「涙と共に種を蒔く者は」 詩編126編

「涙と共に種を蒔く者は」 詩編126

 

 

 私の恩師で今は召された鬼塚諌先生(前北九州キリスト教会協力牧師)が、私に沢山の本を下さいました。その中の1冊に、『あなたの一章、かけがえのない一生』があります。伊藤順造先生が書かれた本で、お医者さんであり、医療に携わりながら医療伝道にも従事し、牧師としても仕えてこられた方です。

 お医者さんとして仕えてこられる中で出会った様々な患者さんに、医者として治療し、病室での礼拝を通して主イエス・キリストの福音を伝えていった方でした。私が知らないだけで、病の中で様々な方が苦しまれているのだということを知らされました。と同時に、その中にあってイエス・キリストを救い主と信じて病を生きた方の人生が、いかに感動的な人生であるかを知らされました。本は月ごとにテーマが分かれているため、その本を1か月に1度参考にしつつ、御言葉に聴いていきたいと願っていました。

 そのように計画をしたのが9月の終わり頃でした。そしてその時に今日の御言葉である詩編126編と宣教題を考えていました。

 時が来て、10月21日、私たちの教会で3度にわたり賛美とメッセージを届けて下さった伊藤真知子先生(百合丘キリスト教会音楽主事)が天に召されました。伊藤先生の書かれた『今日も生かされて~詩編の贈り物~一日一編』も側に置いて御言葉に聴いていく時を与えられました。

 不思議なことに、伊藤順三先生と伊藤真知子先生(苗字は同じですがつながりはありません)を通して教えられたことには共通していることがあります。そのことも共に聞いてまいりたいと思います。

 

 今日一緒に読んだ詩編126編は、タイトルに『都に上る歌』とつけられています。120編から130編までが『都に上る歌』として編集されています。

 これらの歌は、毎年エルサレムで行われる三大祭り(仮庵の祭り、五旬節、過越しの祭り)へと向かう旅の時に読まれたと言われています。申命記16章16節には「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週際、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。」とあります。上るというのはエルサレムに向かう、ことを指して「上る」のです。この『都上りの歌』は、その祭りに向かう旅の途中、もしくは祭りの間行われる行進の中で歌われるために編集された、と言われています。

 120~134編には幾つかの特徴があります。まず、通常の詩編に比べると短い詩になっています。巡礼の旅や更新の時に何度も繰り返して歌いやすくするためでしょうか。また、エルサレム、シオン、イスラエルという名称が沢山出てきます。126編では、神様の臨在の場を表すシオンが出てきます。シオンは元々エルサレムの町の要塞の名前であり、その後エルサレムやエルサレムに建てられた神殿を指すようになりました。

 

 126編はその都上りの歌の7番目に位置する詩です。この歌は、シオン(エルサレムや神殿)の復興を思い起こし、主の民の回復を求めてエルサレムにやってきた巡礼者たちの声です。

繰り返し出てくる言葉が特徴的な詩です。

 1節と4節には「捕らわれ人を連れ帰る」という同じ言葉が出てきます。「捕らわれ人を連れ帰る」とは、元々の意味は、罪ある人の上にある神様の怒りから、神様の恵みと憐みが与えられる状態への急激な変化を表しました。神様と民とのあるべき状態が回復する、ということです。しかし、捕らわれ人という訳はバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻ってくる民をも連想させますし、この歌がどの時代に作られたのかは定かではありませんが、きっとその捕囚からの解放の意味も捕囚の民が歌う時には加えられていったのだと思います。

 

 また、2節と3節には「大きな業を成し遂げられた」と繰り返されます。なお、3節は、共同訳では願いを表す命令形で訳されていますが、新しい協会共同訳では、「主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。/私たちは喜んだ」と、実現された約束として訳されています。様々な聖書の訳を見ても、「成し遂げられた」と訳されているので、共同訳もそちらに合わせたと思われます。

そして、「喜びの歌」は2節・5節・6節と3回出てきます。喜び祝う・笑いという言葉も含めると、この短い6節の間に5回出てきます。この歌全体に喜びの調べが響いているのを感じさせます。

 この歌は、喜びの歌です。主が成し遂げられたことへの喜びと、これから起こしてくださる喜びについての歌です。その両方の喜びにおいて、喜ばしいのは主のみ業です。最初の喜びは、1節で語られるシオンの復興、これは当時のエルサレム神殿を再び建てることも含めて与えられた喜びだと思います。そして2節以降で語られる、この歌を歌う民の回復を通して与えられる喜びです。

 

 イスラエルに喜びをもたらしたもの、様々な国の注目の的となったシオンの復興は主の大いなるみ業です。それらは、聖書教育でも読んでいるイザヤ書40-55章における預言と響き合うものです。

そして、シオンの回復、神の臨在の場所が完全なものとなるには、民の回復が必要なのです。4節にはネゲブという場所が出てきます。エルサレムの南には今もネゲブ砂漠があります。そこは雨が降らず乾いた砂漠ですが、雨の降る季節だけは人が渡れないほどの川になるそうです。その、季節ごとにネゲブの乾いた水路を水の流れるところとするような、果てしなく繰り返される再生・復興のリズムを民は必要としているのです。

5-6節を見てみましょう。種をまく人は旅に出る巡礼者を、束ねた穂を背負ってくる人は巡礼者の回復したシオンへの帰還を想像させます。

また、この詩は刈り入れと収穫について述べられているため、収穫感謝の日に合わせてこれまでも読まれてきました。この時期に思い起こすのにふさわしい詩と言えます。

この詩編が最初に読まれた時を経て、イエス様の十字架と復活を頂いた時代を私たちは生きています。したがって、この詩は、教会を再生(回復)し、教会を通して救いという回復を人々に起こしてくださる神様のみ業に感謝し、またそのみ業を一人一人が求めるべきことを教えています。

 

 このようにシオンとその民の回復を歌った詩ですが、捕囚の民が解放されてエルサレムに帰還し、神殿を再び建てていくことを思う時、この詩は「どんでん返しの歌」と言うことができます。

 少し本に触れさせていただきますが、「人は生きてきたように死ぬ」と耳にすることが先生はあったそうです。日本に深く根付いている因果応報の人生観であり、違和感はないかもしれません。しかし、問題は、「人は、必ずしも生きてきたように死ぬわけではない」ケースが少なからずあるということでした。『何で、こんなに一生懸命生きてきた私がガンで、あんないいかげんな生き方をしている人が大丈夫なんですか』と、違和感を払しょくできない死も多いのです。

 しかし、生きていたように死んだとしても、生きてきたように死ぬわけではなかったとしても、大切なのは、収穫の時があるということです。『因果応報から離れた所で、人生には刈り取りがある』というメッセージがホスピスケアの現場にはあるそうです。

 その刈り取ってほしいものは、「きずなの回復」そして「魂の永続性」だと伊藤先生は言います。

 

 「きずなの回復」ということについて、伴侶がガンの末期を迎えた夫婦で、ホスピスケアがまっとうできた方々が共通して語られる言葉があるそうです。「結婚して数十年、この数カ月が、一番会話がありました。」

日本人男性は特に、いちいち話さなくても分かるでしょうと考えるので会話が成り立たないと言うのです。

56歳で大腸がんの再発で召された方は召される3日前に酸素マスクごしにこう言ったそうです。「先生。こんなになりました。でも、今、夫婦にとって一番よいときが与えられているんです。すれ違いが多く、会話の時も少なく、向き合うことも少なかったからです。

今、こんなに病室で夫と会話しています。」この方にとって、召されるまでの病室での1か月は、夫ととことん向き合った、いわば人生の金メダルのような時だった、と結んでいます。

 伴侶をガンで失う人と突然の事故や災害で愛する人を失う場合とでは、決定的に違うことがあります。それは、「短いながらも時がある」ということです。

その短いときの中で、「一番会話があった」「一番濃密な時だった」それは、ある意味で、ガンがもたらした「どんでん返し」ではないでしょうか。そして、夫婦にとっての大切な収穫の時なのかもしれません。 伊藤真知子先生も、『今日も生かされて』~詩編の贈り物~の終わりにこのように書いています。「歩くことも困難な、二人だけの生活。お互いを見つめ合うことなんて、結婚43年で初めてな気がする。それぞれの弱さの中で、見守り合う生活。こんなの初めてだ。ホンモノノシアワセ。『人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい』ルカ6:31

主よ、このようなことを実践できますことを、感謝します。」

伊藤真知子先生から旦那様に送られた言葉が告別式で紹介されました。「喪失感が強いということは、その生活が幸せだったということ。」

 ここにも「どんでん返しの歌」が歌われています。

 愛情のこもったことばは互いにいつでも必要です。まずは歯の浮くようなことばを一つ!それが、笑いがこぼれ落ちる第一歩になります。一言でもいいので、巻頭言の下に書いて見てください。その際は箴言も参考に!

「有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を」ー箴言31:10

「僕は宝石よりもさらにすばらしいものを持っている。それが君だ!」

「有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる」ー箴言31:29

「いろんなことができる女性が世の中にはいるかもしれない。でも、君はそのすべての人の中で一番だ!」等。

そして自分の大切な人に伝えてあげて下さい。伝えるのが難しい方は、そっと見せてあげるだけでもよいでしょう。

 

 「たましいの永続性」については、新約聖書に出てくる、ラザロの死に対するイエス様の言葉を聞いてましょう。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の栄光がそれによって栄光を受けるのである」ーヨハネ11:4

イエス様の言葉は、病気には、たましいの永続性に目を開かせる大切な役割があることを示しています。それまでの生き方のツケを払うという形での病気ばかりではないのです。違和感を覚える死に直面した時、刈り取ってほしいものが、「たましいの永続性」なのです。

 伊藤真知子先生の告別式の式次第には、真知子先生が書かれた詩が載っていました。その詩はまさに「たましいの永続性」を高らかに歌っていました。

 

「サヨナラノムコウ」    

「サヨナラ...」 

最後の言葉ではないよ。

「サヨナラノムコウ」には、「永遠の命」が続くから        

そこでは、みんなにまた会えるのです。  

だから、わたしは待ってるよ       

「サヨナラノムコウ」で…          

イトウマチ子    

 

 真知子先生はきっとガンという病の中で葛藤もあったことだと思います。しかし、自分の人生は神様のもので、最後まで賛美を通して神様の愛を伝えることが自分の使命だ、という結論に達したと言います。その姿を一番よく知っているのが私たち湘南台バプテスト教会ではないでしょうか。

 真知子先生のお顔には最後に一筋の涙がつたったそうです。穏やかな、幸せそうな顔だった。感謝の涙だと思った、とご主人は話されていました。

「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。

 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」

 私は真知子先生の生き方を通して、この御言葉が真実であることを確信しています。

 

 真知子先生の涙を通して刈り入れられた収穫・束ねた穂の一束は、きっと、どんな時でも主を喜び賛美することを教えて頂いた私たちです。

 労苦の涙は、感謝と喜びの涙に変わります。その生き方が、イエス・キリストの福音を知った人に許されています。 

 

 皆さん、涙と労苦の中で種を蒔いているように感じる時があるとしても、喜びの歌と共に収穫の時を迎え、心から安心するところに帰っていくことができます。その場所・そのお方は、イエス・キリストです。このお方を信じ、従って生きていく決断が与えられますように。