「人生設計の中心」 コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16~18節 就任按手式を終えて

「人生設計の中心」

コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16~18節

就任按手式を終えて

 就任按手式を終えてから1週間が経ちました。喜びと祝福を頂いた時となっ

たことを主に感謝します。また、心を砕いてこのことを祈り準備して下さった

お一人お一人に感謝いたします。多くの方が一つ一つの事柄が丁寧に準備され

てきたことが分かる、温かい式だったと言っておられました。 

 按手祈祷の時に置かれた手の重さを私は忘れることはないでしょう。それは

、手を直接置いて下さった方だけではなく、その場にいて下さった方とズーム

で参加して下さったの霊的な手も置かれた時だったと強く感じています。そし

てそこに主が御手を置いて下さったと感じました。

 改めて、ここに立たされていることの責任と重さを感じています。同時に、

その働きがどれだけ喜びに満ちているものであるのかもより実感しています。

湘南台バプテスト教会の牧師として、皆様の牧師として、そしてこの地域の牧

師として、ますます仕えていきたいと願っています。どうぞこれからもよろし

くお願いいたします。

 1月も最後の週を迎えました。1月は整理する時、悪い生活習慣とこだわりを

捨て去り、そぎ落とし、さよならを言う月です。そのようにして神様が造って

下さった本来の私たちへと変化していけます。1月モードを保てる最後の1週間

です。ぜひ1年の土台をここでしっかりと築いて、前に進んでいきましょう。

 さて、皆さんは人生設計について考えたことがあるでしょうか。何歳になっ

たらこの学校・大学に入って何歳で結婚して子育てをして、何歳で退職してそ

れから何をして、というものです。私たちは、社会人になり家庭を築けばそれ

なりの人生設計を立てる存在でもあります。人生設計があるから、家庭生活や

社会生活が、ある一定の秩序のもとで営まれるということができるでしょう。

 しかし、そのように人生設計をしていたとしても、若くして病で亡くなられ

る方も多くいます。「何でわたしがこんな目に」という叫びが聞こえます。そ

の理由は本当には分かりません。若くして召されるということは、残していく

家族の未来を共有できないその人のたましいの痛みが強くにじみでるため、私

たちの胸が締め付けられます。

 また、病だけではなく、災害で人生設計が大きく狂ってしまうということも

あります。2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、そして今年1月1日に

起こった能登半島地震で被災された方のつらさははかり知れません。能登半島

 

では震度1以上の地震がすでに1500回近く起こっているそうです。今もその揺

れに不安を覚えながらこれからどうしていけばよいのか、悩んでおられる方も

本当に多いと思います。

 しかしだからこそ、今日の御言葉に聴きたいと思います。「永遠に存続する

もの」を人生設計の中心に置くということを、今日の御言葉から共に聴いてま

いりましょう。

16節~18節は、4章全体のしめくくりであり、全体を要約した言葉です。その

まま私たちが覚えたい言葉です。

16節

 「だから、わたしたちは落胆しません」

 「だから」という、落胆しない理由があります。落胆しないほどの希望がき

っとあるに違いありません。しかし、それは次に続く言葉からも明らかになっ

ていきます。

 「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「

内なる人」は日々新たにされていきます。」

 「外なる人」はこの見える体であり、7節で語られている「土の器」、11節

で語られている「死ぬはずのこの身」です。たとえイエス・キリストを信じて

いるクリスチャンであっても、現代の他の人と同様に、この外なる人は衰えて

いきます。

 しかし、イエス・キリストを信じている人は、来たるべき世界に希望を置き

、絶え間なく新しくされます。「内なる人」つまり私たちの外から見えない部

分には、7節の「並外れて偉大な神の力」、10-11節の「イエスの命」14節の「

主イエスと共に私たちを復活させる」神様への希望が働いているのです。それ

らの力・命・希望によってわたしたちは時が経っても古くはならない、本質的

な新しさを身にまとっていきます。

 そして、本質的に新しい者として、主イエス様の似姿に変えられていくので

す。Ⅱコリント3:18「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の

栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていき

ます。これは主の霊の働きによることです。」

 また、私たちが日々新たにされていくのは、聖霊を受けている証拠にもなり

ます。わたしたちは聖霊の消えない印鑑を押していただき、変えられていく保

証を神様から与えられているのです。生涯保証されている約束です。これほど

確かな保証はありません。

 

 

17節

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の

栄光をもたらしてくれます。」

 あなたの艱難は軽い、とは、とても他の人に対して言うことができるもので

はありません。それはとても難しいことです。また、その艱難は一時的だと言

われても、その一時的だという期間が50年以上続く人もいます。その方々にと

って、パウロの言う、一時の軽い艱難という言葉はどのように響くでしょうか

 しかしここでは、パウロはこの世とやがて来る世界を対比して、終末の未来

を軸に語っています。やがて来る世界は前節で語られた内なる人の新しさが完

全になる世界です。そのようにして下さる神様の栄光を仰ぎ見る時が用意され

ています。また、6節には「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」とあり

ます。この地上でも、イエス様を知り、イエス様のようになっていくプロセス

が用意されています。そのこともまた、永遠の栄光です。

 パウロは苦しみの痛みを最小化しようとしているのではありません。苦しみ

は現実であり、確かにあるとパウロも自分の経験と共に語っています。しかし

それは、一時的だ、とパウロは確信をもって私たちに伝えます。神様の永遠の

時に比べれば、一時的だ、と。なぜなら、苦しみ・艱難はこの世に属している

からです。

 痛みと不正がはびこるこの世にあっても、神様の希望と計画・目的は覆せま

せん。この「永遠のビジョン」を持たない人は、神様の臨在と希望・目的を覆

せると考えます。それは、私たちにも言えるかもしれません。すなわち、永遠

と栄光のビジョンを持たなければ、今の自分の苦しみが「一時的で軽い」とは

絶対に思えないのです。「永遠のビジョン」を持つことがいかに大切なことか

を思い知らされます。

18節

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるも

のは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 16節から、「わたしたち」とパウロが言っていることに気付いたでしょうか

。パウロが伝えているこれらの約束は、パウロや一部の人達に限定されている

のではなく、全ての主を信じる人々に約束されているのです。そのわたしたち

は、どこに焦点を合わせるのでしょうか。それは、「見えるもの」ではなく

、「見えないもの」にです。「わたしたち」は、「見えるもの」、すなわち、

 

苦しみと失望を含む現在の時に焦点を当てません。それは過ぎ去っていきます

。 「わたしたち」は、「見えないもの」、すなわち、必ず実現される神様の

栄光の希望に焦点を当てるのです。その栄光は永遠に続くものだからです。

 

パウロがこの手紙をコリントの人に書いたのは2000年前です。しかし、時代が

変わっても、人は歳を取り死に近づくことへの悲しい現実に直面し、目的を失

い、孤独感を味わっています。パウロの時代のギリシャの世界でも、死の現実

に対する肯定的な反応は全くありませんでした。

 しかし、復活の希望、イエス様の復活と内なる人が変えられていくという知

識を土台として、私たちは使徒と共に、今も、こう言うことができます、「わ

たしたちは希望を持っている。私たちは落胆しない」と。

 

人生設計をどのように捉えるか

 人生には二つの見方があります。

(1)人生を、神から遠ざかる後戻りのきかない旅。

 それは平坦か下り坂の旅です。死に墓に葬られて終わる旅となります。見え

るものしか考えないとしたら、わたしたちは人生をこのようにしか見ることが

できません。

(2)人生は神様へと近づく山登り

 見えないけれど、確かにある永遠の栄光を仰ぎ見ていく旅です。

 モーセについてもこのように書かれています。「信仰によって、モーセは王

の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているよう

にして、耐え忍んでいたからです。」ーへブライ11:27

 モーセには燃える柴のしるしは見えましたが、それ以外は、神様の直接の御

声を聞き、王に立ち向かっていきました。見えないものに目を注ぐときに、本

当に対処すべき問題が見えてきます。そして対処する知恵も与えられます。し

かし、その問題だけを見ていても解決はできないのです。永遠に存続する神様

の栄光の約束を仰ぎ見る時、自分が砕かれ、艱難があっても対処する力が与え

られるのです。

 その旅は平坦でもなく、しかし下り坂でもなく、登っていく旅です。ある人

はきつくて大変な仕事をしている人を見て、「よくそんなに頑張れますね」と

言いました。その仕事をしている人は答えました、「ちゃんとした見通しを持

っていれば、仕事がいやになることはないです」、と。光を見てそこに向かっ

てまっすぐ進んでいる人は、見えないものを見ているようにして、耐え忍び、

先に進むことができます。イエス様ご自身が十字架に向かう人生をどのように

 

耐えることができたのでしょうか。それは、永遠の栄光、父なる神様が死の力

から復活させる力を持っていることを見通していたからです。

 

 皆さんの人生設計を、神様に近づいていく山登りと捉えていただくことをお

薦めします。その山登りは、すぐに頂上に行くことはできません。実際にすぐ

に頂上に行ったら体が慣れておらず対応できないかもしれません。わたしも、

コロラドのPikes Peakというとても高い山にケーブルカーで登ったことがあり

ます。しかし頂上に着いたとたん気分が悪くなり、景色をしっかりと見ること

ができずにケーブルカーの中で寝込んでしまったことがあります。 しかし、

一歩一歩着実に登っていく旅は、日々皆さんの魂の筋肉を強めるでしょう。そ

の途上途上で、「イエス様ならどうするか。見えない永遠の栄光を見ていたイ

エス様なら」、と問いかけ続けてください。皆さんの魂の筋肉はさらに強くな

るでしょう。共に頂上で神様の永遠の栄光という壮大な景色を見ることができ

るよう祈りつつ。