「読む」から「聞く」へ マルコによる福音書4章1~9節

「読む」から「聞く」へ

マルコによる福音書4章1~9

 

 

 前回は、「目」から「耳」へ、という題でお話しさせて頂きました。今回の宣教題も似たタイトルにさせて頂きました。「読む」から「聞く」。このことがいかに大切なことであるかを共に理解したいという願いから、今日も神様の言葉に聞いてまいりたいと思います。

 前回は、「読む」場合は「読む」人が主導権を握ること、読む場合はいつでも止めることができることを、しかし、「聞く」場合は語る人が主導権を握ること、語る人は聞いている人が注意して聞いているかどうかを分かるということを見ていきました。歴史的には、1437年のグーテンベルクの活版印刷の発明によって沢山の本が印刷できるようになり、人々は沢山の情報に読むことで触れることができるようになりました。しかし、本は本来は「読まれることで書いた人の生きた言葉を聞く」営みであったのに対し、それぞれが読む個人の出来事に変わっていきました。情報の普及には恵みと負の遺産の両方があります。インターネットの普及は第二のグーテンベルクと言うこともできるかもしれません。その恵みと負の遺産の両方の面を理解した上で、「読む」という出来事を通して「聞いて」いきたいと思います。

 

 今日はもう一つ、歴史の中でなぜ「書かれた言葉・印刷された言葉」が「聞く言葉」にならなくなってしまったのかを確認したいと思います。

 

・「勉強 schooling」が「学習 learning」に代わられてしまった     

「学習」とは本来は、人間と人間との交流の中で行われる、人格的な営みです。       「学習」は内にあるものと外にあるものをつなぎ、一つに結びつける働きがあります。昔(2000年以上前)からの「学習」の方法はすべて人格的なものでした。すなわちそれは、対話であり、真似をすることであり、ディスカッションでした。これらすべての出来事は話し言葉の海の中で起こりました。

また、「学習」の原型は、子どもと親の関係の中にあります。親もまた、子どもとの関わりの中で生きる能力を成長させ発達させていきました。      

このような学習モデルは人間の本来の性質に深く根差したものであり、何世紀にもわたって有効な方法でした。

しかし登場したのが学校です。「学校」の語源は、ギリシャ語のスコレー。本来は余暇を表す言葉です。差し迫った用事のない人が教養を養うために、互いに会話や教義を養えるように準備された特別の空間と時間を意味していた。今の学校とはかなり違うイメージのものだったのです。   

しかし学校における「勉強」においては、人間/人格というものはほとんど問題にされなくなりました。事実の記憶、情報の理解、試験の合格ーそれが重要なものとなりました。       

全員ができる限り同じレベルに達することを目指し、データが本から頭の中に移行されることが称賛され、人格的なものは最小限度に抑えられるようなシステムが、日本だけでなくアメリカや世界でも起こりました。     

 そのような学校のシステムが発達した中で、私たちの社会ではそうした「勉強」から逃れることは中々できません。私たちはそうした「勉強」から生み出されてきた存在でもあります。

そういう条件のもとで獲得された私たちの「読む技術」が、なによりも「情報」という点に関心を向けることは、ある意味では当然と言えます。つまり、「事実はなにか」「役立つものはなにか」を読み取るように教育されているのです。そのページに記された言葉の背後にある生きた声の意味や内容を把握し、そのニュアンスを読み取るために、本を読むことを教えられてきたのではない。その結果、私たちは隠喩というものに我慢できず、その曖昧な表現にいらいらさせられるようになってしまいます。しかし、こうした「たとえ」という表現こそ、被造物の中でもっとも理解しがたい存在である、人間特有の表現方法であって、もっとも人間的で卓越した言葉の使い方なのです。     

 本来の意味での「読む」ということでは、そこには最初に何かを語った人物がいたのであり、次にその言葉が書き残されたために現在の私たちがそれを聞きとり、その人との関係にあずかることができるのです。             

 しかし、「学習」ではなく「勉強」の結びつきが非常に強いものとなった結果、私たちが何かを読む時には、ただ情報を探し求めることに慣らされてしまっています。

 もちろん、本は情報に接することができる容器です。しかし、言語の果たす第一義的な役割は情報を提供することではなく、関係を生み出すことにあるのです。文章として記された場合でもこの第一義的な役割は変わりません。

 本の第一義的な存在価値とは、読み手を書き手との関係にあずからせることにあります。そうすることで読み手である私たちが、書き手である人の物語に聞き入って、その中に自分自身を発見すること、共にその歌を歌い、その主張に対して共に論じ合い、その答えに質問を投げかける、ということが起こってくるのです。

 

 聖書はそのような意味での本です。      

 もし神様との人格的関係を抜きにしたまま、情報収集の道具として聖書を読むなら、私たちは聖書を誤って読んでいることになります。   

 今日の典型的な読む姿勢は、以前は新聞の読み方に現れ、今はネットニュースの読み方に表れています。読み終わるとそのニュースはもうどこに行ったかは分かりませんし関心も持ちません。グーテンベルクの発明以前にそうしたことはなかったでしょう。

 書かれたものはすべて、かつて生きていた人間の声の記録だったのであり、その声を読み手の耳の中で、再び生きたものとするための手段です。書き記された文字は、語られた言葉に近づくための手段です。この点をぜひ踏まえて、私たちが聖書を読むときには、聖書から神様の言葉を聞き、神様との関係にあずかりたい、あずからせてください、との祈りをもって読んでいただきたいと願っています。教会学校の学びも、このような世の中にあってこの学習を取り戻すために行われているように私には思えます。

 

 そこで今日の聖書箇所です。

1−2

 イエス様ご自身が新しい出発をされている。会堂で教えず、湖畔で教えられました。信仰の教えを、ユダヤ教の会堂の中から外へと移されました。

 イエス様は、新しい方法がいつ必要なのかご存じであり、その方法を用いるという冒険をしました。わたしたちの教会も、新しい方法がいつ必要なのかを見極め、実際に試していくような冒険をするなら、すばらしいことが起こっていくでしょう。

3〜8

 イエス様は例えで話されました。例えは天国の意味を持つ地上の物語です。天の御国の真理・真実を、私たちはこの世の例えの光の中でよりよく理解できるようにイエス様はしてくださったのです。

 イエス様は例えの天才です。イエス様が相手にしているのは、礼拝の終わりまで会堂にとどまる人々ではありませんでした。外の群衆はいつでも自由に立ち去ることができました。したがって大切なことは、群衆の興味を引き起こすことでした。

 また、イエス様が例えを用いられた時、ユダヤの教師や聴衆に馴染みの深かったものを用いられました。例えの最大の価値は、自分で意味を考えさせることです。例えは、その人自身に推理させ、その人のために真理を発見させてくれるのです。そして真理は、それが個人的な発見である時、その人自身が離そうとしない確かなものとなります。だから、真理がその人たちのものとなるような方法をイエス様は取られたのです。

 

3−9

 イエス様は船の中から話しながら、畑で忙しく種をまく種まきに目をとめられました。

イエス様は、「見なさい、種まきが種をまきに出て行った」と言われた。ものすごく即興的な物語です。例えの本質は、自然で即興的で、下準備や練習のないものだったのです。

 イエス様は群衆との接触点を求めながら周囲を見ました。種まきを見ると、その種まきがテキストになりました。

例えは、研究室の中で作られていないのです。注意深く考えられて磨き上げられて練習されたものではないのです。また、読まれるためではなく、「聞かせる」ためのものでした。例えはただ一度だけ聞かれるようなものです。そうすることで瞬間的に反応を引き起こすのです。細部の説明が大事なのではありません。「その物語を最初に聞いた時、どのような考えが心の中に閃いたか」が大事なのです。

 群衆はイエス様の教えや例えに驚きましたし、私たちもその教えに驚きます。

しかし、これらの例えをイエス様が準備せずに即興的に教えられたことを知ると、その驚きは100倍になります。

 そのように、もう一度この物語に耳を傾けてみましょう。イエス様が語られたことを思い起こしながら、私なりに語らせて頂きます。

「種を蒔く人がおった。種を蒔く人は種まきに出かけていった。種は4つあったがみんな別々のところに落ちた。一つ目の種は道ばたに落ちた。二つ目の種は土が覆っている石の上に落ちた。三つ目の種は茨の中に落ちた。さて、それぞれの種はどうなったか、見てみよう。

道ばたに落ちた種は、鳥が来て食べてしもうた。

土が覆っている石の上に落ちた種は、土が浅いのですぐに芽を出した。しかし根っこが張っていなかったので、太陽が昇るとすぐに焼けて枯れてしもうた。

 茨の中に落ちた種は、芽を出すには出した。しかし、茨が伸びて芽を覆ってしまったので、残念じゃが実を結ぶことはできんかった。

 最後に、良い土に落ちた種はどうなっただろうか。種は芽を出しすくすくと育ち実を結び、30個の実を結んだ種もあれば、60個や、なんと100個実を結んだ種もあったとさ。」

 

 イエス様はこの物語の詳細な説明を群衆にはしませんでした。詳細を語らないことに意味があったのです。勉強ではなく、学習するために。そして、真理を見つけたら離さないでいいようにするために。

 

 聞き、自分の中に響かせなさい、そして、種を蒔き、水をやり、成長を神に祈りなさい、と主イエス様は招いておられます。これはただの命令ではありません。「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエス様が招いてくださっているのです。自分の中に響いたら、その響きが私たちを動かしていきます。神様の言葉が私たちを動かしていくのです。私たちは神様の言葉を響く声として聞こうとしているでしょうか。

 根を張るのを邪魔する岩が自分の中にあれば取り除いていきましょう。誘惑や思い煩いという茨が自分の心を覆っているのであれば、その茨を焼き払っていただけるよう主に祈りましょう。皆さんお一人お一人の中にイエス様の言葉が響き渡るとき、この湘南台バプテスト教会が通常では考えられないほど大きな収穫、100倍の実を結ぶよい土地となっていくでしょう。そこに神様の御業があるのです。