詩編40編13~18節 中心聖句 詩編40編17節 『きつい時、だからこそ、歌おう』

詩編40編13~18節 中心聖句 詩編40編17

『きつい時、だからこそ、歌おう』

 

 

 さきほど女性会の皆様から世界バプテスト祈祷週間の献金とお祈りのアピールをしていただきました。貴いお働きに感謝します。今年私は、世界バプテスト祈祷週間を、初めて湘南台バプテスト教会で迎えています。母教会でも世界バプテスト祈禱週間は同じように持たれていましたし、同じように覚えて祈っていたつもりでした。しかし、今年はいつもと違うことがあります。それは、BWA(Baptist World Alliance 世界バプテスト連盟)の女性会に初めて参加したことでした。北九州でもBWAの女性会が持たれているのは知っていましたが、仕事の関係や、そもそも女性しか参加できない会と認識していました。しかし、男性も参加してよい会と聞き、女性会がどのように持たれているのかを知りたいと思い参加させて頂きました。会では、私が今まで知らなかった世界を知ることになりました。バプテスト連合は世界に広がっており、お互いが祈りで繋がっていることを改めて感じさせてくれました。私たちが所属するアジアバプテスト連合、そして、北アメリカバプテスト女性連合、太平洋バプテスト女性連合、アフリカバプテスト女性連合、ラテンアメリカバプテスト女性連合、カリブ海バプテスト女性連合、ヨーロッパバプテスト女性連合、この7つのバプテスト女性連合を今日改めて祈りに覚えたいと思います。会では、それぞれの地域の祈りのリクエストが今日のように紹介され、私たち湘南台バプテスト教会も、太平洋バプテスト女性連合のことを覚えて共に祈りました。パプアニューギニアの女性の識字率を5年以内に100%にするということ、2023年3月に起こった2度のサイクロンの被害からバヌアツという国が復興できるようにとの祈りを今日も共にしています。聖書を読みたいと願う女性たちの思いを当たり前になりすぎている私たちは想像することが難しいと思います。また、バヌアツ共和国がサイクロンの被害を受けて全人口の半分に当たる15万人が被災したという事実を、私たちは知らないか忘れてしまっています。世界のいたるところにある痛みに目が開かれ、共に祈る者へと変えられていくのがBWA女性部の働きであり、バプテスト連盟の女性会の70年以上にわたる貴いお働きです。感謝とともにわたしたちも祈り、特にこの時期、献金をささげてまいりましょう。また、そこにバプテスト教会が誕生したからこそ、このようなグループとつながりが生まれてきたということを改めて思います。最近知り合った方が、インドの北東部の民族の方とお友達だということを教えてくれました。その地域の民族は皆バプテスト派の信仰を持っていて、日本のバプテスト教会との交流を望んでいる、とのことでした。そこにはアメリカの宣教師の方が伝道に赴き、地域に教会を建て、またその地域を支えるために学校や病院を建て霊肉ともにサポートをしてその信仰が育まれてきました。そのお働きがあり、私たちもその交わりにあずかることができます。バプテスト連盟においてもインドネシアに野口宣教師ご夫妻を派遣しています。また、アフリカのルワンダ、タイやカンボジア、シンガポールにも宣教師を派遣してきました。その宣教師の皆様のお働きに感謝するとともに、これからのそのお働きがさらに祝福され実を結ぶように祈ってまいりましょう。

 

 今日は、先々週共に読んだ詩編40編の後半になります、13~18節からご一緒に主の言葉に聞いてまいりたいと思います。

 

 1~12節までは、救いについての賛歌・ほめ歌でした。そこでは、主が私たちの耳を開き、あらゆる不安や噂話、怒り等で覆われている私たちの耳を「掘り抜いて」聞こえるようにしてくださったことが分かりました。主の御声を聞こえるようにしてくださること、これが何よりの恵みです。その恵みを受けて、詩人は神様が救って下さったこと、神様が慈しみ深い方であることを告白し、神様の御心を行うことを望み、証しをしていく者へと変えられました。

 それらのほめ歌に対して、13節~18節までは、「救いを求める個人の祈り」と呼ばれます。文字通り救いを求めて祈っている詩人の姿があります。

 

13-16

 詩人は12節まで、様々な集会で神様の救いの良い知らせ・福音を語っています。しかしその福音によって生きることが難しい状況が、13節で起こってきます。「悪がわたしに数えきれないほどからみついている」「自分の罪に捕らわれ、わたしは心くじけている」。12節までの救いを高らかに歌う詩人と同じ人なのかと、耳を疑いたくなるような言葉です。 ここには二つの罪と悪があります。一つは「いのちを奪おうと狙っている者(15節)」や「わたしを災いにあわせようと望む者(15節)」など、外側から襲ってくる罪と悪です。もう一つは「自分の罪に捕らわれる」ような内側から湧き上がる罪と悪です。

 そのような状況の中で、信頼することがどんなに難しいことであるかが描き出されています。

 詩人はまるで、敵の軍の罠にはまって捕虜とされた者のように、不幸な出来事と無法地帯に取り囲まれ、捕らわれているようです。詩人を取りまいている災いは、かつて詩人が受けた主の恵みの御業に匹敵するほど数えきれないもののようです。

 今、詩人は、自分の抱えている問題以外には何も見ることができないでいます。今、この詩人の心はくじけています。            

 私たちも自分の中にある罪を見る時心が挫けてしまうことがあるかもしれません。また、この世界の惨状を見る時、心が挫けました、と言いたくなる時があるかもしれません。イスラエルとパレスチナで日々失われるいのち、今日ともに覚えているウクライナ戦争、ミャンマーの内戦、北アメリカやカリブ海地域の女性への暴力、貧困、乳がん、台風の災害、アフリカ大陸のマラリア・肺結核・AIDS、政治腐敗、まさにからみつき数えきれないほどです。

 

 この詩は、救われたという経験が神様の助けをもはやもう必要としないわけではないことを教えてくれています。

 15-16節の祈りは呪いと紙一重のような、人間の心の重苦しいものが溢れているような気がします。この祈りをそのまま祈るのは適切ではない気がします。ただ、それほどの思いに駆られる現状があることを誰も否定できません。人が破滅することを祈るというよりも、先程あげたような世界の悲惨な状態の一つ一つがなくなるように、強い言葉で言うなら、滅びますようにという祈りはむしろ必要ではないでしょうか。

 

17-18

1-12節までのかつての神様からの救いの証しと、13節からの今救いを必要としていることの告白を伴い、詩人は「救いを求める祈り」へと向かいます。

 詩人は彼の命を脅かす者たち(15-16)から、急いで主が助けて下さることを求めています(14)。詩人は、主を尋ね求める人すべてが、そして主の救いを愛する人々すべてが、喜びをもって、主の偉大さをほめたたえ歌うことのできる日が来るのを求めて祈っています(17)。しかし今は、救い主である主に早く来てください、と叫ぶ、「貧しく身を屈めた」人として語らざるを得ない現実があるのです(18)

 

 詩編40編全体でみるなら、かなり複雑な人物像に思えます。救いの御業を感謝しつつほめ歌い、その御業を証しするところから始まり、しかし、からみつく罪と悪の中でどうしようもない状態にまた置かれ、地の底から助けを求めてうずくまっている人が救いを求める祈りで終わります。詩編40編はこのように形作られているのです。しかし、ここには私たちに神様が与えて下さっている慰めと励ましがあるように思うのです。

 

 この地上で生きている間は、賛歌・ほめ歌と救いを求める祈りが絶えず循環しています。しかし、賛歌・ほめ歌は、救いを求めて祈らなければならない状況にある人々の、土台となります。だからこそ、詩編40編は救いを求める祈りから始まるのではなく、ほめ歌から始まっているのではないでしょうか。私たちは、救いを求める祈りが必要な現状にあっても、私たちの根底にあり土台である、主を賛美するほめ歌へと戻っていくことができるのです。

 BWAと女性会のお働きも、傷んだ世界の現状を覚え世界中で祈りの輪をつないでいく、「救いを求める祈り」の働きです。そうすることで、私たち一人一人が初めに神様から頂いた救いと感謝へと、この世界が戻っていくことに希望を抱いているからこそのお働きである、と感じています。

 

 詩人は、そして私たちは、賛美と信仰をもって、今も苦しみと罪からの救いを求めて祈らなければなりません。個人の罪も世界の罪も。

 しかし、私たちのためにただ一度限り、罪に対する犠牲がささげられたからこそ、私たちの祈りは希望の内になされるのです。その犠牲とは、十字架にかかられた救い主イエス・キリストです。

 

 きつい時、だからこそ、歌いましょう。17節の祈りの歌に合わせて。

「あなたを尋ね求める人が あなたによって喜び祝い、楽しみ 御救いを愛する人が 主をあがめよといつも歌いますように。」