「魂の本籍地」フィリピの信徒への手紙3章17~21節

「魂の本籍地」フィリピの信徒への手紙3章17~21

 

 

 以前パスポートが切れたので、10年ぶりに申請に行ったことがあります。パスポートの申請には戸籍謄本が必要でした。戸籍謄本は本籍地のある役場で申請しないと手に入りません。郵送の手続きもできますが時間がかかります。また、平日でなければパスポートの申請はできないので、当時の仕事を1日休みをもらいました。そして1日で済ませなければならなかったため、役場まで取りに行きました。実は、私の当時の本籍地は福岡県の鞍手郡というところでした。両親の両親、つまり私の父方の祖父と祖母が戦前に住んでいたところです。両親が本籍地を変えていないので、鞍手まで取りに行かなければなりませんでした。北九州市の戸畑から福岡家県の鞍手郡までは大体30kmほどです。それでも本籍地まで行くのは遠いと感じました。しかし、クリスマスの時に読んだように、ヨセフとマリヤは140kmの距離を何日もかけてベツレヘムまで行かなければなりませんでした。ヨセフの本籍地が、ベツレヘムにあったからです。ベツレヘムはユダ族のダビデの家系の者の本籍地です。彼らにとって本籍地がどこかということ自体が、実は現代の私達と違って非常に重要なことでもありました。後に、一緒に見ていきたいと思います。

 

今日は、私たちがどこに所属しているのか、そして何を待っているのか、一緒に見ていきたいと思います。

 

17

パウロは私に倣う者になってほしいと言います(見本にしてそれに従う、真似る)。倣う者になるとは、ユダヤ社会において受け継がれてきたことです。子どもたちは、先生から教わったことを聞くだけではなく、先生が行うように自分も行うことを学びました。

パウロは2つのことを倣うようにと言っています。

(1)キリストと福音のために苦しみを受けること。苦しみの中で、なお主にあって喜ぶという点においても倣う者となるように。(2)福音に従って生活すること。

パウロは大胆にも自分に倣うようにと言っていますが、自分を誇って言っているのではありません。常に「私が、キリストに倣う者であるように」(Ⅰコリント11:1)ということが念頭にあります。私がキリストに倣っているように、私に倣う者となりなさい、即ち、最終的にあなたがたもキリストに倣う者となりなさい、と言っているのです。

 「また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」

フィリピは小さな町で、東西を結ぶ海岸沿いにあります。旅をする人々が多く訪れる町です。その中で、キリストに倣う者をしっかり見分けなさいという警告です。また、キリストに倣う者をもてなしなさいという意味も出てきます。

 

18

十字架に敵対して歩む者・・・パウロにとって、イエス・キリストの十字架は神が人間を贖う手段でした。 人間の知恵と力の対極にあるものです。

 十字架は人間を処刑する道具です。恥であり、力とは正反対のものです。イエス様がどういう方かを分かっていないとそのように映ります。

 パウロが涙を流して語った人達は、パウロと関係があった人たちだと考えられます。したがって、直接的な敵対者というよりは、イエス様との関係を求めなくなった者、走るのを止め、天国の賞(神の栄冠)を熱心に求めなくなった人達のことを思っているのでしょう。

19

彼らの行き着くところは滅びである・・・パウロは、信じた者が信仰を捨て、あるいは生活がキリストに倣っていないところを見て信仰を捨てていると判断し、彼らの最後は滅び(破滅的な最後)だと言った。

彼らの神はその腹・・・自分の欲を満たすことだけを考えることで心が支配されていることを差してパウロは言っています。欲が自分の神となっているのです。「こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え」(ローマ16:18)

 恥ずべきものを誇りとし・・・恥とは彼らのふるまい自身であり、誇りとは彼らが喜ぶものです。21節の栄光の身体とは対極にあります。

この世のことしか考えていない・・・この世の欲を考えているだけでなく、この世の思いに考える基礎が置かれています。パウロが涙を流した人々とは、天国の賞を求めず、この世のことのみを考えるようになってしまった人々です。

 

20

しかし、パウロは私たちの国籍は天にあると言います。

ヨセフとマリヤにとっても本籍地は重要だったと言いましたが、イスラエルの民にとって、自分がどの部族の誰の家系かは、神の救いを約束された神の民の一員であることの証明でした。これはエリート意識ではなく、傲慢な気持ちからでもなく、度重なる征服を受けた民にとっての希望そのものだったのです。「ここが私の救いの原点だ。ここが私のよりどころ、私の居場所なのだ」、そういう思いです。

 

 バプテスマ式は、ある場所への登録に例えることができます。すなわち、魂の本籍地を天国に登録することです。また、不完全ではありますが、天国の出張所である教会に住民登録をし、神の栄光を表す民の一員として歩み始めるということです。

 

また、信仰とは、イエス・キリストの内に、自分が安心していられる場所を見出すことです。「ここが私の居場所です」と、神様の愛の中に住民登録をするということです。
しかし同時に、私たちの内なる場所に、聖霊を通してイエス様に登録をして頂くということでもあります。イエス様に「ここが私の居場所だ」と、私たちの心に住んでいただくこと。それが、信仰という、私と神様の相互関係です。
そして、主イエスキリストが救い主として来られる」ということは、私たちにとって、確かな未来が保証されていることを表しています。

 

21

 万物を支配下に置くことさえできる力・・・パウロは、父なる神と同じ権限がイエス様にあることを教えています。

 そのイエス様が来られる時、私たちの弱さと苦しみを受けた身体は、イエス様と同じ栄光の身体に変えられるでしょう。滅びゆく自然界の中にあるこの身体は、滅びない超自然的な身体に変えられます。それこそが救い主が私たちに報いて下さるゴールです。

 

 だからこそ、パウロはフィリピの人に激励の手紙を送っています。

1主によってしっかりと立ち(4:1)

2人間関係を含む摩擦はあるかもしれません。しかし、主に責任のある人は主にあって同じ思いになるようにと。(4:2)

 

 そして、イエス様の思いを私たちの思いにして頂きつつ、イエス様が私たちにしてほしいということを一緒にしていくのです。

 

 

 私たちは、愛して下さった方、すなわち、父なる神様、聖霊様、主イエス様を共に愛します。そして、私たちの愛する方が喜んで下さる、そのことが嬉しくて、神様の救いを共に宣べ伝えます。それが、魂の本籍地が天にある者の生き方です。「私の本籍地は天国です」、と、確信をもってお一人お一人が宣言する新しい年となりますように。