アドベント第1週 「神は私たちと共にいます」 2023年12月4日 マタイによる福音書1章18~25節

アドベント第1週 「神は私たちと共にいます」

マタイによる福音書1章18~25

 

 今週からアドベントに入りました。アドベントは、日本語では待降節と言います。イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするクリスマスの前、その時を待ち望む、そのような期間として定められています。クリスマスの4週前からアドベントは始まり、1週ごとにロウソクに火を灯していきます。今日、1本目のロウソクに灯がつきました。クリスマスまでに、4本(あるいは5本)のロウソク全てに明かりが灯ります。その1本1本のロウソクには意味が込められてきました。1本目のろうそくは「預言者のキャンドル」と言われています。特に、イエス・キリストの誕生を預言した、イザヤを通して与えられた御言葉を思い起こす時となっています。また、その預言を通して人々に与えられた「希望」を象徴するのが、この1週目のアドベントです。

 「希望」に関する有名なエピソードがあります。この時期、クリスマスの讃美歌として、またクリスマスキャロルの一つとして、「きよしこの夜」が教会だけではなくいたるところで聞かれます。湘南台駅でも流れています。この「きよしこの夜」は、1818年にフランツ・グルーバーというオルガニストによって作曲された曲です。当時の教会ではやはりオルガンによる伴奏が普通でした。クリスマスの礼拝に向けてグルーバ―は練習しようとクリスマスの前日に教会に出かけます。すると、なぜかオルガンの音が出ません。調べてみると、なんとネズミがオルガンのパイプをかじっており、オルガンに空気を送ることができなくなっていました。すぐに修理できる状況ではありません。グルーバ―は顔が真っ青になり、「どうしたらよいだろうか」と途方にくれました。そこに、教会の牧師であるヨセフ・モーアがやって来てこう言います。「フランツさん、これは私が書いた詩です。この詩に曲をつけてもらえませんか。そうしたらこれをギターで伴奏をして会衆と歌いましょう」。グルーバ―は上手くいくかどうか分かりませんでしたが、曲はできあがり、不安を感じながらも、ギターの伴奏で「きよしこの夜」は教会の礼拝で初めて歌われました。結果は大成功でした!人々はこの曲をとても気に入り、今では何十ヵ国語にも訳されて世界中で歌われています。今や最も有名なクリスマスの讃美歌の一つです。とても素朴なギター伴奏で歌われた「きよしこの夜」。しかし、素朴でシンプルであったからこそ、その歌詞が人々の心に行き渡ったのかもしれません。イエス様がお生まれになった出来事を素朴に伝えるこの曲が私も大好きです。

 ここにも大逆転、「どんでん返し」の希望があります。神様の希望は、もうどうしようもない、この状況から抜け出せない、と思われる暗闇の中に光として輝くのです。

 

今日は、もう一つ、ヨセフに天使が現れた出来事を通して、神様が示してくださった希望にあずかっていきましょう。

 

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 「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」。物語が物語られます。そして、聞く人に注意を促しています。「その救いの物語を聞きなさい」、と。

 ヨセフとマリア、二人の婚約の喜びと期待はどれほど大きかったことでしょう。しかし、身ごもっていることが分かった時のマリアの戸惑いもまた、どれほど大きかっただろうかと想像します。そして、ヨセフの絶望はどれほどだっただろう、と想像します。しかし、その出来事は聖霊によると書かれています。「聖霊によって身ごもっている」のです。このことをまだヨセフもマリアも知りません。だから、戸惑っているのです。

 

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 しかし、「夫ヨセフは正しい人であった」と言います。婚約段階ですでに夫と言われているように、当時のユダヤの結婚には2段階ありました。1段階目は、親が決めた婚約で、2段階目は、実際に結婚する前の1年間です。この2段階目では、二人は結婚式は挙げていませんし、夫婦の権利をまだ持っていませんが、実際に夫婦と見なされました。したがって、ここでは夫と呼ばれています。また、その2段階目に入ったら、別れる時は離婚扱いとなりました。そのような社会の中で、当時の律法ではこのように理解されていました。不倫による離婚で女性に課された罰は、石打ちの刑だと。ヨセフはひそかに、婚約という契約を取り消すことで、マリアが非難されたり結果的に裁判にかけられるのを避けようとしました。悩みながらも、マリアのことを考えて命を守ろうとしたヨセフの姿があります。

 

20~21

 しかし、そこで夢に天使が現れます。この苦しみ悩んでいる時期に、ヨセフの行動を導く神様が働きかけます。天使は、「ダビデの子ヨセフ」と語りかけます。実は、ヨセフの離婚の決断は危機的なものでした。ヨセフの息子としてイエス様が認められなければ、イエス様はダビデの王家とは関係がないことになります。

 そこで、ヨセフは離縁を決断しましたが、神様によって2つの新しい決断を求められます。

1.マリアを拒絶するのではなく、妻として迎えること。マリアの妊娠は人によるものではなく、聖霊によるものだからです。

2.彼女の息子に名前をつけることで、法的にイエス様をヨセフの息子として認めること、すなわち、ダビデの息子として認めること。名前を付けることは父親の法的な責任でした。そうすることで、息子と相続関係にあることを公にしたのです。このことは、聖書の預言が成就する出来事でした。イザヤ書11章1節には、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち」とあります。エッサイはダビデの父親です。このエッサイの根から出た芽が、イエス様だったのです。

 また、「恐れるな」という励ましが神様から与えられます。そしてこの人と結婚しなさい、とヨセフは言われます。神様からそのように言ってもらえるなら、どれだけの後押しとなることでしょう。

 天使は「その子をイエスと名づけなさい」と告げます。「この子は自分の民を罪から救うから」だと。イエスという名前の意味は、ヘブライ語では「ヨシュア」で、「神が救う」という意味です。しかし、天使はそこに理由を付け加えます。自分の民を「」から救うと。当時のユダヤの人々の期待は、ダビデ王国の復活で、それこそが救い主がしてくれることだと思っていました。しかし、イエス様が成し遂げる救いは、彼らの「罪から」の救いだったのです。明らかにユダヤの人々の期待を超える言葉を天使は告げます。

 

22~23

 「」が預言者を通して語られたのだと、マタイは強調して言います。この主が預言者を通して語られたという言い方は、新約聖書ではマタイしかしていません。それほどまでにマタイは伝えたかったのです。旧約聖書から預言者が語っていた預言が、イエス・キリストにおいて成就したのだと。この預言は、イザヤ書7章14節の言葉です。また、「全てのこと」とは、マリアが聖霊によって身ごもった出来事だけでなく、救い主の誕生と、その名前がつけられることまで含んでいました。

 ヨセフが名前をつけるように言われたのは「イエス」という名前でした。しかし、23節で預言者イザヤが、このように呼ばれるだろうと言った名前は、「インマヌエル」でした。しかし、その預言が成就した、とマタイは言うのです。マタイは続けて言います。このインマヌエルという名前の意味は、「神は我々と共におられる」だと。から救われる主の民が、最終的にイエス(神は救う」というお方)とはどういうお方であるかを学ぶことになります。それは、「救う」お方は、「私たちと共にいてくださる」神様だということなのです。だから、「インマヌエルと呼ばれる」というその預言が実現したのが、イエス様なのです。

 

24~25

 ヨセフは、天使が言った言葉をそのまま受け入れ、従いました。すなわち、マリアを妻として迎え入れ、男の子にイエスと名付けました。ナザレのイエスは、確かにダビデの息子として養子とされたのです。

 

 神様の霊は、イエス様の誕生において、天地創造以来最も力強く働きました。神様の霊、すなわち聖霊は無から有を創り出すことができます。実際、そのようにして神様は天地を創造されました。

 そしてヨセフは、マリアの妊娠が不倫ではなく、そのように聖なるところから来たのだという保証を神様から受けました。そして、この「大胆な一歩を踏む」ように促されました。苦しみ悩みから始まったヨセフは、神様からの確かな言葉を聞き希望を頂き、全世界に広がる救いの計画に加わったのです。

 

 主は確かに語っておられます。その語りかけと招きに応えるのはその人次第です。ただ、それが「主」からの言葉と励ましと招きであるなら、私たちはその招きに応えて、大きな一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。ヨセフのように苦悩の中にあったとしても。救いが広がっていくような大きな一歩を、ヨセフのように。

 

 暗闇の中に希望の光として来られるイエス様のご降誕を待ち望みつつ、アドベントの時を過ごしてまいりましょう。