「大転換」ローマの信徒への手紙12章1~2節

「大転換」ローマの信徒への手紙12章1~2

 

 既に沢山のニュースが流れていますが、1/1の午後4時過ぎ、能登半島地震が起こり、沢山の方が被災しました。亡くなられた方は昨日時点で98名、今も行方不明の方は222人おり、今後さらに増える可能性もあります。33,000人の方が避難生活をしています。被災された方に神様の慰めと守りを心から祈ります。また、共に祈ってまいりましょう。皆様も心を痛めていることと思います。私もすぐにでも現地に行きたい思いに駆られました。しかし、現地では個人で支援に行っている車で渋滞が起こり、公の援助に行っている車が現地にたどり着くまで時間がかかっているというニュースもありました。今は祈りつつ、動くべき時が来た時に動く備えをしていきたいと思っています。募金も様々な団体が行っています。キリスト教の災害援助機関も複数あり、支援と募金に動き出しています。私たちに今できることは何か主に祈り求めていきましょう。そして募金も含めて各機関と、そして能登地域と連帯していきましょう。

 

 湘南台バプテスト教会の礼拝は元旦礼拝から始まりました。今日1月最初の礼拝を教会で神様にお捧げしているという方も多いでしょう。1月は1年の初めの月です。1年で最も昼間が短くなる冬至を越して、また昼が長くなっていくのが1月でもあります。そのような規則正しい変化を感じていく月ですが、ある意味ではそのような時だからこそリセットできるのが1月でもあります。心機一転を図れるのが1月モードです。考え方と行動を思い切って変えていこうと決断できるのも、この1月かもしれません。「1年の計は元旦にあり」という言葉もあるように、変えていくための計画を立てていくことができるのもまた1月です。誰もが今年も新しい計画にチャレンジすることができます。また、1月は全ての行動に「初」をつけることができます。そのような新鮮な思いでこの1月をスタートしていただきたいと願っています。

 

 私たちがライフスタイルを変えようと思う時、削ぎ落すことに焦点を当てると、本来の姿に戻ることができます。2つのことを削ぎ落すことをお薦めします。一つは悪い生活習慣です。「からだに染み付いて、私たちの生活を方向転換させにくくしているもの」が悪い生活習慣と言えます。もう一つは「こだわり」です。「あなたの心を占領して、思考パターンを臨機応変さから遠ざけているもの」と言えます。これらを削ぎ落し、いさぎよく手放すなら、どれだけ大きな変化が私たちに訪れるでしょう。

 本来の姿を取り戻すためには、思い切りが必要です。皆さんの生き方から柔軟さを奪っているものを捨て去る思い切りです。また、最も大切にすべきものから目をそらさせ、心身を消耗させているものにサヨウナラを言う思い切りです。自分になじんではいるけれど、いや、なじみ過ぎているからこそ、心身を消耗させる不健康なライフスタイルを脱ぎ捨て、大転換を果たす1年にしていきましょう。

 

 大転換を果たそうとする時、欠かせないものがあります。それは聖書、神様の御言葉です。聖書は人生の処方箋です。神様の言葉そのものが、人生の大転換を促しています。今日は、ローマの信徒への手紙12章1-2節という短い箇所から神様に聞いてまいります。短いですが、まさに私たちに大転換を促す内容です。また、「パウロの全ての著作は、ローマ12:1-2を拡大したものだと言えるかもしれない。」という人もいるほどに、凝縮されたものです。

 

1

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。」

 パウロは、これから勧めることが1-11章で語られたことに基づいていることを強調します。あなたはキリストによって義とされている、キリストがあなたの罪のために死んでくださったことで神はあなたへの愛を示されたのだ、そしてその神の愛があなたを離れることはないのだ。パウロは11章まででそう言っているのです。だから、その神様の憐みに正しく応答をしていくのが、神の愛を受けた者の自然な姿なのだと、言って勧めているのです。

 

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」

 「身体をいけにえとしてささげる」という言葉は、そのまま聞いたら普通の人はぎょっとするでしょう。恐ろしい以外の何物でもありません。しかし、実は「あなたの体をいけにえとして神にささげなさい」という求めほどキリスト教信仰の特徴を表しているものはありません。これは言い換えると、「あなたの知性だけでなく、からだを使って神に仕えなさい」ということです。しかも、神様に喜ばれる方法で仕えなさい、悪いこと・悪い思いから離れて仕えなさい、というのです。

 当時、ギリシャ人にとって重要なのは霊でした。しかしキリスト者は自分の体は魂と同様に神様のものであると信じました。また、自分の知性や霊と同じように自分の体をもって神に仕えることができると信じていました。からだは聖霊の宮、聖霊の宿るところ、聖霊の働く器です。

 それが分かるのはイエス様が地上に来てくださったからです。神ご自身が、人間の体をご自分で取られ、その中に生きて、体を通して働かれることを惜しまなかったのです。それがイエス・キリストの受肉の出来事です。体をもって仕えるというのは、イエス様ご自身がこの地上で人々に仕えて下さったお姿そのものだということです。

 また、からだをもって仕えるというのは、教会が建てられる時のことを考えるとイメージが付きやすいかもしれません。教会は、私たちが霊的にも礼拝を神様に捧げるために建てられた場所です。そこではこのようなデザインだとより神様の栄光を表すことになるのではないか、というアイデアが、教会を建てようとする人から出てきます。それらのアイデアを実現可能にするように建築家や設計士がデザインをして、実際に大工さんの手の働きによって建てられます。そして実際に私たちが毎週足を運び、讃美と祈りの声をふるわせ、手をもって献金をささげ、耳をもって神様の言葉を聞く、という体を伴う礼拝が行われます。まさに、教会は、知性と霊とからだをもって礼拝が捧げられる場所です。

  

 しかしパウロは続けて言います。「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

ささげる行為・仕えることそのものが礼拝だというのです。これは私たちの概念を覆します。日曜日の礼拝を超えていく礼拝の勧めをパウロはしているのです。「ささげなさい、仕えなさい、礼拝しなさい、ただし日曜日だけ。」とはパウロは言っていないのです。

「日常負っている全ての義務を、神への礼拝の行為としてささげなさい」とパウロは言うのです。

 なすべき真実の礼拝とは、日々の生活を神に捧げることです。真実の礼拝は、全ての世界を生きている神の宮とみなし、それぞれの日常の行為を礼拝の行為とみなすことにあります。

 キリスト教会初期の教父はこう言いました。「いけにえとなる体というのはどのようなものだろう?目に悪いものを見させないようにしよう、そうすればその目がいけにえとなる。あなたの舌に下品なことを何も言わせないようにしよう、そうすれば舌は捧げものになる。あなたの手に不法な行いをさせないようにしよう、そうすれば手は焼き尽くす捧げものとなる。」

 

「わたしは神様を礼拝するために教会に行く」と言えるでしょう。クリスチャンが賛美と礼拝のために定期的に集まることも間違いなく適切なことで実際に聖書で命じられていることであり、間違いなく礼拝です。しかし、礼拝には公の礼拝と個人的な礼拝があると言えます。したがって、「わたしは神様を礼拝するために、職場に行く」「わたしは神様を礼拝するために学校に行く」「わたしは神様を礼拝するために、デイサービスに行く」とも言えなければならないのです。

 

2

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、」

 2節の初めにはandという言葉があるが、訳されてはいません。1節と2節には密接な関係があることを表しています。つまり、どのように私たちを生きたささげものとしていけばよいかが、2節で語られます。

 私たちの体が聖なる捧げものとなるのは、私たちがこの世に倣わず、心を新たに変えられる時だけです。この世は、罪が支配し、死を生み出す領域です。しかし、キリストに属する者は、罪と死の古い領域から、神様の義と神様の命の新しい領域へと移されています。この義と命を頂いていることを確信していく時、心は新たにされます。「新たに」というのは、時間が経てば古くなっていく新しさではなく、時間が経っても古くならない、本質的な新しさのことです。イエス様が私たちの命に入られる時、その人は新しい人となります。人生を導く力が他の人とは違うからです。そのようにして変わった自分は、さなぎから蝶に変わるような、完全に変化した自分です。そのような完全な変化は、人間の内側の本質的な部分が変わる時に起こるのです。

 

「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 わきまえるとは、神様の御心を理解したうえで同意して実践していくことを表します。ここからも、知性だけでなくからだも使わなければわきまえられないことが分かります。

 そして、神様の御心とは、その後にくわしく3つのことが挙げられています。すなわち、何がよいことで、神に喜ばれ、完全であるかということです。「私の生活習慣(からだに染み付いて方向転換させにくくしているもの)は完全なことなのか」、「私のこだわり(心を占領して、思考パターンを臨機応変さから遠ざけているもの)は神様が喜んで受け取って下さるものなのか」、このように問いかけていくことで、冒頭にお伝えした削ぎ落していく思い切りとその決断が私たちはできるのではないでしょうか。

 心を新たに自分を変えていただくのは、多くの場合そこに至るプロセスがあります。考え方の変化は一晩では起こりません。しかし、求めていくなら、確実に私たちの考え方、ライフスタイルに変化は起こります。そして、ますます神様が私たちに考えてほしい方向に向かうのです。そのことで、「からだを神にささげる」仕え方がよりよくできるようになっていくでしょう。

 

    御心を求める際に助けになる考え方があります。WWJDという考え方です。これは、「What Would Jesus Do?」の頭文字で、イエス様ならどうするだろうか?と考えることです。「この習慣をイエス様ならするだろうか」「このこだわりをイエス様ならどうするだろうか。持ち続けるだろうか、捨てるだろうか」と考えていくことで、この世に倣うやり方か、神様の御心にかなうことか、吟味していくことができるでしょう。

 

 イエス様に従っていき聖書を読んで祈っていく中で、神様の御心を求め続けてまいりましょう。また、まだイエス様を心に受け入れてない方は、イエス様の十字架と復活が皆さんの罪の為であったことを信じ、イエス様を皆さんの心にお迎えしてください。その時、皆さんはイエス様が自分の命に入って下さった新しい人となります。

 「心を新たに自分を変えていただく」、皆さんの「大転換」の1年となりますように。そのために神様がこの1月を祝福して用いてくださいますように。