「リビング・ウィル」 マルコによる福音書8章31~33節

「リビング・ウィル」

マルコによる福音書83133

 

 私たちは、受難節のただ中にあります。イエス・キリストの十字架への道、その思い、その苦しみを共に覚えていきたいと願っています。また、明日3/11は東日本大震災が起こって13年目を迎えます。多くの方が命を落とし、原発の問題も浮き彫りになったあの時から13年です。被災された方の苦難を忘れることなく、共に歩む者へとされていきたいと願います。巻頭言の祈りを共に祈りましょう。

 さて、3月に入りました。3月は卒業式のシーズンです。お孫さんが卒業式を迎えられたという方もいるでしょう。卒業式を行う意義の一つは、次のステージに旅立つための心構えを自覚させることにありそうです。巣立ちの動機づけを高めるのが卒業式です。小学生が中学生に、中学生が高校生になる時には、もう小学生、中学生ではないのだと、自覚を促されています。

 大学生であれば学生気分を一掃して、社会人としての自覚を促されます。卒業した学生に会社が求めるものは何でしょうか?それは、仕事に対する持続性、会社に対する忠実さではないでしょうか。入社してすぐに職場放棄されたり転職されては困るからです。そういう意味では、卒業式は動機づけを強いられる時と考えられなくもありません。

 

 「動機づけ」という言葉は、「モチベーション」と横文字になってアスリートを始め日本人にも受け入れられています。それは、「モチベーションが行動の質を左右する」ことに気が付いたからではないでしょうか。さらには、「良いモチベーションは、持続する行動を生み出す」ことを知ったからではないでしょうか。

 

 しかし、特別なモチベーションがあります。びっくり仰天するような力強い行動を生み出す動機付けがあるのです。

 皆さんは、リビングウィルという言葉を聞いたことがあるでしょうか。リビングウィルとは、事前に医療・ケアの選択について意思表示をしておく文書のことです。生前遺言、生前の意志、事前指示書、などと呼ばれます。医療の変化やご自身の気持ちの変化もありますので、大体1-2年ごとに見直すのが望ましいと言われています。

 ホスピスケアが、日本でも少しずつ広まってきました。それを可能にする最初の一歩は、ケアを受ける本人のリビング・ウィル、「生前の意思表示」です。人工呼吸器の可否、延命治療(点滴や胃瘻を含む)の可否、入院か在宅か、葬儀の様式は、などの表明も含まれます。    ある方は、召される12ヶ月前に、葬儀のやり方まで含めたリビング・ウィルがなされました。したがって、キリスト教での葬儀がスムーズにできました。そして、聖書の言葉に耳を傾ける機会を、大勢の人々に与えられたのです。

 リビング・ウィルは、いわば、終末期の患者さんのモチベーションと言うべきものです。

ターミナルケア(終末期医療)の中でこそ、モチベーションを発揮してほしいとお医者さんは言います。なぜなら、思い切った行動の原動力になるからです。

 ターミナルケアの現場では、召される直前の驚くような出来事に出会うことが少なくないそうです。ターミナルケアをした多くの夫婦が、「こんなに親密な時はなかった」、「こんなに話し合った時はなかった」と語ります。

 告げられた余命の12年間の生活の質は、それまでの数十年間の生活の全てを超えるほどに豊かなものになりうるのです。モチベーションを高めることが、期間は短くても終末期の生活の質(QOL:Quality of Life in Terminal Care)を飛躍的に高めてくれます。

 そして、QOLを高めるための最良の処方箋は、心の中にあります。

 

この3月、よいモチベーションを持ち、心を研ぎ澄ます時にしてみませんか。人生の卒業式は必ず全ての人に起こります。その時に備えましょう。皆さんが健康そのものであったとしてもお尋ねします。最後に残していく『辞世の句』・リヴィング・ウィルを書き出してみましょう。そしてご家族や教会の兄弟姉妹と分かち合ってください。

 

 さて、新約聖書にも、イエス・キリストのリビング・ウィルが記録されています。今から2千年前、イエス様が、ご自身のリビング・ウィルを弟子たちに語りました。リヴィング・ウィルが明確だったイエス様の生涯は驚くべきものでした。今日の聖書箇所がそのイエス様のリビングウィルです。ご一緒に聞いてまいりましょう。

 

 この前の箇所で、イエス様は弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。ペテロは「あなたは、メシアです」、すなわちイエス様が救い主ですと答えました。ペテロの信仰告白がここにあります。今日はそれに続く箇所です。

 

31

 イエス様にとって、メシアであると認めるのはどういうことなのかを教えるのは、必要不可欠でした。なぜなら、当時ユダヤ人が抱いていたメシア像は、ローマ帝国からイスラエルを解放して自分たちの新しい王国を作る王、というものだったからです。力強く栄光のうちに来られる救い主のイメージです。ペテロが告白した「あなたは、メシアです」という言葉は間違っていません。少なくともイエス様を救い主として認めていることで、信仰告白の私達の原点にもなっていきました。

 

 しかし、イエス様は、ご自身にこれから起こることを話し始めます。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 」

 

「人の子」という言葉は少し謎めいて聞こえます。「私」という一人称の回りくどい言い方として使われた、という説もあるようです。事実、イエス様もご自身のこと、また、メシアのことを指して「人の子」と言っています。

 この「人の子」という表現は、ダニエル書71314節に出てきます。その「人の子」のイメージが弟子達にも、イエス様にもあります。

「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。」―ダニエル713-14

 このような幻がダニエルに示されたので、権威を持った王として来られる救い主、諸国民がその救い主に仕えるのが、「人の子」でありメシアであると理解されていました。

 しかし、イエス様は、そのダニエル書で語られた「人の子」のイメージとは真逆のものをメシアの使命として負っています。すなわち、並外れた栄光の人は、苦しみの道を行くということです。イエス様の王としての権威は、イスラエルの指導者たちに拒絶され暴力的な死を遂げた後にのみ明らかにされるということです。

 「人の子」という表現はマルコによる福音書では14回にわたって出てきます。その半分以上は人の子が苦難を受け、苦しみ、裏切られるというものでした。

 

「多くの苦しみを受け」もイザヤ書53章の光の中で見ると、「多くの人の罪を負う」というと同じ意味です。

 「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた

神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」ーイザヤ534

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。

わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。」ーイザヤ5311

 

「長老、祭司長、律法学者たち」は、当時の議会(サンヘドリン)を構成していた3つの階級の人達です。イスラエルの全ての指導者が、そしてまた私たち全ての人が、イエス様を救い主として認めることができないことを暗示しています。また、全ての人が等しく、神の子を拒絶した責任を負わなければならないことを強調しています。

 

「三日の後に復活することになっている」・・・イザヤでは、僕の最終的な勝利は、死そのものへの勝利としてあらわされます。同じくその勝利は、イエス様が3日後に復活すると言われたことにも現れています。

3日後という言葉は旧約聖書にも具体的に書かれています。

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。

2二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。」ーホセア61-2

 このホセアの預言は、イエス様の3日後の復活を確信させるものだったでしょう。

 

32

「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」

 イエス様がこれほどはっきりと彼の使命に関して話したことはなかったので、弟子たちは驚きました。メシアの称号と、苦難とがどれほど調和しがたいものだったことでしょうか。

「ペテロがいさめた」という言葉には、イエス様の宣言がどれほど急進的なものだったのかを物語っています。また、それ故に弟子たちはそのことを受け入れる準備ができていなかったことを表しています。「拒否されるメシア」は、ユダヤ人の確信と希望にまったく合っていなかったのです。

 

33

「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。

『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」

「弟子たちを見ながら」・・・弟子たちも間違いなく、イエス様は間違っているというペテロの確信と同じものを持っていました。したがって、ペテロを叱って言った言葉は弟子達にも向けられています。

「サタン、引き下がれ」・・・イエス様がその苦難を拒否すべきだというペテロの提案は、聖なる救いの計画を阻止したいサタンから来ている誘惑でした。イエス様は荒野の40日間のサタンの誘惑との戦いと同じ戦いをここでもしていたのです。

 私達を愛しているから、困難をさけ、安全な道を行くようにと勧める友人が現れることは、私たちにもあり得ます。ペテロも同じことをしました。しかしイエス様はペテロに、ペテロの考えがどこから来ているかを明らかにし、本当の弟子としての場所に戻る様に命じます。

 

 正しい道ですが、同時に、困難で、人気もなく、犠牲が伴う道を選びとる、それがイエス様の十字架への道です。神様の御心があるところにイエス様は行きます。

 

 これがイエス様のリビングウィルです。はっきりとしたリビングウィルを持ち、その意志を貫き、僕として十字架の道を進んだイエス様の生涯は驚くべきものでした。その結果、イエス様の十字架での死が、「全人類の救い」になったのです。

 

 

 聖書にある四つの福音書は、「あなたの魂の生き死にと関係のあるリビング・ウィルが、すでに一通発行済みです」と告げている書物です。イエス様のリビング・ウィルは、皆さんがイエス様の提供する救いを受け入れ、新しい人生をスタートする時、皆さんの人生に実現します。

 

 そのイエス様のリビングウィルを受け取り、イエス様の救いを受け取った人として、ご自身のリビングウィルを生きることができますように。