罪の「病識」 マタイによる福音書7章1~5節

罪の「病識」

マタイによる福音書7章1~5

 

 1月も半ばを迎えました。みなさんはまだ1月モードを保っておられるでしょうか。ぜひ保っていてほしいと思います。1月は心機一転、新しいことを始められる月です。御言葉に聴き、捨てるべきものを捨て、本来の神様が造って下さった自分になっていくことをぜひ目指していただきたいと願っています。そのために牧師としてお手伝いできることは何でもさせて頂きたいです。

 突然ですが、皆さんは「病識」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「自分は病気ではないだろうか」「通常の状態から逸脱していないだろうか」と自覚することを指す医療用語です。中々その病気の認識を持てないことがあります。病識がない、という状態です。痛み・かゆみ・しびれなどの不快感があれば、だれでもおかしいと気付くでしょう。しかし、黄疸や貧血等は、他の人から顔色を指摘され、あらためて鏡を見て納得する人も多いでしょう。

 私の父は先月亡くなりました。父は2011年に脾臓がんの手術をしました。8時間にも及ぶ大きな手術でした。その時がんの発見が遅れていたらガンの手術をしても、そこから12年もいのちを長らえることはできなかったかもしれません。その時のことはよく覚えています。父は元々病院嫌いで、中々病院に行きたがりませんでした。しかし、ある朝起きた時、母が父に黄疸が出ていることに気付き、すぐに病院に連れて行ったことでがんを発見することができたのです。それでも最初、父は病院に行くほどのことではないと考えて病院にいくのを渋っていました。父ひとりだったら自覚症状は少しだるいくらいだったので、病院には行かなかったでしょう。大きな手術でしたが、その手術のおかげで、つい最近まで家で過ごしながら通常の生活を送ることができました。

 また、統合失調症や何かの依存症など、メンタルヘルスの分野では病識を持てないために症状が改善しなかったり、症状が悪化していくことがあります。病識がない状態です。しかし、自分の考え方はおかしい、と、認知のゆがみを正し、そのおかしな考え方をしている自分は通常の状態から逸脱している、と病識を持つことが、改善へ向かう大きな一歩となります。

 

 実際にそのような病の中で苦しんでおられる方もおられるかもしれません。あるいはそのような病ではなくても、何か悪い習慣や考えから抜け出せずに苦しんでおられる方もいるかもしれません。そこから抜け出すカギは、病識を持つことにあるのではないかと思います。病の病識、悪習慣の病識、こだわりの病識、そして、罪の病識。今日共に聞いていく神様の言葉は、この病識に大きく関係しています。共に聴いてまいりましょう。

 

 今日の聖書箇所は、イエス様が、「批判」というテーマを取り扱っています。とても明快なメッセージです。「人をさばくな」、です。この「人をさばくな」というテーマは、自己批判の欠如が前提にあります。自分のことを棚に上げて相手を批判している人の姿をイエス様は例えで描き出します。

 

1

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」

 「裁く」(κρίνω)という言葉は、法律に基づいて判決をするときの専門用語として使われていました。この意味から、神様の裁きを連想する方も多いでしょう。しかしまた、もっと一般的には、ものや人に対して何かを判断したり結論を出したりするのにも使われました。その意味において、私たちは日々何かをさばいていると言うことができるかもしれません。

この「裁く」という言葉自体に否定的な意味はありません。しかし、ここでイエス様が言われているのは、他人の失敗を批判することであり、「あなたがたも裁かれないようにするため」という警告から明らかなことは、そのような裁きは歓迎されるものではないということが分かります。

英語のことわざに、「People who live in glass houses should not throw stones.」というのがあります。「ガラス製の家に住んでいる人は石を投げるべきではない。」というのが直訳です。批判という石を投げた時、同じ石を投げ返されたらその家はすぐに粉々に割れてしまうでしょう。そのくらい、批判や裁きをする人自体、弱さを抱えている存在なのだということを教えてくれます。日本語だと、「人を呪わば穴二つ」が最も近いでしょうか。「他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されることになるので、墓穴がふたつ必要になる。つまり、「人を陥れようとすれば自分にも悪いことが起こる」という例えです。

 これらのことわざができるはるか前から、イエス様は欠点を抱えている私たちが相手を批判することがどれだけ祝福から遠ざけることなのかを教えてくださっています。大事な人が間違っている方向に行こうとしているのを止めたり、やっていることが正しくないと愛をもって伝えることは大切なことです。しかし、ここで禁止されていることは、あら探しをする精神と、あら探しをする人自身に返ってくるような話し方をすることです。

 

2

「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」

イエス様は相互作用の原則を語られます。その原則は、裁きという直接的な言い方と、秤という比喩で述べられる。

よく子どものころ、「ばかっち言う方がばかなんちゃ」と兄弟や友達の間で言い合っていましたが、その原則は実際に間違っていないようです。自分の失敗には気が付かずに批判する人は、偽りの世界に住んでいて、他の人は守らないといけない基準があるがその人だけはその基準を守らなくてもいい世界です。     

 いわゆるダブルスタンダードと言うことができます。           

しかしそれを続けるとどうなるでしょうか。関係性の破壊が起こります。それは、関係性の破壊のレシピと言ってもよいものです。逆に言うと、人間関係を破壊したいと思ったら、このダブルスタンダードを繰り返せばよい、ということになります。ただ、その行き着く先は破滅的な最後です。

 もっと重大なことは、偏らない正義を保たれる神の裁きがこれらの言葉の背後にあるということです。今は人間関係のことだけを述べましたが、私たちが相手をさばくように神様が裁かれるとしたら、私たちの最後はまた重大な結果となるでしょう。

 秤のたとえは、マルコ4:24やルカ6:38にもあり、多様な応用がされています。しかし、ここでのポイントは、マタイ18:23-35に近いです。すなわち、家来に対しての最終的な有罪判決は、彼が同僚の家来に対して行った判決と同じです。

 

3~4

 1-2節のイエス様の指示は、3節からあなたという語りかけと共にたとえ話に移ります。イエス様が公に姿を現される前の職業は大工さんでした。ここでは、大工仕事の生き生きとしたイメージから2つのポイントが生まれています。

1.自分の失敗がより大きいのに他人の失敗に注意を向けていることの愚かさ

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

おが屑と丸太では大きさが何千倍・何万倍も違います。ものすごいインパクトをもってイエス様はその自己批判無しに他人を批判する人のことを描いています。「あなたの目の中には丸太がある」と。相手のことは客観的に見ることができます。でも自分のことは客観的に見れないのです。依存症患者の方も、自助グループなどでは同じ病気を持っている人に対して冷静に分析できます。でも自分に対してはできないのです。それがどれだけ大きな問題でも、自分の中の「丸太」に気付けない、気付きたくないという気持ちが働くのです。

2.自分のより大きな問題に向き合うまでは、誰かを助けてあげようとしても、それは実行不可能だということ

「兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」

 他人の失敗に気付いたり助けようとすることが間違いではありません。愛をもって助けようとすることはその人の為になることももちろんあります。しかし、自分のより大きな失敗に気付いていない人は、誰かを助けられる立場にいないということです。自分の問題がすべて解決してからでないと助けられないということではないと思います。しかし、少なくともその問題を棚に上げて向き合わないのであれば、助けてあげようとしたとしてもそれはできずに終わるのです。「自分の目の丸太を取らなければ」という覚悟と決断が必要なのです。

 

5

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」

イエス様が「偽善者」と弟子に対して使っているのはこの箇所だけです。また、「兄弟」の目からおが屑を取り除くことができる、と言われるように、イエス様は兄弟、という言葉を使います。この兄弟は文字通りの血のつながった家族というよりは、おそらく同僚の弟子を差して言っています。そして、その兄弟は男性だけではありません。兄弟姉妹です。弟子の共同体(すなわち教会共同体)がよい関係を作り続けていくことを、神様は求めておられるのです。

 

 

 自分の目の丸太を見るのは、その丸太がどれだけ大きくても難しいことです。自分を正しく評価できる人はほとんどいないと言えるかもしれません。しかしその自分の目の丸太に気付くということが、「病識を持つ」ということです。一般的に病識がない場合、第三者の指摘が必要になると言われています。ここでイエス様が言われている批判者ではなく、兄弟姉妹として自分のありのままの姿を的確に知らせてくれる人が、病の人が病識を持つには必要です。その病識とは、冒頭でお伝えしたように、ある人にとってはメンタルヘルスの病識、ある人にとっては悪い生活習慣の病識、ある人にとっては悪い考え・こだわりの病識、そして全てを含めている罪の病識です。そして、神様から離れているから起こっている病を指摘できるのは、イエス・キリストを心に受け入れているクリスチャンしかいません。裁きではなく、そのような愛の関係の中で自分の目の丸太に気付いていくことができますように。完璧な人は誰一人としていません。恐れず、罪の鎖から完全に解き放たれることを祈り求めてください。

 

 また、私たちの心のありのままの姿を教えてくれるものがあります。それが、聖書です。あたかも、病識のない人に忠告してくれる良き隣人のように、心の病を的確に指摘してくださる神様の言葉がぎゅっと詰まっています。

 「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」ーへブル4:12

 この「聖書という隣人」を友としていく1年となりますように。そうすることで、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架に架かられた救い主であることにますます気付いていくでしょう。そしてそのイエス様が、私たちに罪の病識を持たせてくださるでしょう。そこが回復の大きな第一歩です。