2024年1月21日(日)「レビ記1章が示す礼拝の原点」 北九州キリスト教会 斎藤信一郎 レビ記1章1-17節 (旧約163p)【新共同訳】

2024年1月21日(日)「レビ記1章が示す礼拝の原点」 北九州キリスト教会 斎藤信一郎

レビ記1章1-17(旧約163p)【新共同訳】

◆焼き尽くす献げ物に秘められた神の福音

1主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった2イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。」

これは約4200年前に神が礼拝の作法について語られた箇所。礼拝とは何を目的に、どう捧げるのか、7章まで非常に詳しい説明が続く。7章最後の37-38節には次のようにある。「37以上は焼き尽くす献げ物(第1章)、穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物、任職の献げ物、和解の献げ物についての指示であって38主がシナイ山においてモーセに命じられたものである。主はこの日、シナイの荒れ野において、イスラエルの人々に以上の献げ物を主にささげよと命じられたのである。」

 その中でも冒頭の1章が特に重要であり、礼拝の真髄が語られている。レビ記という題名から、祭司職を命じられたレビ族のための礼拝規定のように思われがちだが、そうではない。冒頭からイスラエルの民に焦点が置かれている。そのため、世界中の民が傾聴すべき神の言葉として受け止めたい。

 古代の礼拝は家畜を神に捧げる儀式が中心であった。それもそのはず、創世記3章で神が罪の贖いを象徴する毛皮の服をアダムとエバに与える話からすべてが始まっている。神自ら手を血に染め、敢えて命ある動物を犠牲にして作った毛皮の服。この神の予想外の行動により、罪にまみれ、絶望に打ちのめされていた二人に生きる希望がよみがえったという聖書最古の福音。その神の愛に応えるように、アダムとエバの息子アベルが羊を飼う仕事につき、あえて自ら育てた大切な羊を犠牲にして神に捧げる話が続く。しかも、その直後、妬みと殺意にかられた兄を前にして、自らの命を神に委ね、アベルの流した血潮が祈りとなって神に届けられるという話が続く。時代が進み、信仰の父と称されるアブラハムの話では、自分の命にも勝る息子イサクの命を神に捧げることを求められた時の信仰による決断と行動の速さは目を引く。その一途な信仰を受け止め、神が用意された身代わりの羊によって、イサクの命は贖われることになる。どの話も同じ主題が流れている。

罪の支払う報酬は死です。」(ローマの信徒への手紙623節と関連聖句・創世記217節)

この不変の定めに人類はどう立ち向かうことができるのか、これに対する神の固い意志と決断が示されているのがレビ記1章なのである。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書316

 神は愛と義に溢れたお方。罪の代償としての決定的な死を我々にすぐさまお求めにならなかった。その代わりに自らの手を血に染め、涙と共に自らの命に等しいひとり子の命を犠牲にされた。それによって人類に命の尊さを伝えようとされた。この神の決断と忍耐、そして到底真似ができない神の愛と犠牲の行為にどう応答すべきなのか。それが礼拝の本質であり、原点である。

◆焼き尽くす献げ物とは命と人生をお献げすること

 焼き尽くす献げ物とは、自分の命と人生すべてを神にお献げする信仰を込めた唯一無二の献げ物のこと。だから他の献げ物のように、一部は自分と礼拝に来た仲間たちで分け合うことも、祭司たちに与えることも許されない。すべてを丸ごと神に捧げることが目的の献げ物。3節からの具体的作法とは、無傷で最上の動物を本人が品定めする準備段階から始まることが示されている。牛を捧げるのが望ましいのだが、その場合、非の打ちどころのない牛が高額になるのは言うまでもない。しかし、それ以外に自分にできる最善の礼拝手段はないことを自覚した者だけが行うことができるのである。そして牛を礼拝場の入り口まで本人が引いていく。アブラハムが息子イサクを神が指定された礼拝場まで連れていったことを思い出しながら、指定の場所にいくことになる。到着したら、神が与えて下さった身代わりの命に感謝しながら自分の手を頭に乗せ、身代わりとなる命への感謝を込めて祈りを捧げる。この作法と自覚がないままに礼拝を神に捧げることは許されない。こうして準備段階から礼拝は始まり、神に受け入れられる礼拝になっていく。

 礼拝の中心となる解体作業も本人が時間をかけて行うことになる。自分の手や服も汚れることも避けて通れない。自分の命の代償の重さを肌身で感じながら作業する時間となる。祭司はそれをサポートし、切り分けられていく犠牲の各部位を祭壇に持って行って捧げる。これが古代の礼拝であった。そしてこれが我々に投げかけているレビ記1章における勘所である。

しかしながら、どの生き物も神の目には尊い。そのため、イエス・キリストが人類にとって必要不可欠な最後にして完全な犠牲の献げ物となって下さった。神が愛しておられる命が犠牲になるのは私で最後であって欲しい。イエス・キリストは十字架で、血を流しながら、命尽きるまで執り成し祈られた。現代の礼拝では同じ作業は求められていないとは言え、そこに込められている神の思いにどう応答し、礼拝を献げていくのか、我々の礼拝に込める信仰が問われている。

◆隅々まで行きわたる神の愛

 レビ記1章の第二の勘所も同じく重要である。昔も今も高額な牛を購入して神に捧げることはそう簡単なことではない。そのため、牛の代わりに羊を焼き尽くす献げ物にすることを神は良しとされた。ここにも神の十全な備えが存在する。しかも、羊さえも手に入らない者達のことも神は忘れておられない。いざとなれば、お金がなくても鳩はどうにか手に入れることができた。この献げ物にまで神が言及する理由はただ一つ。すべての人が例外なく、つまりあなたも、愛と赦しに満ちた神の国とその礼拝に招かれているとの福音そのものなのである。

 今やイエス・キリストが成し遂げて下さった完全なる罪のあがないの業と、それによって勝ち取って下さった聖霊のバプテスマにより、私たちは神の御前で礼拝できる特権にあずかっている。しかし、この背後に存在する神の先立つ愛と義を忘れてはならない。たとえ現代では焼き尽くす献げ物は求められていないとしても、我々は礼拝の原点にある信仰を受け継いでいかなければならない。

 礼拝は神がその愛と義を宣言される場所。十字架の形のように両手を広げ、「これ以上罪の道に歩むな、私が与える永遠の命と祝福の中を今後は歩め」との悔い改めの招きと神への再献身の場である。それゆえに我々は全身全霊を込めて神の御前に近づき、礼拝を捧げる。この特権、何物にも代えがたき神の恵みを声高らかに賛美し、福音をすべての人と分かち合い、届けていく。新年に当たり、この礼拝の原点に立ち返り、応答していく信仰が神に豊かに用いられるように祈る。