アドベント第2週「マニフィカト」 ルカによる福音書1章46~55節

アドベント第2週「マニフィカト」

ルカによる福音書1章46~55

 

 今日はアドベント第二主日礼拝です。アドベントはラテン語で「到来」という意味です。神様の到来を待ち望む時です。バプテスマのヨハネもイエス様も、福音をのべ伝える時にこう言いました。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ」。

 来られる方を待ち望む時、それは悔い改めの時でもあります。

クリスマスの時、それはイエス様が来て下さったことを喜ぶ時です。また、やがてイエス様が再び来られることを確信して喜ぶ時です。

 しかし、アドベントは、そのクリスマス前の準備の時です。一人一人が、また世界が、イエス様が来られる時を待ち望み、自らのあり方を顧みる時でもあります。光が来る前は闇が広がっていました。私たちの中の闇も、また見て行かなければなりません。悔い改めの時であることを覚えつつ、今日の聖書の箇所をともに覚えたいと思います。

 

 2本目のロウソクにも火が灯りました。2本目のロウソクは「ベツレヘムのロウソク」と呼ばれています。そのロウソクは「平和」を象徴しています。

 第一次世界大戦中に実際に起きたエピソードがあります。寒いクリスマスの夜、兵士たちは長い戦いに疲れ、銃を置いてクリスマスの思い出にふけっていました。すると一人の兵士が「きよしこの夜」を歌い始めました。いつしかそれは、他の兵士も加わり、夜空を揺るがす大合唱となりました。兵士たちは、家族を思い浮かべつつ、涙を流して大声で歌いました。

 その時、別の方角の闇の中から。もう一つの歌声が聞こえてきました。別の軍から、「きよしこの夜」の賛美歌に応えるかのように、「ああベツレヘムよ」というもう一つのクリスマスの歌が湧き上がりました。その夜、銃声は止み、にわかには信じがたい、感動的なクリスマス休戦が、筋書きなしで、突然実現したのです。

 クリスマスには敵も味方もありません。クリスマスの歌声は憎しみをとかし、赦しの精神で私たちの心を満たします。イエス・キリストは全人類の救い主として地上に来てくださいました。心に平和を、家族に平和を、世界に平和をもたらすために。

 

 平和のろうそくが灯った今日、イエス様がもたらしてくださる平和を共に覚えたいと思います。その平和の御子イエス・キリストがこの世に来られたのはマリアを通してでした。2本目の「ベツレヘムのロウソク」は、神様の計画の中で起こされる神様の御業に信頼して従っていた人々が覚えられます。今日は、マリアの歌った賛美から主に聞いてまいりたいと思います。

 

本日の聖書箇所で歌われているマリアの歌は、「マグニフィカト」と呼ばれています。崇めるという意味です。バッハのマグニフィカトでも有名です。天使ガブリエルがマリアの元を訪れ、聖霊によってマリアは男の子をみごもったと告げます。神様から恵みを頂いたことを告げられ、マリアはそのことを受け入れます。「お言葉通りこの身になりますように」。その後親戚のエリサベトの元を訪れ、エリサベトがこう言います。「あなたの挨拶を聞いて私の胎内の子は喜び踊りました。主が言われたことが実現すると信じた人は何と幸いでしょう」。

その言葉に応答するかのように、マリヤは歌い、主を賛美しました。それが今日の御言葉。

 

4つに分けて見ていきましょう。

 

46~47

「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」。

1魂も霊も、人間の深いところを指しています。

 「わが魂は夜あなたを慕い、わがうちなる霊は、せつにあなたを求める。あなたの  さばきが地に行われるとき、世に住む者は正義を学ぶからである。」ーイザヤ26:9

 ここに「私の全存在をもって主を崇める」というマリアの賛美があります。

 また、人は肉体だけではなく、魂、そして霊が人間の深いところに確かにあること  を教えられます。

2また、主は救いの神であることが語られます。 

 旧約聖書の時代から、主は救いの神 であると宣言されてきました。

 「見よ、神はわが救である。わたしは信頼して恐れることはない。主なる神はわが  力、わが歌であり、わがとなられたからである」ーイザヤ12:2

 主が救いの神様であるということは、イエス様が生まれる前から、歴史的な根拠を  持っているのです。

3神を喜ぶとは、神様が来て下さったことを喜ぶということです。。

 エリサベトも、マリアが来た時、こう言っています。

 「ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で 喜びおどりました。」ールカ1:44

 マリヤのお腹の中には主がおられる。その主がエリサベトのところに来て、エリサベ トとお腹の中のヨハネは喜びました。私達も、救い主が来てくださったことを喜ぼう ではありませんか。

 

48~49

なぜマリアが主を賛美しているのかが歌われます。

1主がマリアに目をとめて下さった。

2主がマリアに偉大なことをして下さった。

マリアという個人に起こった出来事、マリアというその人自身に注がれた主の憐みが歌われています。

身分の低い・・・1抑圧された人。当時のイスラエルが他の国に占領され、奴隷とされた時代、また、ルカの福音書で語られているローマ帝国の占領下にあったユダヤの国の時代です。抑圧されたのはイスラエルそのものでもあります。2貧しい人。身分の低さは、ルカと使徒言行録では貧しさを表しています。当時のイスラエルでも特権階級は贅沢な生活をしていましたが、その生活を支えるかのように貧しい生活をしていた人々が沢山いました。マリアもその一人です。

 神様の力とマリアの低さは対照的です。神様の力は低いところ・貧しい者に及ぶのだと教えられます。そのマリアを主が憐れまれたのは、言葉にならないほどの神様の恵みです。

 

50

 48-49節まででマリアというその人自身に注がれた主の憐みをマリアは歌いましたが、マリアに起こった出来事は、主を信じる人全てに広がることを続いてマリアは歌います。

 

51~53

 主はその腕で力をふるい→マリヤの賛美の決定的な場面です。特に、主がイスラエルの民をエジプトから連れ出したことを指します。

「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び、エジプトの地に滞在中、この民を大いなるものとし、み腕を高くさし上げて、彼らをその地から導き出された。」ー使徒行伝13:17

 主がエジプトからイスラエルの民を脱出させたのは、主の救いの到来を予期する出来事でもありました。その救いの出来事の中で主は何をされるでしょうか。

 ルカが語っている神様の特徴がここに3つまとめられています。
 1思い上がる者を打ち散らす 2権力ある者をその座から引き下ろす 3富める者を追い返す

 主がその御腕を振るうのは、神様に反対する者に対してです。神様に反対するということは、神様が持っておられる目的に反対するということです。

神の反対者とは誰でしょうか?それは、社会の中で尊敬されたい者、名誉ある地位を守りたい者、貧しい人や社会の中で受け入れられない人を排除したいと思い、実際に排除しようとする者です。主はそれらと闘います。ある人がこう言いました。「本当の平等は、抑圧されている者の側に立つこと。どうやっても権力あるものの方が力が強い。不正を直そうとしてもその権力の力はちょっとやそっとでは太刀打ちできない。だからこそ、抑圧されている者の側に立つことで平等は獲得されていく。」神様の救いは、身分の低い人と飢えた人への憐みの御業として現れます。私達も、神様の救いにあずかり、神様の救いの計画に参加していく者へと招かれています。

54-55

神様は神の民と契約を結んで下さった方です。アブラハムとその子孫の名前が出ているのは、神様の契約が歴史的に築き上げられて今に至っているからです。私たちも主を信じ主を待ち望むなら、神の民の一人です。主が憐みを忘れないと言った神の民。主が助けられた神の民の一人なのです。

 

 

 心の奥底から、私達の全存在をもって主を喜びましょう。主自らが成し遂げられる救いの御業に与かり、また、主のご計画に参加する者として、クリスマスまでのひと時、主を待ち望みましょう。マリヤの讃美に私たちもまた声を合わせていきましょう。