「お手上げ」 ローマの信徒への手紙7章15~25節

「お手上げ」 ローマの信徒への手紙7章15~25節    2月に入りました。ちょうど今日2月4日は、暦の上では立春になります。春の始まりとされる日です。まだまだ寒い日が続いていきますが、それでも春に向かって、明るい光が指す方に向かっている感覚があるのではないでしょうか。  そのような2月の初めの礼拝、宣教題を見て怪訝に思われた方もおられるかもしれません。「お手上げ」。とてもネガティブな題のように思えます。しかし、今日取り次がせていただく御言葉に深く関係している言葉ですので、どのような意味か思いめぐらしながら共に御言葉に聴きたいと思います。    突然ですが、皆さんを起死回生の大逆転に導いた一言や環境を思い出せますでしょうか。あればぜひ書きとどめていただければと思います。それは、人との出会いの中でのことばかもしれませんし、出会った本の中の言葉かもしれません。  私は、25歳の時、クリスチャンの友人に、65歳くらいで仕事を退職したら讃美歌をギターで弾いて教会でコンサートをしたい。と話しました。その友人は、「それ、退職してからとかもったいないばい。今そういう思いが与えられているんなら、今やった方がいいんやない?」と言われたことがギターで本格的に讃美を通して仕えることになったきっかけでした。  また、タバコを22~23歳の時に吸っていましたが、2年間で止めることができました。きっかけは、当時好きになった方がとても清楚な方で、その方と接しているとタバコを吸っている自分が馬鹿らしくなって自然と止めていた、ということがありました。  皆さんもぜひ思いめぐらしてみてください。    たばこの話をしましたが、喫煙が健康に悪いのは、もう医学的にも沢山証明されています。がんの発生率を高めることも統計学的に明確に証明されています。  しかし、愛煙家の多くは、やめなさいと言われると余計頑なになってしまいます。私も父と母と家族会議で大変なことになった思い出があります。なぜ止めるのが難しいのか、理由は二つあります。  1.仕事に集中できるので、職場のストレスが大きいので、場の空気が持てないので・・・などの心理的防禦基点(自分に都合のよい言い訳)(防衛機制・・・不快な感情体験を弱めたり避けたりして、心理的な安定を保つために「無意識的」に用いられる手段)が働いてしまうからです。別名開き直りとも言います。  2愛煙家の多くがニコチン中毒(依存)に陥っています。ある調査では、喫煙者の6割が依存に陥っているといいます。頑ななのではなく、依存状態なのです。 ※新皮質と後脳の間にある「辺縁系」。ここが多幸感や高揚感や耽溺の首座であることが明らかにされてきている。この辺縁系の中に報酬系回路がある。だから、一度構築されたものを断つとき、禁断症状(報酬への強い渇望)が伴う。これが薬物依存(嗜癖)のカラクリであると言われています。    皆さんは、植木等さんの「スーダラ節」を知っているでしょうか。1961年にレコードが発売されているので、青春時代の歌だという方もいるかもしれません。1番はアルコール依存症、2番はギャンブル依存症、3番は性依存症の歌と言ったら怒られるかもしれませんが、見事にそれらを描写しています。言っていることが正しいのは分かる、でもやめられない!ここにもお手上げ状態があります。    たばこをやめた人のきっかけを聞くと、拍子抜けするような理由であることも多いです。「子ども(あるいは孫)が生まれたので」「職場に喫煙所が無くなったので」等。私の理由も拍子抜けだったかもしれません。  やめてやるという自分の決意にしがみつくのではなく、思いがけない第三者の存在や環境の変化にちょっと身をまかせてみたらやめていたということも起こるのです。  1月は決断する時、自分の悪習慣やこだわりをそぎ落としさよならをいう時と伝えました。そのような決断は必要です。求めなければ与えられないからです。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる」(マタイ7:7)とイエス様も言っておられます。  しかし、その決断をしたとしてもその決断だけでは不十分です。決断をした時、今度はその決断をサポートしてくれる第三者や環境が必要となってきます。    今日の聖書箇所の中で、パウロは、植木等の歌より2000年も前に、人間の本性についてズバリ語っています。  パウロは望んでいる善を行えず、望んでいない悪を行っている、と繰りかえし述べます。ローマの信徒への手紙も含め、パウロが手紙を書いた時は口述筆記、つまり、パウロが思いを述べているところを秘書に書いてもらっていたそうですから、何度も書き直して理路整然とした手紙、というものではありません。理路整然としていないが故の分かりにくさもあります。しかし、何度も同じ言葉を繰り返しながらパウロも自分の思いを噛みしめて、そしてローマのクリスチャンに伝えようとしている様子が浮かぶようでもあります。   ・望んでいる善を行えず、望んでいない(憎んですらいる)悪を行っている  実際に、15~19節の中でパウロは3度も言葉を変えて、「望んでいる善を行いたいのに行えず、望んでいない悪を行っている」と言います(15,18,19)。この7章のパウロの葛藤は、当時パウロが持っていた葛藤だという説と、パウロがイエス様に出会う前、クリスチャンになる前の葛藤だという節があり、クリスチャンになる前の葛藤をパウロは述べているという節の方が有力です。しかし、このパウロのある意味では生き生きとした心の描写が、今を生きる私たちにも同じことがあるんじゃないのか、と語りかけているような思いがします。実際に、今、イエス・キリストを救い主と告白しているクリスチャンの方であっても、まだの方であっても、同じ葛藤を抱えている方は多くいるかもしれません。   ・悪を行わせるのは、自分の中に住んでいる罪  15~23節まででは、なぜ望んでいない悪を行ってしまうのかの理由もパウロは述べています。それは、望まない悪を行わせるのは、自分の中に住んでいる罪、だというのです。 16節では、パウロは律法、モーセが残した律法を善いものとして認めていると言っています。神様がモーセに授けたものです。そこに悪と書いていることは悪であると、パウロははっきりと意識しています。  17節では、そのはっきりと意識している悪を行ってしまうのは、自分ではなく自分の中にいる罪なのだと言います。そして、20節でも、再びパウロは同じことを繰り返しています。望まないことをさせるのは、自分ではなく自分の中にいる罪なのだ、と。  パウロは、悪いことを行っていることの責任は自分にはない、と言っているのではありません。彼が望むことをできないというその状況に関係する何かが、パウロの意志を超えてあるということです。彼が善をなすのを妨げる何か別の要因があるということ。それが自分の中に働いている罪だと教えているのです。罪は人の外側で働く力ではありません。罪は人々の中に住んでいる何かであり、奴隷を支配する主人のようにふるまいます。人類の祖先であるアダムの罪にかかわっているため、罪は全ての人の中に潜んでいます。そしてイエス・キリストによらなければ、究極的には罪の力に対抗できないのです。   ・罪の法則  そしてパウロはある法則に気付きます。21~23節の、善があるところに悪が付きまという法則です。  パウロは肯定的な面から始めます。22節には、「内なる人」としては神の律法を喜んでいる、とあります。「内なる人」は先週も出てきました。2コリント4:16の言葉です。神様のけた外れの力、イエス様の命、主が復活させてくださる希望が働いている「内なる人」です。そのことを喜んでいる自分が確かにいることは間違いありません。見失わないことが大事です。  しかし、23節で今度は否定的な面をパウロは説明します。罪の法則が、神の律法を喜ぶ心の法則と闘い、罪の法則の虜・罪の法則の檻に入れて閉じ込めるというのです。  五体というのは、私たちを形作っている体のあらゆる部分です。東洋医学では筋・脈・肉・骨・皮を現します。ギリシャ語ではメンバーという言葉が使われています。どちらも自分に属するあらゆる具体的な部分を現しています。   ・自分の力で罪の法則に打ち勝つことは不可能  「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(24節)   パウロも善をなしたいと思うのに悪に勝てないみじめさを経験しました。まさにお手上げ状態以外の何物でもありません。もうどうしようもありません、という状態です。しかし、パウロですらそのことを経験していた、そこに私たちへの慰めと励ましが与えられているように思います。パウロは、そんな人間の状態、善を行いたいのに悪を行ってしまう、という連鎖状態から誰が私をすくってくれるのか、と自暴自棄になっているように思えるかもしれません。しかし、そうではありません。次の節に救いがあります。  「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(25節)  神様への感謝が主イエス様を通してなされます。パウロはイエス様に本当に出会ったのです。パウロは悪に勝てないみじめさを経験しました。でも、イエス様に出会ったことを神様に感謝しています。8章以降に続くところからも分かることは、パウロは罪の法則から解放された者として生きているということです。そして、その解放してくださった方こそが、イエス・キリストなのです。    自分の中に行いたい善はあるでしょうか、行いたくない悪はあるでしょうか。ぜひそのことを思いめぐらしてみてください。そして行いたくないことをし続けていることはあるでしょうか。パウロにもありました。神様は、「私たちの決意というものは、思いのほかもろい」ことをパウロを通して教えてくれています。私たちの決心の多くは、状況次第で安易な方向になびきます。「死に定められたこの体」(24節)を持つ私たちなのです。意志は挫折します。弟子のペテロも、「「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。」ーマタイ26:35とあります。    だから、パウロのように、素直にイエス・キリストに降参しましょう。それはこのように認めることです。「私は簡単に罪に飲み込まれる。私に罪を打ち破る力はない。罪の力は私の手に負えない」。私は罪にお手上げなのだと認めることです。その後に、自分ではない第三者であるイエス・キリストに身をまかせることです。パウロは、驚きと共に、「分かっちゃいるけどやめられない」状態から脱出している自分を発見しました。そして、その素晴らしい体験と命拾いの心境を感謝と共に手紙に書き記したのです。  自分の罪に手を上げ、そして、私たちの罪を赦すために十字架に架かられたイエス・キリストに手を上げる。その時、命拾いの第一歩が始まります。