目から耳へ」詩編40編

目から耳へ」詩編40

 

 私は、神学生時代の昨年に母教会を離れ、別府国際バプテスト教会に研修に行かせていただきました。研修を終えた時に、教会から一冊の本をいただきました。それは、『牧会者の神学』という本で、E.H.ピーターソンというアメリカの牧師が1993年に書いた本でした。30年前の本ですが、私がこれまで考えたこともなかったような信仰の大事な姿勢、そして牧師としての心構えが書かれていました。これを知らないで牧師になっていたら、と思うと、怖くなるほどで、研修をこのような形で導いて下さった神様と、別府国際バプテスト教会の兄弟姉妹に心から感謝しました。

 テーマはシンプルで、「祈り・聖書・霊的導き」という三つに絞られて書かれています。どのテーマも大事で、祈りについてもまた機会が与えられた時に触れたいですが、今月は、その中から聖書というテーマを取り上げ、私自身が一人の信仰者として大事にしたい、と気づかされたことを分かち合いたいと願っています。そして、このことは、湘南台バプテスト教会に連なるお一人お一人、長く聖書を読んでおられるクリスチャンの方から、聖書はどういう書物なんだろうと疑問に思っておられる求道中の方々まで、すべての方に知っていただきたいテーマです。

 ポイントは、「目」から「耳」へ、そして、「読む」から「聞く」へ、です。ご一緒に御言葉に聴いてまいりましょう。

 

 突然ですが、皆さんは、「聖書を読む」ことと「神様に聞く」ことは、同じことだと思うでしょうか。実はこれは同じことではありません。「聖書を読む」ことが必ずしも「神様に聞く」ことと等しいとは限らないのです。

しかし、この二つはたいてい同じだと考えられていることが多いです。私も長い間同じことだと思っていました。

 私たちは「神様の言葉を聞く」ことから「神様の言葉について読む」ことへ、それていくことのないようにしなければなりません。また、自らの耳を開かれた状態にしておくように努めなければなりません。

 イエス・キリストの福音を信じた最初のクリスチャンたちにとって、聖書への関心は、そこから神様の語りかけを「聞く」ということでした。聖書を道徳的な書物として分析対象にするためだったわけではありません。

 そこでは「聞く」という姿勢こそが一般的な習慣でした。一定の距離を取って目で「見る」ということではなく、自らの耳を傾けて関わるということでした。彼らにとっては、「冷静な書物の読み手」となることよりも、「熱心な言葉の聞き手」となることか大事なことでした。

 

 繰り返しになりますが、「聞くこと」と「読むこと」は同じことではありません。この二つはそれぞれ違う内容を含んでいます。私たちが聞くのは「声の響き」であり、読むのは紙の上に書かれた「記号」です。この違いは重要です。そこからは大きく異なった結果が生まれます。

 

「聞くこと」は人格と人格の間で交わされます。「聞くこと」は、二人あるいはそれ以上の人々を親密な関わり合いの中におく行為です。「聞く人」は「語る人」に集中することが求められ、「語る人」が主導権を握っています

 しかし、「読む人」の場合は事情が全く違います。本に対しては、「読む人」が主導権を握るからです。本は気分次第で開くことも閉じることもできます(聖書もそうです)。本を読んでいる時、本自体は、皆さんがその内容に注目しているかどうかを知りません。

 しかし、誰かの話を聞いている場合には、相手は、皆さんが注意を払っているかが分かります。

 

 読む時には私がそして皆さんが主導権を握ります。そして「読む」ことは自分一人だけでできます。しかし、「聞く」ことは語る人物があってこそ出来るのです。多くの人は、「聞く」ことよりも「読む」ことを選びます。自分の都合を優先することができるからです。

 誤解のないように言いますが、このことは読書を否定しているわけではありません。趣味が読書の方もおられると思います。私も本が好きですし、そのことが悪いことだとも思っていません。ただ、今回のチャレンジとして、読むことの本質は実は「聞く」ということなのだと知っていただきたいのです。

 

・実は読むということは聞くということ

 少し歴史の話になります。1437年に何があったか分かる方はおられますでしょうか?グーテンベルクと言う人が活字を発明し、活版印刷がされるようになった年です。それまでは本は手書きで書かれていたので高価なものでした。特に聖書は膨大な量なのでとても高価でした。本の盗難を防ぐために、聖書のような高価な本は、図書館の机に鎖で繋がれていました。

 そのような時代、聖書が読まれる時には、普段読めない多くの人が御言葉に接することができるように、いつでも大きな声で読まれました。

 このような背景のもとで、書かれた言葉というのは、生きた声としてよみがえったのです。

「読むこと」は声を出して読むという行為で、それは共同体の出来事でした。

聖アントニオは、イエス様が金持ちの青年に語った言葉が大きな声で朗読されているのを耳にした時、それはまさにイエス様がアントニオ自身に向かって語りかけている声を聞いたのだと信じたと言います。

 グーテンベルク以前の時代は、人々は自分で読むことがありませんでした。そのような時代、人々はたとえ自分が読み手となって、自分の声が響き渡っているような場合であっても、著者の言葉が再び声に出され、音声となったものを「聞いた」のだと信じたのでした。

しかし、グーテンベルクの発明によって、すべてが変わりました。

「読む/聞く」という習慣は、「言葉を聞く共同体」を作っていました。しかし、グーテンベルク以後、一人一人がそれぞれで本を黙読するという習慣に取って代わりました。

 読む行為は発達しましたが、これまでのような共同体の「口から耳へ」という出来事から、沈黙のうちになされる「目による」個人的な営みに変わってしまったのです。その時代から600年近く経った現代でもその影響は大きく、「読む」ことと「生きた声」との結びつきは薄くなっています。

 

 確かに自分で本を取り、情報を取捨選択できるということには大きなメリットもあります。しかし、情報過多になると(むしろそのような時代に私達は生きています)、自分で消化しきれるより多くの本を読んだり(私も積読が多いです)、より多くの映画を見たり、より多くの音楽を聞いたりするなら、暴飲暴食に似ていて、結果的に私たちの精神を養い育てることなく、むしろ私たちの精神を消耗させることになります。そのようにして読んだもの、見たもの、聞いたものは直ちに忘れ去られ、朝読んだ新聞以外やネットニュース以外には何もそのあとに残らない、というようなことが起きるのです。そのネットニュースすら、次の日には忘れられることがしばしばです。

 

 それらのことを考えると、グーテンベルクの発明には、大きな恵みと同時に、読むということを個人の営みに変え、処理できないほどの情報が氾濫することになった負の遺産の両面があると言わなければなりません。これは現代のインターネットにも同じことが言えます。いえ、むしろ、グーテンベルク以上に恵みと負の遺産の両方を残しています。私たちはその事実をまず受け止めた上で、どのように負の遺産に対抗していくのかを考え、実際に対抗していかなければなりません。

 

 ここが大事です。聖書に関わるときにあるのは常に「私たちと神様」の関係です。それはいつでも、神様の「響きわたる言葉」「語りかける言葉」のもとで、会衆がその声に耳を傾ける出来事です。

 この講壇が会衆席よりも高い部分にあるのも、言葉が聞きやすいようにというだけではなく、今お伝えした本質があります。すなわち、会衆は聖書という本をもの珍しそうに見下ろすのではなく、上からの神様の言葉をいただき、神様に従うという意味があります(決して説教者の、という意味ではありません)

 

 聖書の本文においても、書き言葉というよりも話し言葉が中心です。そのような

生きている声は、私たちを驚かせ、衝撃を与え、感動させ、喜ばせ、怒らせるような力を持っています。また、いまだかつて聞いたこともないような言葉へと近づかせる力を持っています。聖書から聞こえる神様の声はまさにそのような声です。

もし私たちが聖書を「読む」ということが、その「聞く」ということにまで到達していないなら、聖書の本来の意味は損なわれている、ということになるのです。

 

 この「聞く」ということに特に注目しつつ、本日の御言葉に聞いてまいりましょう。

詩編40編1-12節までは、神様の救いを喜び褒め歌う「賛歌」(1-12)です。この「賛歌」が13-18節までの「救いを求める祈り」に先立っています。「救いを求める祈り」についてはまた次回神様に聞いてまいりたいと思います。                             

 

特に注目したいのは7節です。その手前までを見て(主に聞いて)まいりましょう。                                

2-5

2節では、まず主が「耳を傾けて叫びを聞いてくださった」とあります。ここまで神様の声を聞くことが大事であることを強調してきましたが、私たちが聞くより先に、主は私たちの声・叫びを聞いて下さるお方です。3節では、詩人は死に瀕するような災いにあいました。底なし沼にはまって抜け出せないような思いをした方がこの中にはおられるかもしれません。しかし、主はその人を救い出し、もう沼にはまることはない固い岩の上に立たせてくださったのです。その救いが4節の「新しい歌」のテーマでした。詩人は続けて、5節で、「幸いなるかな」という言葉で新しい歌を歌い続け、主のしてくださったことを証しし続けています。私を助けて下さるのは主なる神様のみ、ラハブ(高ぶる者や異教の神々)ではない、という宣言をしています。そして6節まで、詩人は、自分が救われたことを、主がその民を守られるためになさった数えきれないほどの御業の一つとして見ているのです。

 

7節      

 しかし、ここで困難な節に出会います。通常、人が、公に感謝の儀式のために神殿に来た場合、      その祭儀には、救いを賛美する歌と共に、感謝の捧げものが含まれるのが当たり前でした。

実際に、「神よ、あなたに誓ったとおり 感謝の捧げものをささげます。」ー詩編56:13とも歌われています。

 しかし、7節で驚くべきことが起こります。詩人は、主がいかなるいけにえも捧げものも望まれず、求めなかったと、歌っているのです!代わりに何をしてくださったことで賛美しているのでしょうか。今日のテーマです。                                                  

 主が主の御言葉を聞く耳をお与えになったから、賛美をしているのです。

                                                       

8-11

 もし、いけにえを携えて来なかったら、何がその代わりとなったのでしょうか?詩人は神殿に、彼を襲った災い、彼の祈り、災いからの救出、そして、救って下さった主への賛美について書かれた巻物を携えてきたのだと理解できます。巻物に書かれた内容は2-7節そのままだと思います。そしてその巻物が神殿で、主についての証しと賛美として朗読され、生きた声として響き渡ることで、共同体が主を賛美するために納められたのだろうと思います。

 そしてこの巻物と一緒に、詩人は、彼自身ー神の御旨を行うことを望み、胸にその教えが刻みつけられている自分自身を携えてきました。                                         

 詩人は、主が望まれることを望み、み旨を行いたいと願う自分を差し出しています。         

これは、決して自分を誇っているのではなく、神様の救いに対する賛美の捧げものです。そして、救いによってもたらされた自分自身の変化を告白するものです。人の望みと思いが神様の御旨にかなう時、いけにえと歌という賛美が、その人の歩みそのものとなるのです。

 

 このような変化が起こったのは、7節の耳を開いて下さった主がいたからです。この7節の「開く」というのは、実は「掘る」という意味があります。文字通りには、「あなたが私の耳を掘り抜いてくださった」ということです。            私たちの耳も、色々な雑音、本当に大事ではないことでの議論、噂話、わだかまり、不安、心配、そういったものでふさがれていて、神様が語ることを聞きとれない時があるのです。しかし主は、そのようにがらくたでごちゃごちゃになった私たちの聞く耳を、再び掘り返してくださるお方なのです。

 主に語って頂くことを求め、新たに聞く耳を掘ってもらった人には、聖書を通して語る神様の声が、「呼びかけ」あるいは「招き」として聞こえてきます。詩人はその招きに応えて神様のことを喜び、歌い、良い知らせ(10節)・福音を語っていったのです。

 

 最後に、重要なことがあります。「へブライ人への手紙」10章5~7節が、この詩編40編7-9節を、イエス様の言葉として引用しています。イエス様がこの世に来られたことと十字架での死は、父なる神様の御旨に完全に従ったことだったとヘブライ人への手紙の著者は理解しました。そのキリスト者たちにとって、7-9節は、イエス様のことを考えずには読むことができなかったのです。いや、むしろ、この節をイエス様の祈りの言葉として当時のクリスチャンたちは聞いていったのです。

 あらゆる儀式に必要であった焼き尽くす捧げものや穀物の捧げものという犠牲に代わるものとなって下さったのが、私たちの罪のために十字架にかかったイエス様です。イエス様は、その3日後に復活され、終わりではないいのちがあることを愛をもって示してくださいました。

 聖書に「聞く」ということは、聖書を「読む」ことを確かに前提としています。しかし、聞く意志のないまま、読むことはできません。イエス様の十字架の出来事が、常に響く神様の言葉として、「あなたを愛しているよ」という神様の声として、皆さんの耳の中に響いていきますように。