「互いに足を洗い合おう」 ヨハネによる福音書13章1~15節

「互いに足を洗い合おう」

ヨハネによる福音書13115

 

 3月もちょうど半ばを迎えました。2週間後にはイースターを迎えます。その前の来週は受難週を迎えます。イエス・キリストがエルサレムに入場してからの1週間を覚えます。そこで十字架の出来事が起こってきます。今日は一足先にはなりますが、イエス様が十字架に架かる前日の出来事をご一緒に見てまいります。

 余談ですが、「洗足の木曜日」という言葉を皆様は聞いたことがありますでしょうか。イエス・キリストが十字架にかかる前日の木曜日、今日の箇所に出てきます弟子たちの足を洗った出来事を記念するために定められています。カトリック教会や聖公会等では、特に洗足式といって実際に足を洗い合うことも行われているようです。日本のプロテスタント教会ではあまりこの日に集まって集会を行うことが少ないかもしれません。私がアメリカに滞在中は、受難週の木曜日、長老派の教会に連れて行ってもらいました。そこでは、洗足の木曜日を記念するために皆さんが集まっていました。何が行われるのか緊張感を持って見ていましたが、そこでは、それぞれテーブルに座り、ロウソクの明かりの中で晩餐の時が持たれました。とても美味しい料理を沢山頂いたことを今でも覚えています。その後、牧師先生がリードをして主の晩餐式が持たれ、その時が終わりました。とても印象的な時でした。実際に足を洗い合うわけではありませんでしたが、木曜日に、イエス様が主の晩餐式を、十字架を記念するために行ったことを強く感じさせて頂く時となりました。それほどに、この洗足の木曜日、十字架に架かる直前にイエス様が行われたことは大事なことでした。

 その意味をご一緒に確認し、私達も主に応答してまいりましょう

 

 福音書物語の中にはイエス様の御業が沢山出てきます。しかし、今日の箇所ほどイエス様の性格を表し、これほど完全にイエス様の愛を示しているところはないと言えるかもしれません。

 

1-2

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

2夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

  過越しの前のこととありますが、この場面は、主の晩餐が行われた後のことと考えられます。

 ユダにはすでにイエス様を裏切る段取りが付いていたことも見えてきます。

 そこでイエス様が行われたのは、弟子たちをこの上なく愛し抜かれたというのです。その愛がどのように表されているのかは、4-5節にあります。

 

3-5

3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」

 

 イエス様は屈辱の時と共に栄光の時が近づいていることを知っていました。ご自分が神から来て神に帰っていく者であることを知っておられたのです。

 しかし、ご自身に神の権力と栄光があることを知っていながら、弟子たちの足を洗いました。これ以上ない謙遜を示されました。

 ある人々は、自分は高い身分にあるので世間一般の人がすることは自分に相応しくないと考えます。しかし、イエス様はそうではありません。ご自身が万物の主であることを知っていたイエス様が、タオルを取って腰に巻き、弟子たちの足を洗われたのです。

 イエス様は父なる神様のもとに帰ろうとしていました。神様に最も近くにいたまさにその時、イエス様は人への奉仕へと降りて行かれていたのです。神様の近くにいる人ほど人間の近くにいる人はいない、ということは真理です。

 

ここで、足を洗うとはどういうことかをお伝えしておきたいと思います。

 パレスチナの道路は舗装されておらず、ほこりっぽい道路でした。雨期にはどろだらけになりました。人々はサンダルを履いていましたが、サンダルは道路のほこりや泥を防ぐのには役に立ちませんでした。そこで、家の戸口には水がめが用意されており、召使いが水差しとタオルを持って控えており、お客さんが来ると彼らの汚れた足を洗った。

 

 イエス様の群れには召使いはいませんでした。当時の富裕な社会で召使いがする仕事は、弟子たちが互いに担い合わなければなりませんでした。

ルカによる福音書を見ますと、その主の晩餐を受けた後、弟子たちは誰が一番偉いか論じ合っていました。

「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」ールカ2224

 おそらく、この最後の晩餐の夜には、彼らは競い合って誰が一番偉いのか論じ合っていたので、誰一人として、入ってきた時、皆の足を洗う水とタオルがあるかどうか調べる仕事をしようとはしなかったでしょう。誰が足を洗う役をするべきなのかを論じていたかもしれません。かれらは食事をすでにしているため、実際には誰かがその食事の前に足を洗う役目を負ったかもしれません。しかし、その役目を負わされたことに納得が行かなかった弟子たちもいたかもしれません。それはお前の仕事だと、互いに言い合っていても不思議ではありません。イエス様が十字架に架かられる直前になっても、まだ、弟子たちはそんなことをしていました。

 イエス様はそれを見抜かれました。そして、彼らの誰一人としてするつもりのなかったことを、イエス様ご自身がされたのです。

 

12-15

「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 13あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」

 イエス様は言います、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」(12)、と。そしてこのように言っているのです。「わたしはあなたがたの教師であり主だが、わたしはこのことを、あなたがたのためにする覚悟がある」

「そして、わたしがこのことをするからには、あなたがたもそれをする覚悟がなければならない。あなたがたがお互いにどうすべきか、わたしは手本を示したのだ。」

 偉大なものはただ一つ、それは仕えることの偉大さです。

 人生のあらゆる領域において、自分が優位に立ちたい、そして誰かに従う立場にいたくないという思いが、物事をめちゃくちゃにします。また、どんな社会でも、わざとではなくても、誰かが無視されてしまう場合があります。そんなとき、人はかっと怒りを爆発させるか、何日もふさぎ込んでしまうことがあります。

しかし、私たちが自分の尊厳、地位、権利のことを考えそうになる時には、腰にタオルをつけ、弟子たちの足もとに膝をついている神のみ子イエス様の姿を再び仰ぎましょう。

 王者の謙遜さを備えているこの方こそ、真に偉大な方、真に愛される方です。その謙遜さは、人々の間にあってイエス様を僕とするとともに王とします。

 私達もイエス様に倣うとき、おなじことが起こります。人々が尊敬するようになるのは、イエス様のように身を低くする人であり、人々はその人のことをいつまでも記憶にとどめるでしょう。

 

 イエス様は、十字架に至るまで、弟子たちに手本を示し続けました。そして仕えるように、僕となるようにという働きのバトンを、弟子たちに渡しました。弟子たちは、イエス様の十字架と復活の後、イエス様から受け取ったそのバトンをしっかりと持って走り抜きました。湘南台バプテスト教会もそのバトンを受け取っています。その私達の足はどのような足でしょうか。時にイエス様に洗っていただいたようにきれいな足の時もあれば、雨の道をサンダルで歩いてきたように泥だらけの足の時もあるかもしれません。

 まず、私達の罪から来る傲慢や嫉妬・怒りから汚れてしまった足をイエス様に差し出し洗っていただきましょう。イエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8)と言われました。足を洗うことで示された神様の愛を拒むことは、自分は神様のものではない、この世のものだと言っていることになります。イエス様に私たちの汚れた足を差し出し、洗って頂きましょう。

 また、足を洗うというのは、ここでイエス様がされることでバプテスマとも関連を持ちました。初代教会においても、また今日においても、教会に入る方法はバプテスマです。バプテスマは入会の洗足と呼んでもよいほどです。

 足を洗ってもらうというのは、お客さんとして家に入る前になされることだと私達は見てきました。イエス様はペテロに言われます。「あなたにとって必要なのは、からだを洗うことではない。それはあなたが自分でできることだ。あなたに必要なのは、信仰という家庭に入る印となる洗足だ。」これが10節のイエス様が言われていることです。イエス様に足を洗って頂くということはバプテスマであり、罪が赦され、イエス様が作って下さった共同体に家族として入っていくということです。この受難節を迎えている時、イエス・キリストの十字架と復活の愛を思い、イエス様に足を洗って頂こうという決意が起こされますように。

 

 

 そして兄弟姉妹の皆さん、私達はどのように互いの足を洗い合うことができるでしょうか。少し思いめぐらしてみてください。実際に足を洗うということ以上の僕と謙遜の姿がイエス様にあります。目に見える形で仕えてくださったのがイエス様です。そのイエス様に倣おうとする時、私達はどのように仕え合うことができるでしょうか。誰も好んでやろうとしなかったことをイエス様が膝をつきされたことを思い、その姿に共に変えられていきましょう。そして受け取っているバトンを次につないでいくために、主と共に歩む道、仕え、僕となる道を共に歩んでいきましょう。