「慰めの場所」 コリントの信徒への手紙Ⅱ1章3~7節

「慰めの場所」

コリントの信徒への手紙Ⅱ137

 

 レントに入りました。レントとは、受難節や四旬節とも呼ばれます。イエス・キリストが十字架に架かられた苦難を思い起こし、その十字架と死を心に刻む期間です。イースターの日を除いた46日間がレントの期間となります。四旬とは40日間のことですが、主日の日曜日は数えないため、イースター前の6週の主日を足すと46日となります。ちょうど先週の祈祷会があった2/14がレントの始まりです。

 以前勤めていた職場のアメリカの同僚はカトリックの熱心な信者でした。そこで灰の水曜日という言葉を聞きました。カトリック教会では受難節の始まりを灰の水曜日として守っています。ヨブは灰をかぶり悔い改めました。灰は悔い改めの象徴でもあります。その時、私もまた、受難節が始まったことを意識しました。プロテスタントでは受難節というのはあまり意識されないところもあります。しかし、私の思いとしては、イエス様が来て下さったこと、そして来られたのは自分の罪のためであることを思い、悔い改める時としたいと願っています。余談ですが、アメリカに最後に行ってからほぼ5年が経ちます。その時期、アメリカの教会にいくつか行きましたが、どこの教会にも(バプテスト教会でも長老派の教会でも)大きな木の十字架が建てられ、紫の布がその十字架に巻かれてありました。紫はイエス様がいばらの冠と共に着せられた服の色です。イエス様に起こった出来事を思い、悔い改めなければならないことを思い起こさせる色です。共にイエス・キリストの苦しみを覚えていきましょう。

 

 受難節を迎えているこの時、人々の苦難をも覚えます。直近で私たちが身近に体験したのは、1/1に起こった能登半島地震です。

 亡くなられた方は2/15時点で242人、安否不明な方は9人おられます。今も7千人以上の方が避難生活をしなければならない状況です。2011年の東日本大震災、2016年の九州で起こった熊本地震を思い出さずにはいられませんでした。東日本大震災の起こった年の9月、友人と共にバプテスト連盟のボランティアに参加させていただき、カフェで被災された方のお話を聞く時を持ちました。しかし、そのお話の前に私がかけられる言葉はありませんでした。何を言っても失礼に当たるのではないか、そのような思いに駆られました。自分の無力さに打ちひしがれた時でした。しかし、当時遠野のボランティアセンターで働きを担って下さった金子千嘉世先生との交わりや、カフェでお話をした方のその後のお話を聞かせていただく中で、自分にできることは本当にわずかで、点のようなものだけれど、その働きが集まった時には、点が線になり、そしてその線が輪になっていく、ということを教えていただきました。教えていただいたことを基にして熊本地震のボランティアにも参加させていただき、今でもその時教えられたことを大事にしています。

 私たちも能登半島地震の被災された方々を覚え献金をお捧げしました。沢山の献金がささげられたこと、その兄弟姉妹の思いを私は主に感謝しました。私たちの思いを、神様は一つの点として線に、そして輪にして繋げて下さることを私は確信しています。

 

 様々な出来事が起こっている中で、改めて受難節のこの時、イエス・キリストの苦しみ、私達の苦しみ、そして神様の慰めを思い起こさせられたのが今日の箇所です。

 

3

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」

 神様への賛美から始まっています。そして慰めに満ちている神であると賛美されています。私たちも礼拝を賛美から始めています。何かが動き出す時には、神様への賛美と信頼が常にあることを思わされます。先程も特別賛美の中で、「聖霊が注ぎ込まれて、何かが動き始める」と歌いました。先週の聖書箇所でも、群衆が神の御業を賛美していたので議員はペテロとヨハネを脅すこと以外はできなかった、ということを私たちは知りました。 

 

4

「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」

37節の間に慰めという言葉は9回も出てきます。それほどに中心的なテーマです。

 今日最も皆さんに覚えてほしいことの一つをお伝えします。

 慰めとは、相手の苦痛を和らげるように同情するというような、普通私達が考える意味よりはるかに深い意味があります。聖書を通して語られる慰めの意味は、「近くにいる人からの個人的な呼びかけ」です。また、ラテン語では勇気という意味があります。勇気をもたらす慰め。従って、神の慰めとは、近しい神様、イエス様の呼びかけであり、その人を立ち上がらせる力なのです。神の慰めとは問題がどこかへいくことではありません。励ましと力を与えられて、問題に立ち向かうことです。神の慰めとは、人生のあらゆる苦難に立ち向かうことを可能にさせる慰めなのです。

 

 神様の聖なる目的が、苦しみの中の慰めにはあります。それは他者を慰めることができるようになるということです。神様から受けた慰めは、他者への共感の心を呼び起こします。そして、神様から受けた慰めを伝える者へと変えられるのです。決して慰めを受けた者だけで終わることがないのが、神様の慰めなのです。

 IIコリント767には、具体的にパウロが慰められたことが書かれています。テトスは、「コリントの人々がパウロによって慰められている」ということをパウロに伝えました。そのことでパウロは慰められました。コリントの人々もまた、慰めを受けて、慰める者へとされています。その慰めは一周して元に戻ってきています。一方通行で行って終わりではないのです。

 

5

「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」

 なぜ苦難の中にある人々を慰めることができるのかが述べられます。私達の受ける慰めは、イエス様によって溢れるほどに満ちているからです。満ちているというのは、私達が期待するよりもはるかに超えているということです。

 パウロにとっては、常にキリストが全ての中心です。イエス様は苦しみと切り離せない存在であり、また、慰めと切り離せない存在なのです。

 キリストを信じていて尚苦しみがあるなら、その苦しみはキリストの苦難が満ち溢れて私たちに及んでいるものだ、とパウロは言います。キリストの苦難にあずかり、そこから溢れるキリストの慰めを受けるのです。それが神様の約束です。

 

 

6

「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」

 パウロが特にアジアで受けた苦しみの中で与えられた慰めは、コリントの人達のためでした。8節でアジアで受けた苦難を知ってほしいとパウロは言いますが、その詳細についてはパウロは述べていません。どのような苦難を受けたのか、確かなことは分かりません。本当に辛い時、言葉にできないことがあります。パウロの受けた苦しみはそのようなものだったのかもしれません。

 しかし、パウロはその苦難の中で、神様に頼ることを学びました。そして救って下さる神様への信頼は益々強まりました。神様は今助け救って下さり、これから先も助け救い出してくださると、パウロは確信しています。そのパウロの確信は、コリントの人々の慰めとなっています。

 その慰めによって同じ苦難に耐えることができるとパウロは言います。耐えるというのは、仕方ないという気持ちで受け入れるということではありません。受け入れたうえで、打ち勝つ力のことを表しています。神様が与えた慰めは、問題に立ち向かう力であり、苦難を受け入れたうえでなお打ち勝つ力となるのです。

 

7

 「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」

 苦難に与ることが希望につながるとしたら、厳しく思えても、どん底に思えても、こう言わなければなりません。その経験は積極的な価値を持つものだ、と。苦しみや悲しみを経験することで、人生の嵐の中で戦っている人を助ける者へと、主が変えてくださるからです。

 先程、特別賛美を捧げました。このように歌いました。「長い雨がやんでかがやく陽の光」、「暗い夜が明けてひろがる陽の光」、「辛い時が過ぎてさしこむ陽の光」。自分の中に雨が降っている時、いつ止むか、あるいは止むのかすら分かりません。しかし、その雨はやみ陽の光がかがやく時が来るのだと言える人がいます。それは、同じ苦しみを経験し乗り越えた人です。

・私達は、何かについて知るためにあらゆる本を読むことはできます。

しかし、迫害される、差別を受けるということがどういうことなのかは、経験してみるまでは本当には分かりません。

 福島の子供たちは引っ越さざるをえなかった時に、福島出身ということでいじめを受けました。 世界では、アジア人というだけで、ウィルスがうつると言われて差別が起こりました。また、今ではコロナに感染することは誰にでも起こりうることだと認知されていますが、初期にはコロナに感染したことで自己管理ができていない、等の攻撃対象になることが少なくありませんでした。

・私達は何かについて知るためにあらゆる本を読むことはできます。

しかし、突然仕事を失うということがどういうことなのかは、経験してみるまでは本当には分かりません。

 少なくない数の人達が、そのことで人生を否定されたように思い、命を絶つということが起こっています。

・私達は何かについて知るためにあらゆる本を読むことはできます。

 しかし、ある病にかかることがどういうことであるかは、経験してみるまでは本当には分かりません。どのような気持ちになるか、どれほど苦しいことか、どれほど孤独になるか。分からないのです。

・私達は何かについて知るためにあらゆる本を読むことはできます。

 しかし、愛する人を失うのがどういうことであるかは、経験してみるまでは本当には分かりません。友人を、恋人を、奥さんを、旦那さんを、子どもを、親を失った時、どういう気持ちになるか。分からないのです。離婚した親を持つ子どもの本当の気持ちも、同じ経験をした人にしか分かりません。

 

 しかし、パウロは自分の身に起こったあらゆる苦難と神様から受けた慰めによって、他者を慰める者へと変えられました。そしてそれは、私たちにも起こるのです。

 ある母親は最愛の息子を失いました。もう一人の息子は母のことをこのように語っています。

「その時以来、わたしの母の眼は柔和そのものとなり、子どもを失った世の母親たちがわたしの母のもとへ飛んでくるようになりました。」

 

また、私たちはこの試練に一人で出会い、ひとりで忍耐するのではありません。私たちには神様の慰めがあるのです

 

 なにより、主イエス・キリストご自身が、試練を受けて苦しまれました。

「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」―へブル人への手紙2:18

そのイエス様はきっとこう言われています。

「そんなあなたの苦しみのために来た。そんなあなたを慰めに来たんだ。そして、そんなあなたを用いるためにきたんだよ。」

 

 

その声をどうか聞いてほしいと願っています。