する答えを私達は持ち合わせていません。最後まで分からないこともあります。しかし、その「なぜ」を乗り越えることは、すべての原因を突き止められなかったとしても、できるのです。愛なる神様が私を覚えてくださっています。イエス様が共にいてくださりそこを楽園としてくださいます。十字架の道を命をかけて歩んだイエス様が与えてくださったこの希望を受け取り、「なぜ」を神様と共に乗り越えていきましょう。

 悲報のただ中に置かれている方に、私が「なぜ」の全ての原因を答えることはできません。しかし、聖書には私たちを支える言葉が満ちています。それならばお伝えできます。