「主が与えられた安息日」編92編

「主が与えられた安息日」編92

 まず賛美の歌をささげます。今日私たちが聞いていく詩編92編をもとに作られたのではないかと思う讃美の曲です。「主をたたえよ(10,000の理由)」という曲です。

 

 このように私は歌と音楽が大好きです。7歳の頃にピアノを習わせてほしいと自分から言ったようですし(記憶にはありませんが)、13歳でギターを始め、14歳の時の少年少女会という中学高校生の会(神奈川地方連合の「からし種の会」に当たります)で沢山の賛美をしたことで「神様の家族って素晴らしい!」と実感したことも、クリスチャンになる大きな後押しとなりました。その後もエレキギター、ピアノ、バイオリン、ベースなど、様々な楽器を弾くのと、それらを使って神様を賛美するのが好きでここまで来ています。また、6年間ほどギターとピアノ教室を開き、教会を会場にお借りして様々な生徒さんに触れてきました。生徒さんと共にギターやピアノを弾き、彼らの「できた!」という言葉や表情を見ることができたのは私にとって喜びでした。ギター&ピアノ教室では、毎年発表会を行い、その最後には1曲賛美歌を全員ギターで演奏していました。

 しかし、なぜ自分はこんなに歌・音楽・賛美が好きなのだろう、と考えたことがあります。そして、それは神様の目にどのように移るのか、よく映っているのか悪く映っているのか、分からずに悩んだことがありました。実際に、歌を歌ったり楽器を弾いたりハレルヤと言っていたからといって世界の貧困がなくなるわけではない、それよりも外に出て助けが必要な人に手を差し伸べる方がよっぽど大事だ、という批判を聞いたこともあります。

 

 そこで私が出会ったのが今日の御言葉です。「安息日に」という特別なタイトルがついていますがそのような箇所は、実はこの詩編92編しかありません。ということは、安息日に神様が求めていることがこの詩編を読むと分かるのではないかと思いました。そして読み理解するにつれ、この箇所は湘南台バプテスト教会の土台になっており、これからもさらに固い土台となっていく神様からのメッセージだと感じるようになりました。

 

 安息日にというタイトルがついていますが、安息日とは何なのか、ということについて見ていきましょう。

 安息日とは、神様が休むようにと定められた日です。その理由は2つあります。

(1)神様ご自身が休まれたから

 出エジプト記20:8-11には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」とあります。

 神様が六日の間世界を創造するために働き、一日を休みの日として取り分けられたのだから、人間もまたそれにならうべきだ、ということです。「働く/休む」というリズムは、神ご自身が創造された世界と関わり合う中で生み出されたものです。ここで大事なのは、11節に「主は安息日を祝福して聖別された」とあるように、なにかを「する」(行為)ことを止めて、ただ「ある」(存在する)ということ自体が神聖な出来事なのだということです。

(2)神様が配慮してくださったから

 申命記5:15には、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」とあります。

 エジプトでイスラエルの祖先たちが、400年間を一日の休みもなく働かされました。そこでは一日たりとも休みがありませんでした。その結果、もはや人々は人格を持った人間ではなく、奴隷とみなされるようになりました。彼らはピラミッドを建設するための機械にされました。人間性は拭い去られました。だから、誰に対しても、そのような人間性の否定が起きないようにするために、安息日を守ることが命じられています。

 その人が「いる」ことよりも、その人が何を「する」ことができるかによって他の人を眺めはじめる時、私たちは人間性を切り捨て、共同体を破壊することになります。

 また、自分で意図していなかったとしても私たちが仕事をするなら、そこに他の人を巻き込んでいくことになります。牧師も毎日仕事をしていたら皆さんを無意識的にも巻き込んでしまうことになり、教会にとっても健全ではなくなってしまう為、意識して休息を取る必要があると考えています。

 

 いずれにしても、安息日とは、その人が存在することそれ自体を見つめ、その人の中に存在する神様の似姿、イエス様の似姿を覚えるためにあります。そして、世界と私たちを創造して下さった主をほめたたえ、イエス様の十字架の贖いのわざを思い起こし、分かち合う日が安息日なのです。

 このことが詩編で詩人が歌っている、御手の業、御業、御計らいなのです(6節)。神様の創造の業とイエス様の十字架の贖いの業なのです。

 

 この日は決定的に大事です。先ほど、賛美する時間があるなら外に出て行って困っている人を助けたほうがよい、という批判があるとお伝えしましたが、助けを求める叫びの数は、私たちがその叫びに答えることができる能力を常に超えています。そのような状況があるからこそ、神様は安息日を守った方がよいではなく、「命じられた」のです。神様が命じる命令以外に、「休みのない運動サイクル」が加速していくのを止める力はないからです。その運動サイクルが続けば、結局は「何かができる」という生産性で人が見られていきます。イスラエルの民が奴隷として休みなく働かされたように。

 もちろん、日曜日に働いておられる方がいるからこそ、成り立っていることが確かにあります。インフラの面においても医療・福祉の面においてもです。その方々にとっては、別の日・別の時間が、神様の与えてくださる安息日となることを願っています。いずれにせよ、私たちは、神様によって「ある・存在する」ということを確認することが必要であり、神様が命令によって求めて下さっているのです。

 

 そこで、今日の詩編です。詩編92編は、聖書の中でも安息日との結びつきが特に深い詩編です。安息日になされることを見ると「祈りと遊び praying and playing」という2つのことが見えてきます。「遊び」と聞くとどのようなイメージを持たれるでしょうか。不真面目な印象を持たれる方もいるかもしれませんが、この神様が与えて下さった休息の中に、この遊びも含まれているのです。身体を休めるだけが安息ではなく、身体を動かすことも安息となります。

 「祈りと遊び」は、その深い部分で互いに一致するものを持ち、深くかかわっています。宗教改革者の一人カルヴァンも、安息日を「祈りと遊び」で満たしていた、と言われています。カルヴァンは午前中は会衆を祈りに導き、午後はジュネーブ市民に交じって九柱戯(現在のボウリング)を楽しんでいたと言われています。

 この「祈りと遊び」を、大人と言われる年代の方々が結びつけるのは簡単ではありません。しかし、子ども達はいつでもこの二つのことを行っています。レンブラント(1606-1669。オランダのバロック絵画を代表する一人)の絵にも、イエス様の話を熱心に聞く大人とその横で駒遊びをしている子どもの絵があります。この絵は、「遊ぶこと」と「祈ること」が私たちの考えるような二つの全く異なる異質な習慣ではないことを示しています。

 

 この「祈りと遊び」が互いに関連し合っているということを、詩編92編は三つの隠喩によって示し、安息日を守ることの意味を教えてくれようとしています。

 

第一の隠喩 音楽

 2節には、安息日に求められる二つの行為が並べて書かれています。すなわち、「感謝をささげること」と「御名をほめ歌うこと」です。感謝をささげることは「祈り」であり、「歌う」ことは「遊び(活動)」です。そしてそれを詩人は「楽しい」と言って喜んでいます。

 1〜5節まで読みましょう。

【賛歌。歌。安息日に。】

いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い

朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは

十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。

主よ、あなたは 御業を喜び祝わせてくださいます。 わたしは御手の業を喜び歌います。

 

 私たちの肉体と霊は、言葉だけでなく、音やリズム、そして生き生きとした経験を吸収してくれます。そして、音楽や歌は私たちの内にあるものを深めてくれます。今日も私たちは賛美を歌い、特別賛美では美しいハーモニーを聖歌隊が聞かせてくださいました。メロディとハーモニーは、私たちが自分の中に日常持っているつぶやきやうめきという境界線の外側に私たちを引き出してくれます。また、私たちを自我の囲いの中に閉じ込めようとする不平不満や欲求などといった境界線の外側に、メロディとハーモニーは引き出してくれるのです。

 

 祈ることと遊ぶことは、喜びと訓練が結びついている音楽家の技術に似ています。すぐれた演奏を聴いていると、音楽は簡単なものであるような錯覚を覚えます。しかし、そうした自然な演奏の背後には、多くの練習と訓練があります。しかし、音楽家にとって、その訓練は骨の折れる大変なものではありますが、煩わしいものではありません。私の経験としても、コンサートで弾く讃美歌やオリジナル曲を練習することは、コンサートで祈りながら弾くための準備でした。この練習と喜びの歌や祈りは、「自分が自分が」という自我の境界線を越えて、神様への感謝へと導いてくれる手段の一つです。そして私たちが自分自身を越えていく時には、私たちはより神様に近いところにいるのです。

 

 詩編のほとんどすべてが、音楽の演奏つきで歌われていたと言われています。ここからも、私たちが喜び感謝をもって主を賛美し歌っていくことを、主は求めて下さっている、そうしていいのだ、ということが分かります。そして、私たちが歌う根拠は、私たちの側にあるのではなく、主が働きこの世界を創ってくださったからということを覚えたいと思います。そして、私達が歌う理由は、私たちの罪を赦すためにイエス・キリストをこの世に送ってくださった神様の愛の御業が、計り知れないほど大きく深いからだということを、今日共に覚えたいと思います。

 

「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは」

「主よ、御業はいかに大きく 御計らいはいかに深いことでしょう。」

 

 私たちが何かを「する」日ではなく、私たちが神様によって「ある」ことをお互いに感謝しつつ覚えて。