「10年続く夢に向かって」 ヨエル書3章1〜5節

 

「10年続く夢に向かって」

ヨエル書3章1〜5

 

前回湘南台に伺ったのが7月30日だったので、もう1ヶ月半が経ってしまいましたが、皆様お元気でしょうか。この1ヶ月半の間で皆様が私を牧師として招聘する思いを持ってくださり、私もまた湘南台バプテスト教会で神様に仕えたいという思いが与えられ、強められたこの1ヶ月半でした。いよいよ10月8日から湘南台バプテスト教会の牧師として仕えてまいります。どうぞよろしくお願いします。

 

さて、明日18日は敬老の日です。敬老の日は、日本のある地域の風習が全国に広まり、1966年、今から57年前に敬老の日が国民の休日として定められたそうです。その目的は、法律によれば、「長年社会に貢献してきた高齢者を敬愛し、長寿を祝う」こととされています。多くの教会でも敬老の日に合わせて、敬老礼拝や高齢者祝福礼拝として持たれています。ちなみに、どこから高齢者なんだという話もありますが、老人福祉法では65歳以上と定められています。法律は法律として、まだ高齢者と言われるには抵抗がある、という方もおられるかもしれません。中々言葉は難しいなと思うところもあります。今回は聖書の中にも老人という言葉が出てきます。老人扱いしないで!と思われたり、気分を害してしまう方がもしかしたらおられるかもしれません。しかし、私も41歳、この世の呼び方では「初老」です。私も老人の仲間入りということで、今日神様が語られる御言葉に同じ思いで聞いていきたいと願っています。

 

2003年からは毎年9月の第三月曜が敬老の日となっています。ちなみに、2003年と言えば、湘南台の地に教会が建てられ、教会組織をした記念の年でもありますね!そのことも今日ぜひ皆様と覚えたいと思いました。

敬老の日自体はキリスト教と直接関係はありませんが、十戒の第五戒で主なる神様が定められた、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出エジプト記20:12)という御言葉を思う時、信仰によって教会を建て上げ支えてこられた方々を、私達が尊敬し愛していることを確認するのは、とても大事なことだと思います。そして、その方々を神様が導いて下さったことを、神様に感謝する礼拝となることを願っています。

 

今日の宣教題は、「10年続く夢に向かって」としました。この10年、という区切りはある本を読んでいた時に思いついたものでした。皆さんは日野原重明さんをご存知でしょうか。クリスチャンのお医者さんで、本の中では、日野原さんが10年日記を推奨していた、というのがきっかけでした。彼は94歳の時のインタビューで、「私の手帳は8年後までびっしりです」と言われていたそうですが、実際には日野原さんは手帳のついていた102歳を超えて105歳まで生きられました。それほどまでに日野原さんに神様は情熱と使命を与えられていた、ということなのでしょう。

 

そこで、私は今日一つの願いを持ちました。それは、これから10年続く夢を、皆さんに持っていただきたい、という願いです。今日の御言葉、ヨエル書3章1−5節によってそのような思いに導かれました。今すぐ書いても構いません。今日の御言葉を共に聞いていく中で、導かれた思いがあれば途中でも構いません。

湘南台バプテスト教会の夢、ご自身の人生の中での夢、一つでも二つでもそれ以上でも大丈夫です。ぜひ週報の下の部分に書いていただけたら感謝です。そして、どこかでお互いに分かち合えたら、と願っています。

 

ヨエル書が根拠になっていますので、ぜひ共に主に聞きたいと思うのですが、ヨエル書を読むのは久しぶり、という方も初めて、という方もおられると思いますので、少しだけヨエル書がどういう書物なのかをお伝えしたいと思います。

 

旧約聖書の最後の12個の書物は、「小預言書」と呼ばれる短い書物です。その2番目に当たるのがヨエル書になります。ただ、他の預言書と違って、謎が多い書物です。どういうところが謎なのかというと、いつ頃書かれたのかがはっきりとしません。はっきりとこの出来事があったからこの年代、と言い切れない書物です。紀元前800年代〜100年代までの間に書かれたと言われていますが、紀元前587年のバビロン捕囚が起こった時のことを思わせることが書いてあるので、その後の紀元前500年前後ではないか、と考える人が多いです。

 

その時にヨエルに神様が語られましたが、このヨエルという人も詳しいことは彼のお父さんの名前以外は分かりません。1:1にペトエルの子と書かれているだけです。ただ、ヨエルによって語られる言葉の中から、ユダのイスラエルに住んでいて、神殿の仕事に何らかの形で関わっていたこと等が推測できます。

 

ヨエルが語った背景には、いなごの災害がありました。出エジプト記に書かれているようないなごの大群が押し寄せてくるという出来事が、今度はユダの国を襲います。その出来事を、神殿礼拝に偶像礼拝が入ってきたこと、イスラエルが神以外のものを神としていることへの裁きとしてヨエルは告げたのです。その神様の裁きと、裁くだけでは終わらない神様の憐れみによる回復、さらにはその目に見える回復を超えた神様の祝福と栄光をヨエルは神様から受けた言葉として伝えています。

 

そのような背景を確認しながら、3章を見ていきましょう。

1−2節は後ほど詳しく見たいと思います。

 

3−4

1−2節では霊の祝福が語れますが、例の祝福には、「しるし」、神様が明らかに働いておられることを示すしるしを伴うということが語られます。

「血と火と煙の柱」には、いくつかの目的があります。

1、出エジプトにおける神の行為を思い起こさせます。

 そこでは、エジプトの審判はイスラエルの解放を意味した。

「「主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。」ー出エジプト7:17

2、しかし、これらの表現は、戦争の光景と匂いを生々しく伝える表現でもあります。事実、神様を第一としなかった民への裁きの言葉として、血と火と煙の柱が立つということが、イザヤ書やエゼキエル書などに沢山出てきます。

 

太陽は闇に、月は血に変わる、という不気味な表現も、黙示録など、イエス様の再臨の時の表現として使われていますが、このヨエルの文脈でいくと、天の光そのものを消してしまうほど濃い煙を伴った戦いの後の表現と見ることができます。非常に厳しい裁きの言葉です。これらが聖書には明確に書かれていることも私たちは受け止める必要があります。そして、「大いなる恐るべき日」とありますが、その日に働くのは神様です。だから、誰も「耐える」ことはできないのです。

 

5

しかし、その裁きだけで終わらないのが神様の憐れみと愛です。

主は、主が約束を守るための手段を与えられます。それが「主の名を呼ぶ者は救われる」ということなのです。「主」は、ヤハウェという、世界を創造した神様のことです。ここから分かることは、キリスト教は、色んな神様がいるという曖昧な宗教ではないということです。世界を創造し、人間が神に背くことをしてもなお忍耐を持って憐れみ、私たちの罪を赦すためにイエス様をこの世に送ってくださるほどに愛してくださる神様、その神様の名前を呼ぶ、ということなのです。だから、他の神様の名前を呼んだり信じても救われるとは言わないのです。そんな保証はどこにもないからです。

「シオンの山」と「エルサレム」は、ヨエルが神殿とユダの首都を暗に示すときに使った言葉ですが、ここでは、神様の臨在の場所、その力の中心であり、神様の栄光が旧約聖書の中で最も輝かしい形で見られるところです。そこに逃れる場所、生き残る者がいるという二つをかけ合わせることで、神様の救いの確かさが強められています。

神様が救うという約束は、最後の神様が呼ぶという言葉で終わります。ここに、神様の恵みと憐れみによる民の選びと、救ってくださる神様への応答という関係が生まれてきます。

それでは、冒頭の1−2節に戻ります。

 

1−2節、そしてペンテコステ

2章まででは、いなごの災害から神様が助けられることが語られますが、3章は、その現実的な災害からの救助を超えて、神様がその民を顧みられる「新しい時代」の幕開けが語られています。ペンテコステの出来事はまさに新しい時代の幕開けでした。すなわち、イエス様が復活した後に送ると言われた聖霊を実際に弟子たちが受けて、様々な国の言葉で神様を賛美した時に、ペテロがこのヨエル3章を預言の成就と見たのです。ペンテコステの出来事以後、イスラエル人だけでなく、イスラエル人以外の人もイエス・キリストを救い主と告白し、クリスチャンとなり、イスラエルを超えて教会が建てられていきました。

「すべての人にわたしの霊を注ぐ」、とありますが、この神様の霊が、聖霊のことであるとペテロは語ったのです。1−2節ではあらゆる人が挙げられています。娘・息子・老人・若者・奴隷。性別や社会的地位を超えて主が霊を注ぐと言われたことにヨエルの時代の人々はショックを受けたに違いありませんが、その当時はそのすべての人はイスラエルの人々と理解されていました。しかし、ペンテコステの出来事が起こって以来、この「すべての人々」は、イスラエル人にとどまらず、「イエス・キリストは私の救い主です」と告白するすべての人だということが示されたのです。

「預言をし、夢を見、幻を見る」というのは、神様のことを深く知り、深い関係を持ち、神様を伝えることだと理解されているのはヨエルの時代もペンテコステの時代も変わらないと思います。ただ、ペンテコステではイエス様が送ると言われた聖霊を受けてのことですから、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかり、3日後に復活されたこと、そのことを信じ、罪を認め神様に従っていくなら救われるという福音を伝えることだと思います。これが聖霊を受けた者が預かった預言であり、夢であり、幻の土台です。しかし、この伝えるという方法は一つではないということがペンテコステの出来事からわかります。すなわち聖霊を溢れるほどに注がれた人達は、神様が共にいてくださることが嬉しくてしょうがない、だからそれぞれの国の言葉で賛美をし、礼拝をしたのです。そう考えると、賛美も預言、礼拝も預言、もちろん神様のことを直接伝えることも証しも預言だと言えるのではないでしょうか。

そのようにして、霊を受けた人々を通して、キリスト教会が誕生し、それらの教会の働きが世界中に広がっていったのです。

 

ここで、イエス様を信じ、イエス様に従っている兄弟・姉妹の皆様には、一人一人が溢れるほどに聖霊を注がれ、預言をし、夢を見、幻をかつて見て、そしてこれからも神様によって見せていただくのだということを確信を持って再確認していただきたいのです。夢は寝ている時、幻は起きている時に見るという厳密な違いはありますが、実際にここでヨエルが、そしてペテロが語るように導かれたことはその違いではないと思います。高齢になった方は何もしなくていいよ、ではなくて神様が霊を溢れるほどに注いでいるので、若いものも男女も関係なく、一緒に神様が夢や幻を見せて、その実現のために共に進む家族なのだ、ということです。

 

事実、冒頭で湘南台バプテスト教会は教会ができて20年と言いましたが、教会が伝道を開始したのは1993年と記録にありました。その時のメンバーの皆さんもきっとおられると思います。その方々、そして多くの私が知らない兄弟姉妹が神様から受けた、預言・夢・幻によって湘南台バプテスト教会は誕生し、今30年を迎えていると思うのです。この時に牧師として招かれたのも主の不思議な導きとしか思えません。

 

ぜひ、今日の御言葉を覚え、これから10年続く夢・幻が与えられるよう祈ってみてください。それらは、賛美の言葉であるかもしれません、証しの言葉であるかもしれません、あるいは、主の働きがさらに広がるきっかけのようなことかもしれません。また、与えられている方は、それらを主が用いてくださるように祈ってみてください。

 

10年間という期間は、冒頭の日野原さんの10年日記から思いついたものでしたが、御言葉に聞き祈っている中で、これは伝道開始40年に向かっていく10年ということなのかもしれない、と思うようになりました。40年はモーセが民と共に荒野を旅した期間でもあります。湘南台バプテスト教会の皆様も30年の間に恵みも、そして試練もあったのではないかと想像します。改めてこれまでの歩みに敬意を持ち、感謝いたします。しかし、これからの40年に向かって行く10年間は、神様が約束の地に導いてくださる10年なのではないか、と感じています。これも私に与えられている幻かもしれません。ただし、その地に向かうためには、繰り返しになりますが、皆様が、主の注ぐと言われた霊に満たされて見る預言・夢・幻が不可欠です。共に、主の祝福に預かり、約束の地へと向かって参りましょう。

 

 

まだクリスチャンにはなっていない皆さん、神様は、イエス・キリストの十字架と復活の愛を信じて従う人に聖霊を送る、と言われました。そして、その聖霊が皆さんに夢を与え、希望と祝福で満たしてくださいます。「主の名を呼ぶ者は救われる」とは、「イエス様を信じて従います」と告白することです。他の人が救ってくれるかは私には保証できません。しかし、イエス様は保証できます。神様ご自身が保証してくださっているからです。イエス様に、あなたの人生を委ねてください。必ず変化が起こります。