「収穫の主に期待して」 マタイによる福音書9章35~38節

「収穫の主に期待して」

マタイによる福音書93538

 

 ついにこの日を迎えることができました。本日より湘南台バプテスト教会の牧師として仕えてまいります。この日を迎えることができたのも導いてくださった神様と、祈りをもって迎えてくださった湘南台バプテスト教会の皆様がいたからこそです。これまで色々なものを与えられ支えられてきました。そしてここまで来ることができました。

わたしの好きな讃美歌、「驚くばかりの(Amazing Grace)」にも同じような歌詞があります。歌詞にはこうあります。「危険、苦役、誘惑を通り抜けて、わたしはここまできた。ここまで安全に来ることができたのは恵みによる。そして恵みはわたしを故郷まで導いてくれるだろう」。

 今、わたしも同じ思いがあります。ここまで神様が導いてくださったのにはきっと神様が目的や使命を与えてくださっているからだ、そしてその目的や使命を果たそうとする時にも神様は導いてくださるだろう、と。そして、その神様の御業は、これから湘南台バプテスト教会を通して表されるのだろう、と信じています。その時、わたしもまた、これまで与えられ支えられてきたことを通して、与え支える働きを担うことができるのかもしれません。

 

 湘南台バプテスト教会の牧師として、最初の宣教となります。どの聖書の御言葉から語るように導かれるだろうかと祈っていたところ、今日読んでいただいたイエス様の行い、そして招きが浮かんできました。

2つのことを中心に今日は見ていきたいと思います。

1.「収穫は多い」

 イエス様は、「収穫は多い」と言われました。35節には、「イエスは町や村を残らず回って」、とあります。残らず回った、というのはすごいことではないでしょうか。イエス様の情熱と使命を感じさせます。イエス様にとって、回る必要のない町や村というのはなかったのです。私は、2019年に2か月間だけ、OMという宣教団体のボランティアをしにアメリカのサウスカロライナ州で過ごしました。OMという言葉は馴染みのない方もいるかもしれませんが、世界中を船で周り、キリスト教の本を販売したり証しをしたり、着いた場所に教会を建てるお手伝いをしている団体で、日本にも神戸や長崎に来たことがあります。その時はロゴス号という名前だったと思いますが、今はロゴス・ホープ号、デュロス・ホープ号という名前で活動をしています。そのOMの願いは、「福音がほとんど届けられていない場所に、イエス・キリストに従う人たちの生き生きとした共同体が作られること」です。イエス様の働きを引き継いで、福音が届けられていない場所で活動している宣教団体で、私は今も祈りに覚えています。イエス様にとって、神の国の福音を伝えなくてもいい場所はなく、伝えなくていい人もいないのです。そのようにして福音は働き人を通して世界に伝わり、そして湘南台にもキリスト教会が建てられたのです。

 町や村を回ってイエス様がされたことは3つありました。(1)会堂で教えること(2)御国の福音を宣べ伝えること(3)あらゆる病気や患いを癒やすことでした

 (1)会堂で教えた

 イエス様は教えた、というので教師でもあります。私達の教会にも教会学校があります。そこでは聖書を読みながら対話をして様々な恵みが分かち合われ、新たに気づくことがあります。そのようにイエス様も聖書の意味を具体的に伝えたり対話をされたことでしょう。

 (2)御国の福音を宣べ伝えた

 イエス様は神様から遣わされた王なる神様の命令の伝達者でもあります。伝達者の責任は、確実なことを伝達することです。従って、この場所で教会が行う宣教も確実なことの宣言でなければなりません。しかし、確実なことを宣言する為には、神様の命令、恵みや憐みが自分にとって確かなものだ、という確信が無ければできません。イエス様も朝早くに父なる神様に祈り、自らの使命を確認して御国の福音を宣べ伝えられました。牧師も御言葉に確信を持たなければ語れません。しかし同様にイエス・キリストを救い主と信じた教会員の皆さんも、このイエス様の救いは確かなものだ、という確信をもって行く必要があります。イエス様は、何が正しいか分からないこの世の中に、人間の立つべきところを伝えるために来てくださったからです。

 (3)あらゆる病気や患いを癒やされた

 イエス様は医者でもあります。どのような病気や思い煩いもイエス様は治されました。その治し方はここでは書かれていませんが、イエス様に触れた人が直ちに癒されたように超自然的な方法もあったと思いますし、時にその人の話をじっくり聞いてその思いを受け止めることによる癒しもあったのではないかと思います。

 いずれにせよ、イエス様は、言葉で宣言したり教えたりするだけに留まらず、様々なアクションを起こされました。神の国の福音を宣べ伝えることと、教えることと、病を癒すことは、この3つが1セットでイエス様の働きだったのです。

 

 そのイエス様は、群衆に触れていく中で、36節「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」、とあります。

 群衆は真剣に神様を求めていました。しかし当時の宗教の指導者たちは、何も与えることはできず、律法に関する議論を持ちかけ、群衆を混乱させるだけでした。行く場所が分からず、守ってくれる飼い主がいないさまよう羊だったのです。「弱り果てて」とは、果てしない旅を続けて疲労のあまり歩けなくなった人などの意味があります。また、「打ちひしがれて」とは、致命傷を受けて倒れている人を指します。

 人生の中で確かなものを信じて土台として生きていきたいけれど、教えてくれる人がおらず探し疲れて歩けなくなり、ついには倒れてしまうほどになった人達が大勢いたのです。

 イエス様は、そのような人たちを見て、「深く憐れ」みました。憐れむという言葉は、腹の底、あるいは腸を表しており、心の底、腹の底から憐れんだという深い憐みを表しています。この憐み、イエス様の憐みは、ただ同情するだけではなく、憐れんだ人が本当に必要としていることを満たしてあげる実践的な憐みでした。

 

イエス様が「収穫は多い」と言われたのは、このような人達のことでした。当時の指導者は、自分たちの教えていることを守れない人達は、地獄で燃やされるもみ殻、焼き捨てられて当然と考えていましたが、イエス様にとっては神の愛を必要とする愛する人々でその人々の救いのためにいのちをささげられたのです。

 海外の宣教師にまつわる話を聞いたことがあります。宣教師の違いは、その地に住む人達を「あの人達(that people)」と呼ぶか、「私の人達(my people)」と呼ぶかに表れるそうです。私の、というのはもちろん私が所有したり支配する人という意味ではなく、「神様が愛し、神様が託している私の人達」ということです。私にも同じことが言えると思わされています。湘南台に住む人々を「あの人達」ではなく、「神様が私に託している愛する私の湘南台の人達」と呼んでいき続けるかどうかが、これからの働きの分かれ目になるような気がしています。皆様にもどうか同じ思いで進んでいただくことを願っています。

 

2「働き手が少ない」

 イエス様は収穫が多い、主の福音を伝えていかなければならない人々は溢れているのに、そのための働きの担い手が少ない、と言われました。だから、「収穫のために働き手をおくってくださるよう、収穫の主に願いなさい」と言われました。この箇所は、「このことのために祈りなさい」と明確にイエス様が言われた数少ない箇所の一つです。

 イエス様は例えを使ったりイメージを用いて生き生きと伝えられた方なので、私は、小麦やオリーブが収穫を待っている秋に言われたのかな、などと想像しました。そうした時に、収穫をする際に必要な働きにはどのようなものがあるでしょう?皆さんはどのような働きを想像するでしょうか?小麦などの収穫物の根元に鎌を当てる人を思い浮かべるかもしれません。しかし、実際に鎌を当てる人だけが働き人ではありません。鎌を当てる人がいれば、まずその鎌を作る人がいます。その鎌を調達してくれる人がいます。その調達した鎌を渡す人もいるでしょう。その鎌の使い方を教えてくれる人もいます。期間内に収穫を終えられるように収穫の計画を立てる人もいるでしょう。実際に鎌を当てて収穫をしたらその収穫したものを束ねる人も必要でしょう。その収穫したものを蔵に納める人も必要です。その為には蔵を作る人も必要です。倉に納めるためには荷車を調達する人も必要です。私が思いついただけでも、1つの鎌を当てて収穫するという働きの背後に10個ほどの働きがあります。その全ての働きが尊く、そして必要とされています。

 そして、イエス様が神様のことを収穫の主と言っているように、その収穫を実現されるのは主なる神様です。だからこそ、イエス様がまず求めたのは、外に行って刈り取りなさい、ということではなく、収穫の主に、「働き手を送ってください」という祈りだったのです。そして、この祈りは今日の出発の時、求められている祈りです。ぜひ一緒に祈っていきましょう。そしてこの祈りを祈る皆さんは知ることになるでしょう。その祈りの神様からの答えは、助けとなる働き手が与えられることであると共に、皆さんお一人お一人が収穫の背後にある働き手の一人として遣わされることだと。

 

 イエス・キリストを救い主とまだ信じていない皆さん、私たち一人ひとりには自分の力では取り去ることのできない罪があります。その罪によって私達は苦しみます。しかし、その罪を赦すためにイエス様は十字架にかかり、しかし3日後に復活し、死に勝利しました。その十字架と復活は皆さんを愛している神様の証しです。その神様は皆さんのことを深く憐れみ、何とかしてあげたいと思って下さっているお方です。このような神様は他にはいません。神様の愛と憐みを受け取ってこれからの人生を歩んでいかれることを切に祈っています