「与えるところに祝福あり」 マラキ書3章8~12節

「与えるところに祝福あり」

マラキ書3812

 

   2月も終わりの週を迎えましたが、バプテスト連盟では2月をスチュワードシップ月間に定めています。

スチュワードシップ運動がアメリカから日本に紹介された時、最適な日本語が見つからなかったため、そのまま英語で定着しました。

 スチュワードシップとは、「管理者の働き」という意味があります。クリスチャンであれば、神様から頂いているものをきちんと管理しているか、神様から与えられている全てのものの中からお返しするべきものをお返ししているか、を自分自身に問いかけていくのがこのスチュワードシップ月間の目的です。当時は献金のことに重点が置かれていたようですが、実は与えられている全てのものの管理が問われています。時間、お金、人間関係は人生を形作るおもだったものです。その全てのことにおいて主を第1としているか。これがスチュワードシップが本当に意味するところです。その中で、献金のことも言われています。特に、10分の1献金が強調されます。収入の10%を神様にお返しする行為です。これは、信仰生活の中でとても大事なことです。10%を捧げているからといって主を第1としていると断言することはできません。しかし、10%を捧げていないのに、主を第一としている、主に全てを捧げているとは言えないからです。

 イエス様を救い主と信じた人は、イエス様に従う者です。少しだけ従うのではなく、自分を救い、救い続けて下さるお方に100%従うことを神様は求めておられます。そのことを具体的に表していくのが10分の1献金なのです。

 

 今回はマラキ書を通して、10分の1献金を主が求めておられること、また、そのことで私達を祝福したいと思って下さっているのだということをご一緒に見ていきましょう。

 マラキ書は、小預言書の一つに数えられています。マラキが誰であるかは分かりません。マラキは、「私の使者」と訳せる言葉でもあるため、特定の人ではないという人もいます。伝承ではマラキは特定の預言者、またはエズラの称号であると理解しています。

 マラキの預言は、バビロン捕囚から民が帰ってきた後、エズラーネヘミヤの時代の少し前に成されたと考えられます。B.C516にエルサレム神殿が再建されてから50年近く経っています。捧げものも十分に行われず、礼拝での情熱は失われ、型にはまった繰り返しになってしまっています。祭司も堕落していました。マラキは、「変わることのない神(3:6)」、「ご自身に帰るように招かれる神(3:7)」、「神の招きに応える者を決して忘れない神(3:16)」へ心から立ち帰る道を示しています。

 

    マラキはまた、神様と民との契約を強調しています。マラキ書は律法に表された契約の義務を果たすようにという招きで終わっています。契約関係があるからこそ、主はご自身を父と言い、イスラエルをその子と呼びます。主の願いは、ご自身の子たちを、すべての良いもので祝福することです。

 しかし、民は、神はどこにおられるのかと疑問を投げかけました。民として果たす義務も怠りました。彼らは神を愛さなかったので、隣人を愛することもありませんでした。神様との破壊された関係によって、人間社会の関係も壊れていきました。

 

 マラキの預言を通しての神様の願いは、民が生きている神様との個人的な関係を築くことです。事実、マラキ書の大半は神様ご自身が「わたし」と言い、民を「あななたち」と読んでいます。神様は、民が「主と共に歩む(2:6)」ことを求めておられるのです。

    そして主は、悔い改めの機会を用意し、「わたしに立ち帰れ」と招いておられます。

8節から12節も悔い改めの招きであると言うことができます。この悔い改めに主は応答して下さるのです。神様のご支配に自分を委ねる人は、主が与え捧げる者を祝福して下さるということを体験していきます。

 

812節を見ていきましょう。

 

8

「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながらどのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。」

 「偽る」とは、ユダヤ教の文学では「強制的に取る」ということを意味します。民は主から強制的に取っていると言われます。何をでしょうか。それは「十分の一の献げもの」と「献納物」です。

 「十分の一」は、創世記に既に記述があります。創世記28:22において、主がヤコブを祝福されると宣言された時に、ヤコブは主に与えられたものの十分の一を献げると誓いました。

 律法はこのように定めました。 

1 全ての収穫物の十分の一は「主の聖なるもの」(レビ2730)

2 レビ人のために用意されたもの(民数記1824)

3 レビ人もまた祭司アロンに十分の一を捧げる(民数記1828)

 

 また、申命記142829を見ると、3年ごとに共同体の祭りが行われ、10分の1はレビ人だけでなく、両親のいない子どもや、外国から来た人、夫に先立たれた方を養うために使われるとあります。捧げられた献金で行われる教会の働きはそのような観点から用いられる必要があると言えるでしょう。

 

  「 献納物」には、二つの役割がありました。いけにえとして捧げられたもののうち、祭司のために取り分けられたものが含まれるということが、出エジプト記29:27-28に書かれています。また、自ら進んで心からささげるものであることが出エジプト記25:27で述べられています。私達の教会で言えば感謝献金がそれに当たると言えるでしょう。

 

 ささげものがささげられない時、レビ人は彼らの奉仕をあきらめ、農業で生計を立てる以外に選択の余地はありませんでした。そのことがネヘミヤ記13:1013に書かれています。ネヘミヤの役目の一つは、神殿奉仕が支えられるために、ささげものが欠けることのないように管理することでした。

 

9

「あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。」

 呪いの言葉があります。全てのものは神様のものです。だから、自分のものを惜しんでささげないことは、神様から奪うのと同じであるということです。神様に惜しんで何もささげない個人、教会や国家を神は祝福することができないのです。惜しんでささげないことで、自ら祝福を遠ざけているとも言えます。

 

10

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう。」

 「10分の1の捧げ物をすべて蔵に運び、わたしの家に食物があるようにせよ」とありますが、民が捧げないと、主の宮に食物があるようになりません。教会も予算が少なければ働きを縮小せざるを得ないということになります。その時、神様の働きに参与するという祝福を自らで奪っていることになるのです。

    また、ささげない民は、私達のささげ物とは不釣り合いなほどの、「あふれる祝福」を注いで下さるという神様の約束を見逃していることになるのです。この神様からの要求を真剣に受け止めて、十分なささげものによって神様を崇めることから始めましょう。「わたしを試してみよ」と、恐れ多くも言って下さる主は、天の窓を開き、神様の贈り物をあふれるばかりに送り、恵みを雨のように降り注がせると約束して下さっています。このことを信じ、捧げることができる、そのことを喜びましょう。

 

11

「また、わたしはあなたたちのために 食い荒らすいなごを滅ぼして あなたたちの土地の作物が荒らされず畑のぶどうが不作とならぬようにすると 万軍の主は言われる。」

 主が作物を守られると約束されます。預言者は伝統的に、「土地の産物」という表現で神様の祝福を約束してきました。いなごは、産物に壊滅的な打撃を与えることから恐れられていました。ぶどうの木は、当時の最も重要で代表的な果樹でした。

 

12

「諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと 万軍の主は言われる。」

 民は幸せな者と呼ばれるとあります。預言者たちは物質的表現で祝福を語りました。しかし、神の約束という霊的なものが物資的祝福のみで説明できるということではありません。土地の実りに対応する霊的な実りがあります。すなわち、与える者の人格の成長には計り知れない価値があるということです。そのことがIIコリント910ではこのように書かれています。「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなた方に種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」

 

 

 一人一人に今も主は祝福を願って招いて下さっています。そして一人一人にとって真実なことは共同体にとっても真実です。一人一人が、また、教会が祝福を受けたいと願うなら、私達はまず与えることを惜しまない姿勢を持たなければなりません。教会はキリストの体として、イエス様が死なれ、復活された目的のために与えているでしょうか。地域に、世界に、協力伝道のための働きに。全てのものを取ろうとし、何も与えないつかみ取る姿勢、それが貧困を作り出します。それが呪いです。聖書は呪いに生きるか、祝福に生きるかのどちらかを私たちに迫っています。

 

 このことは他の人がどうか、ではありません。兄弟姉妹の励まし合いは大事だが、神様の言葉をもって誰かを裁くことは許されません。あの人はどうかではない、今、イエス様を信じている私はどうなのか。主の言葉を受け取ってください。

 私は今年初めて、しっかりと帳簿をつけ始めました。十分の一献金を元に年間の収入の中でどれだけの献金を捧げられるか、予算として立ててみました。年度の終わりに100%達成できた時には感謝と喜びが私の中に溢れているでしょう。

 

 10分の1献金・感謝献金は神様の要求であり、また、祝福の約束です。私達が常に悔い改めと喜びをもって応答するかどうかを主は見ておられます。何より、主イエス様が私たちの罪を赦すため、ご自分のすべてをささげて十字架に架かられたことを思い起こします。そして3日後に復活し、私たちに祝福を注いでくださっていることを思い起こします。スチュワードシップ、管理者の働きを覚えるこの時、「与えるところに祝福がある」という主の約束を、私たちが与える以上に祝福して下さる主を、悔い改めをもって信じて参りましょう。