「触れられて、変えられた」 マタイによる福音書20章29~34節

「触れられて、変えられた」

マタイによる福音書202934

 

 3月に入りました。春の訪れが間近に迫っています。その春の息吹を大きく感じる頃の331日に、キリスト教で最も大切にされているイースターを迎えます。イエス・キリストの復活をお祝いする時です。しかし、そのイースターを迎える前、今私たちは受難節のただ中にいます。受難節は、イエス・キリストが十字架で受けた苦難を覚え、一人ひとりがそのことに思いを馳せ悔い改める時です。今、この時、十字架の途上にあるイエス様のことを思い、その苦しみが私たちの為であったことを改めて胸に刻みたいと思います。また、イエス様をまだ救い主と告白していない方にも、そのイエス様の苦しみが皆さんの為であったということを知って頂きたいと願っています。イースターを迎える前のこの4週間は、イエス・キリストが十字架に向かう途上の出来事から神様に聞いていきましょう。

 

 この時期になると、コロナウィルスの脅威が世界を覆い、日本でも緊急事態宣言が出された4年前のことを思い出します。会堂で集まって礼拝を捧げることは控えようということになり、協力牧師の先生と当時代表執事であった私とで会堂の礼拝をささげ、インターネットで礼拝を中継するという形を取りました。その目的は感染を防ぐため、そのために接触を避けることでした。物理的に触れないようにすることが必要でした。

 しかし、12月にも少し紹介しましたが、その1年前にアメリカにいた時に読んだ「愛を表す5つの言葉」という本がありました。人には、最も愛を受け取れる表現方法がそれぞれにあるというのがその本のコンセプトです。その中の一つがフィジカルタッチ、触れるということだと書いてありました。大事なことを教わった本で、今でも時々読み返します。

 感染しないようにするため人に触れない、ということを当時は目指しましたし、それは必要なことであったでしょう。また医療の現場でも触れないことによる感染防止が必要な場面も多いでしょう。しかし、そのような特別な場面を除いて、触れるということは本来、適切な形でなされるなら、大事な愛情表現でもあります。もちろん不適切なやり方も沢山あり、そういう間違った方法で触れれば相手を傷つけ、そして自分も孤独になっていきます。そして問題は大きくなります。しかし適切な方法で、お互いがお互いを承認する中で触れるということ、例えば、握手をしたり、肩をポンと叩いたり、抱き合ったり、子どもを抱っこしたり、それは愛情を確かめ合うために必要なことです。

 

 実際に聖書の中で、触れるということはどのように述べられているのだろうかと思い巡らしている時に、今日の御言葉に出会いました。イエス様がエルサレムに入る直前の場面です。短い箇所ですが、イエス様が目の見えない人を見えるようにする物語が描かれています。ここからイエス様がどういうお方であるかを共に教えて頂きましょう。

 

29

「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。」

 エリコはヨシュア記で出てくる有名な都市ですが、このエリコはそのエリコではなく新しいエリコです。ガリラヤから、過越しの祭りのためにエルサレムに巡礼に行く人がたどり着く最後の町でした。大勢の群衆とは、同じく過越しの祭りに行く巡礼者で、ガリラヤ出身の人達も多くいたことでしょう。2111節でイエス様がガリラヤ出身であることを高らかに誇っていることからもガリラヤから多くの人たちが来ていたことが分かります。また、このエリコはザアカイという人に救いが起こった町でもあります。

 

30

「そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 」

 そこに二人の目の見えない人が座っていました。マルコによる福音書では、この目の見えない人の名前がバルティマイという人だったとあります。しかしマタイによる福音書ではその名前は語られません。また、二人は道ばたに座っていましたが、マルコによる福音書では物乞いをしていたとあります。そのこともここでは語られていません。とてもシンプルにこの出来事が語られています。それは、この癒しの出来事を通してイエス・キリストを知ってほしいという、マタイの思いが表れているのかもしれません。

 目の見えない人は、イエスという人が道を通ると聞きました。そして、こう叫ばずにはいられませんでした、「主よ、ダビデの子よ、私たちを哀れんで下さい!」と。

この人達は、どこで知ったのかは分かりませんが、イエスという方がどういうお方かを知っていました。そして、このイエスというお方なら、自分たちを癒すことができると期待しました。

 そして、主よ、と叫んだのです。「主」とは、自分に対して全ての所有権がある人のことです。イエス・キリストは自分のあるじだ、と叫んでいます。

 「ダビデの子」とは、聖書で約束された救い主のことを指しています。しかしこの時代、地上に自分たちの王国を造る王が期待されていました。二人も、まだイエスという方のことを、この地上の王としか考えていなかったかもしれません。信仰は完全ではありません。しかしそれでもなお、この方が哀れんで下されば、癒していただけるという信仰は持っていました。

 

31

「群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください」と叫んだ。」

 群衆は目の見えない人たちを黙らせようとします。群衆は歩きながらイエス様の教えを聞いていたのかもしれません。だとすれば叫ばれてはかないません。大事な教えを聞きたいという思いは理解できます。しかし、二人は叫ぶのをやめません。群衆は、そして私たちはこの二人の粘り強さを見せられます。そして同じ叫びを聞くことになります。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい!」。この方なら何とかしてくれるという思いがあり、実際にそのお力が、イエス・キリストにはあるからです。

 

32-33

「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。」

 イエス様は彼らのそばで立ちどまり、彼らを呼んでこう言われました、「わたしに何をしてほしいのか」。大勢の群衆に囲まれている中で、一見重要ではないように見える人の思いに応えられました。そして何を求めているのかを聞いて下さったのです。

 彼らは言いました、「主よ、目を開けていただきたいのです」。不可能を可能にしていただきたい、という願いです。イエス様への願いは、大きすぎるということはありません。御心にかなう願いは、私たちの思いをはるかに超えて、叶えて下さるお方です。

 また、神様の哀れみは、多くの人が思うよりもはるかに深いものです。イエス様は、エルサレムを目前にしていました。そこに行けば自分が十字架にかかることも分かっていました。また、一緒についてきた弟子や群衆達、ご自身の民に拒まれる時に直面していました。その自分を待っている運命にイエス様も思いをはせていたでしょう。しかし、イエス様は困っている人へのあわれみを示し続けます。運命に押しつぶされることなく、そこにいた目の見えない人の思いに気付き、その思いを聴かれ、その思いに応えられました。

 マタイによる福音書913で、罪人たちと食事をしているとパリサイ人たちから非難された時に、イエス様はこう答えられました。「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そのあわれみを、イエス様は自ら最後まで示しておられます。そのあわれみは神様の愛の深さです。どうでもいいと捨て置かれないのです。愛しておられるからこそ、最後まであわれまれるのです。

 パリサイ人は取税人や罪人がイエス様と交わるのをよく思いませんでした。弟子達はイエス様に子供を近づけようとしませんでした。そして群衆は目の見えない人の叫びを黙らせようとしました。しかし、主はすべての人に仕えるために、御心を行われ、ご自身の目的を果たされるお方です

 これが、神の国の価値観、天国で起こることなのです。

 

34

「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」

 イエス様は触れられました。ここでいう「触れる」とは、その触れたものを変える、変化をもたらす、そのような形で触れるということです。イエス様が触れられたら、変化が起こるのです。そして、すぐに回復するのです。私達は思うかもしれません。何年も祈っているのに、ずっと信じているのに、神様は何もしてくれない、と。しかしもし、私達がこの世の時間、11分という概念に縛られてその時を見るなら、見落としていることがあります。神様の時は私達の思う時間の概念には縛られないし、時間においても、天国の価値観は異なっています。私達の思いをはるかに超えています。神様は天地を造り今を支配し、これから先も導かれるお方です。天国も永遠に続き、永遠の価値がある場所です。そこを支配しておられる神様は、神様のタイミングで、神様の時をもってすぐに、一瞬で私達に変化をもたらします。

 この今の、触れることに制限のある状況の中、イエス様は皆さんに触れることができるお方です。そしてすぐに癒すことができるお方です。

 この二人の人は視力が回復し、イエス様を見ました。そしてイエス様に従いました。見えるということは、ただこの世の世界が見えるようになったという以上のことを表しているでしょう。すなわち、イエス様が見えるようになるということは、イエス様に従うということと切り離せない関係にあります。イエス様に癒された人は、救われた人は、イエス様に従う者へと、必ず変えられるのです。

 

 最後に、クリスチャンの皆さんにも、クリスチャンでない皆さんにも問います。

 イエス・キリストは、私たちの罪を赦すために来てくださいました。十字架にかかってまで私達の罪を赦す神様のあわれみの深さは、神様の愛の深さです。十字架にかかったイエス・キリストは3日後に復活し、私達と共にいて下さると約束してくださいました。皆さんはそのことを信じますか。

 イエス様があなたをあわれんで下さることを心から信じますか。あなたに触れて下さることを心から信じますか。あなたをただちに癒してくださることを心から信じますか。

 

信じるなら、心から変えられたいと願うなら、この目の見えなかった二人のように、「あわれんでください、触れてください、変えてください」という切なる求めが必要です。共に求めましょう。