「主が与えられた安息日(2)」詩編92編
今日も賛美の歌をささげて始めます。前回賛美した「主をたたえよ(10,000の理由)」という曲です。パワーポイントに歌詞が出ますので、ぜひ共に賛美していきましょう。
この曲は、詩編92編をもとに作られたのではないかと私は感じています。前半の朝と夜に賛美をささげるというところから、歳を重ねてもなお主の恵みを思い讃美の歌をささげ続けていくという後半までが詩編92編の賛美に重なっていくように思うのです。
本日も、前回の主日で聞いた詩編92編から神様の言葉に聞いて参りましょう。前回は、安息日の定められた2つの理由を見てまいりました。安息日は神様が休むように定められた日です。その理由の一つ目としては、この世界を創造した神様ご自身が6日の間働かれ、7日目に休まれたことにあります。その休まれた神様が命じているのだから、私たちも休まなければならないということです。「働く/休む」というリズムを神様ご自身が作ってくださっていることは私たちにとって恵みでもあります。なにかを「する」(行為)ことをやめ、ただ「ある」(存在する)ということ自体が神聖な出来事なのだ、ということをまず覚えたいと思います。
二つ目の理由としては奴隷であった民への配慮として神様が定めて下さったというものです。エジプトの民が400年間休むことなく働かされたことに由来します。機械ではなく、人間として大切にされるために、安息日は定められています。何かができるからではなく、その人が今ここに神様によって生かされているのを覚えることが、安息日が定められている意味です。
さらに、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかり、しかし、死に打ち勝ち復活されたのが日曜日です。安息日の日曜日ごとに、イエス様が十字架に架からなければならなかったほどの私たちの罪を見つめ、悔い改めの心を起こされ、その罪を赦してくださった神様の愛を知り、死に勝利されたイエス様に感謝して讃美をささげる時です。
そして、安息日には、「祈りと遊び」という二つのことを神様は含むようにしてくださっています。「祈りと遊び」は互いに一致する部分を持ち、深く関係していることを共に覚えたいと思います。後ろにレンブラントの絵を貼ってあります。ぜひ礼拝が終わったらまた見てください。改めて、イエス様の言葉を熱心に聞く人と駒遊びをする子どもが一体となって礼拝がささげられている、ということを心にとどめたいと思います。
詩編92編では「祈りと遊び」が結びついていることを、3つの隠れた例えによって教えてくれています。前回は第一の例えをご一緒に見ました。それは音楽でした。感謝をささげるという「祈り」が、十弦の琴、琴の音色に合わせて歌という一種の「遊び」に合わせて為される、しかも安息日に。言葉だけではなく、音やリズムや様々な経験を私たちは吸収していきます。その中のメロディやハーモニーという「遊び」は、ただ聞いていてい気持ちいいものというだけではなく、その美しさや調和を保とうという試みの中に、自分の境界線を超えて神様に近づきたいという「祈り」があるのだと思います。そして私たちが歌うのは、神様の創造と救いの御業の大きさと深さです。
今日はもう二つの例えを見ていきたいと思います。
第二の隠喩:動物
詩編92:11にはこうあります。
「あなたは私の角を野牛のように上げさせ、豊かな油を注いでくださることでしょう。」
豊かな油とは、新鮮で新しい油という意味です。宴がある時には、ゲストは香りのよい油を塗ってもらうことでもてなしてもらいました。その香りによって嬉しく楽しく、元気づけられて宴に参加したのです。
祈ることと遊ぶことは、野生の雄牛の様子に似ています。また、ここでは野牛、雄牛が挙げられていますが、野生の動物が自由を謳歌している様子、自分らしく造られていることを喜んで駆け回る様子を表しています。私たちはそのような様子をテレビや実際にこの目で見ることがあります。孔雀が羽を広げている様子、馬が凛々しく走っている様子、ここで書かれているように野牛が角を上げて雄々しく立っている様子、鷹が優雅に空を飛ぶ様子。湘南台に来て驚いたのは、夕方ごろ鳥の大群が一斉に声を上げて合唱しながら飛んでいる様子を見たことです。渡り鳥でしょうか。お母さんと一緒に歩いている子どももその様子を見て歓声を挙げていたのが印象的でした。そのように、動物たちがその自然の環境の中でそれぞれの「らしさ」を発揮しながら生きている姿を目にすることは、私たちにとって喜びでもあります。
祈ることと遊ぶことは、そうした様子に似ています。つまり、それは「飼いならされていない」のです。
祈ることと遊ぶことにおいて、私たちは様々な見せかけや仮面を脱ぎ捨てます。そこでは、私たちは強い自意識、「自分が自分が」という思いからも解放されていきます。そこでは私たちがあるがままの存在となっていきます。
祈るのは全地を造られた神様に対してです。私たちがいくら取り繕って自分を隠して祈ろうとしても神様はご存じです。私たちはそのままの自分をさらして祈るしかない。その中で罪の告白も赦しも恵みも頂くことができるのです。
また、私たちが遊ぶ時、本当に心から遊ぶ時には開放感があるはずです。自分の凝り固まった思いやふさぎ込んだ思いからの解放を経験するのです。この遊びもまた、子どもが飛び跳ねる中にその本質を見た人がいました。本当に「飛び跳ねる」ためには、地面を(飛び箱を飛ぶための踏み台のような)跳躍版のように利用する方法を知らなければなりません。それと同時に、しなやかで安全な着地の仕方を学ばなければなりません。それらを子どもは試しているのです。それは自分に与えられた限界を知り、どこまでが自分に許されている範囲であるのか試すことを意味します。この「真の遊び」があるところでは、単純な反復や習慣を超える予想もしないような新しい経験が起こります。 私たちが神様に捧げる、「祈りと遊び」に満ちた礼拝も、単純な反復や習慣を超えて、神様との新しい出会い、そこから起こる隣人との新しい出会いが常に起こされていくのです。
第三の隠喩:森林
祈り、遊ぶ人の姿が13節から16節に描かれています。
13節「神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。」
ナツメヤシは優美(上品な美しさ)と勝利、祝福の象徴と言われています。余談ですが、ナツメヤシの果実は「デーツ」と呼ばれています。偶然、先週の日曜日の湘南台祭りに行った時に販売しており私も食べました。砂糖を使っていないのにとても甘く、疲れが和らぐのを感じました。実際に高い栄養価を持ち、乾燥させれば長期の保存も利くので地元の方に重宝されています。貧血、疲労、不眠の解消や老化防止にも効果を発揮するのだそうです。
レバノン杉は、樹齢3000年と言われ、高さは30mに達するものもあるそうです。レバノン杉は、栄光や富を象徴しています。エゼキエル書31:6には、レバノン杉についてこのように預言されています。「その枝葉に空のすべての鳥が、巣をつくり、その枝の下に野のすべての獣は子を生み、その陰にもろもろの国民は住む」。様々な鳥や動物がそして様々な人が、神様の元で共に生きることができるのです。そのレバノン杉のように、神様に従う人お一人お一人がそびえるのです。
14節「主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。」
悪がはびこり茂って花を割かせているように見えても、最終的に悪は滅ぼされ、そびえることはありません。神様に従う人を、神様ご自身が御自身の家に植えて下さいます。そして、神様の庭で勝利と上品な美しさの象徴であるナツメヤシのように茂らせ、一人一人が一緒に生きることができるようつないでいくレバノン杉のようにそびえ立たせて下さるのです。
15~16節「白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。
何と励まされる言葉でしょうか。ここには、「祈り遊ぶ人」が、年齢と共に成長し成熟する姿があります。けっして衰えることがないのです。「祈りと遊び」は、私たちに生命を注ぎ込み、疲れを和らげてくれます。そして私たちを新たに作り変えてくれます。決して私たちをすり減らすものではないのです。礼拝をささげ主日を過ごした後の心地よい疲れというのはあると思います。しかし、重荷だけを感じる、イエス様が半分負って下さっているのではない重荷を感じて疲れ果ててしまう主日であるとしたら、それは神様が与えて下さった安息日を満たしていないことになります。その場合は、遊びと祈りの場を回復することで、主の家に植えられ、神様の庭に茂っていくことを求めていく必要があります。その安息日となるように仕えていくことが、私の使命です。
この詩編は、神に従う人と神に逆らう人の対比として書かれています。神に逆らう者が「野の草のように茂り」悪を行う者が「花を咲かせるように見える」ことを詩人も知っています。しかし、詩人は顔を上げ、祈りと遊びをもって安息日を守ろうとします。荒廃したこの世の現状を十分にわきまえています。しかし、なお、その中で私たちは安息日を守り、安息日の中で「祈り、遊ぶ」存在です。それはこの詩人が、そして私たちが、自分のことだけを考えていて、軽薄だから、ではないのです。祈りと遊びという二つの行為が、わたしたちだけではなく、打ちのめされたこの世界に対する神様の意志であると確信しているからなのです。
安息日は、何かためになることを行う日のことではありません。この日を「何かのために使う」のではなく、ただ「神様からいただいた命を生きている」ことを確認するために取っておくこと、聖別することです。一定の間隔をおいて私たちは、自分のわざをやめて神様のわざを見つめ、神様に聞くことが必要です。神様は私たちのこうした必要を知っておられ、祈るため、遊ぶため、神様の臨在、神様が今共におられることを喜ぶための一日を備えて下さいました。安息日を守るとは、根本的には、「私たちが何かをする」ことではなく、「私たちが何もしない」ことだからです。
しかし、その中で、私たちが休む中にイエス様は働いて下さっています。イエス様は言われました、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(マルコ3:4)と。善を行い命を救うイエス様の御業は、私たちが「祈りと遊び」に満ちた安息日を守る時にも行われています。この安息日を守るということを実践していく中で、静かに、しかし徐々に確実に私たちの中に変化が生まれてくるでしょう。私たちは、イエス様が私たち一人一人と共に歩いて下さっていることを悟るのです。
この安息日を土台として、これからも湘南台バプテスト教会で主を礼拝していきましょう。
イエス・キリストを自分の救い主と告白していない方がおられたら、今日の御言葉をぜひ覚えて頂きたいと思います。日曜日が与えられているのは、神様が皆さんを愛している証しです。私たち一人一人に罪があります。しかしその罪を赦してくださったイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは日曜日をこのように喜んで礼拝をささげているのです。そのことをぜひ覚えて頂ければと思います。そしてその生き方は、神様が救って下さる生き方で、詩編で読んだように、「年が経っても、命にあふれ、生き生きと」し続ける生き方になるでしょう。イエス様に従う決心が起こされますように。