『信じて飛び込む』ルカによる福音書8:40~48

信じて飛び込む

ルカによる福音書8章40〜48節 西野修平

 

 

早いもので、今年度も4ヶ月が過ぎ、3分の1が終わろうとしています。皆様にとってはどんな前半だったでしょうか?

現状、私たちがこれまで経験したことのないコロナによる影響は依然として大きいです。2020年の始まりごろから発生してはや3年半が過ぎ、ようやく5類という段階に下げられましたが、季節によっては感染者が増え、その度に不安な思いになります。また、ウクライナ戦争が起こり、平和と戦争終結を祈りつつも、いつ同じ状況に私たちもなるだろうか、そういう不安も大きくなっているように感じます。

湘南台バプテスト教会としても、これからの教会、将来の教会がどうなるだろう、と不安に感じている方もおられるかもしれません。若い世代がどうやったら教会に繋がるのか、地域にもどのようにイエス様の福音を伝えていったらよいのか。また、経済的にも教会の運営はやっていけるだろうか。そのような不安もあるでしょう。また、現在無牧師という不安もあるでしょうし、たとえ牧師が決まったとしても、本当にその牧師で教会の将来は大丈夫なのか、という不安もあるでしょう。新しい人との「新しい歩み」は、文字通り、私たちが経験したことのない歩みとなります。不安に思うこともきっと多いでしょう。

 

私も、これまで色々な悩みや不安もありましたし、今抱えている不安もあります。私は九州バプテスト神学校で聴講生の時も含めて6年間学びましたが、1番悩んだのが、3年間の本科コースを終えて、牧師コースに入学する時でした。ぎりぎりまで、神学校の牧師コースに進むかどうか、迷いました。自分にはやっぱりふさわしくないのではないか、牧師になるような資格はないのではないか、ここまでにしておいた方がいいのではないか、そのような思いの中で葛藤がありました。また、私がイエス様の教会を託された時に、本当に託された働きを全うできるのか、そんな力は私にあるのか、という不安もあることを告白しなければなりません。新しい生活に慣れることはできるだろうか、という不安もゼロではありません。ものすごく皆様を不安にさせるようなことを言っているかもしれません。

しかし、話は戻りますが、本科から牧師コースへの進学を最終的に私は決断しました。そこには御言葉による導きがありました。そして、不思議なことに、湘南台バプテスト教会もまた、同じ御言葉による導きを受けているように感じました。今日の聖書の箇所は、まさしくその御言葉です。

 

40イエス様は、ガリラヤ湖の南東にあるゲラサという地方で奇跡を起こし、悪霊につかれた人を救いました。そしてまたガリラヤの地に戻ってきたところからが今日の場面です。

 

41-42

そこに、ヤイロという会堂長がイエス様の元に来ました。会堂長は、当時のユダヤ教の会堂で、十戒をや律法を教えることに責任を持っている人でした。牧師に近い役割と言ってもよいでしょう。会堂長であるヤイロは、イエス様の御前にひれ伏しています。娘が死にそうなので来て欲しいと願います。イエス様なら癒してくださる、と信じての願いでしょう。このヤイロは、娘の回復を心から願っていますが、イエス様の元にひれ伏した、神様の前に謙虚な人だと言うことができます。イエス様は、その娘のところに行こうとします。しかし、そこには群衆が覆いかぶさるように押し寄せてきていました。

 

43

突然、1人の女性に焦点が当たります。女性は、女性に特有の出血を伴う病を患っていました。どこまで他の人に感染するかは定かではありませんが、律法上は、伝染性の病とみなされました。出血を伴う病は、その女性にとって社会的に壊滅的な被害をもたらしました。レビ記15:19-31に女性の出血を伴う際の当時のルールが書かれています。律法は民全体を守る神様の配慮でしたが、いつしかその律法は元の意味が薄れ、人が人を裁くものになってしまっている部分も、残念ながらありました。そしてその女性は、12年間共同体から離れて生活しなければなりませんでした。その長い孤独な生活は、ヤイロの娘の人生と同じ長さです。

孤独だということは、自分は孤独だということを誰にも言うことすらできないということです。この前の場面で墓場で生活するしかなかった男性のように、彼女もまた、共同体の境界線の外で生きなければならなかったのです。

 

44

しかし、女性はイエス様に近づき、後ろからイエス様の服の房に触れます。そうすると、たちまち女性の出血は止まりました。

その女性の行動は、イエス様の注意を引きつけました。

群衆が押し寄せる中で、彼女がその群衆の中に入るということは、律法上は、群衆に感染させる可能性がありました。また、その女性がイエス様に触ろうとすることは、律法上は、イエス様に感染する可能性があった。

彼女はなぜ群衆、会堂長、イエス様から拒絶され、非難されるかもしれないリスクを犯したのでしょうか。

これは、境界線を超える決意をした女性の話なのです。イエス様の服の房に触れた女性は、たちまち出血が止まりました。しかし、女性は恐れています。まだ完全に癒されてはいないのです。

 

45-46

イエス様は言います。「私に触れたのは誰か。」イエス様は、力が移動したのを感じました。

女性にとってのテストがここで始まります。ペテロは、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言います。ペテロには、「群衆が押し寄せているので、誰が触ったのかは分からないし、ただ当たっただけかもしれない」という思いがあったのでしょう。

 

群衆が押し寄せている状態というのは、息をするのも大変なくらいの塞がれた状態です。事実、42節の群衆が押し迫ってきたという言葉は、Choke.(συμπνίγω)。「窒息させる」という意味があります。ルカでは、8:14にしか出てきません。

「いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。」

そこで、彼女には2つの選択肢がありました。

群衆を怖れて息苦しい状態の中にとどまるか?もしくは、信仰によってイエス様の元に行くか?

真正面からではなくても、後ろからそっとであったとしても、イエス様の元に行くか?常識だと言われているような、その境界線を越えて、イエス様の元にいくか?

 

この時点では、この女性も含めてイエス様に触れたことを否定しました。

しかし、イエス様は言います。「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ。」。イエス様は、触れた人を呼んで、その行動を群衆全体に知らせようとしました。魔法の力のように思うかもしれませんが、イエス様の力とは、絶えず霊の力です。ルカ4:14には、「イエスは、霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。」とあります。イエス様は、実際に聖なる力の持ち主です。そして、その力が他の人に伝えられる時には、はっきりと分かるのです。

 

47

女性はもはや隠しきれないことを知って、震えながら進み出てひれ伏しました。

女性はなぜ恐れて、震えていたのでしょうか?群衆の中に入って、誰かに触るというのは、当時の律法を破る行為でした。押し寄せてきている群衆はどう思うか?ユダヤ教の指導者である会堂長は?そしてイエス様は?

女性の恐怖は想像に難くありません。

しかし、イエス様から見たら、女性のその行為は、信仰から出たことでした。

イエス様にとって、その女性の信仰は表明されなければならないものでもありました。なぜでしょう?言い伝えによって作られた掟から抜け出す必要があったからです。律法が主なる神さまによって与えられたのは差別するためではありません。お互いを守るためだった。しかし、人々の生活の中で、やがて差別するものへと変わってしまった部分もあります。

また、イエス様が女性の信仰を公にさせたのは、群衆から女性を守るためでもありました。

病気の人が群衆の中に入って、ましてや意図的に触るというのは、群衆にとっては、前例もないし予想もしなかったことです。病の人が群衆の中に入ってきたというところだけが知れ渡ってしまうと、女性は更なる差別にあったかもしれないし、殺されたかもしれません。

しかし、群衆は驚きました。この女性は、イエス様の促しに後押しされて、公に告白したのです。

女性は、ただ説明しただけではありません。

1なぜイエス様に触ったのかを話しました。「自分は12年間病気で、誰からも助けてもらえず、共同体の外で生きなければならなかった。でも、イエス様なら助けて下さると思った。だから触れたのです。」

2イエス様に触れるとどうなったかを話した。「すると、本当にたちまち治ったのです。わたしは、イエス様の力によって治して頂いたのです。」

女性は、震えながらも、証しをしたのです。

 

48

イエス様は、女性に、「あなたの信仰があなたを救った」、と言いました。確かにこの女性のイエス様への信仰が良しとされました。

イエス様は、体の病を治しただけでよしとされません。

女性は癒された、と身体の病が治ったことを皆に告げました。しかし、イエス様が宣言したのは、病が「癒やされた」、ということだけではなく、「救い」だったのです。癒しは一部分、しかし、救いは全ての部分に関わることです。癒しよりもっと深く、もっと広いのです。

この救いは、弟子たちが嵐にあっている時、また、ペテロが湖の上を歩いていて溺れそうになった時にイエス様に求めた「助け」、「救い」と同じ言葉です。

 

イエス様は、「娘よ」、と呼びかけて、その女性を神の家族として受け入れています。そして、彼女が確かに治ったことを群衆の前で宣言して下さいました。まさにイエス様は大祭司です。

その大祭司の宣言によって、女性は癒されたことが公に認められました。そればかりでなく、これからは共同体の外ではなく、共同体の中で生きていける、誰かとの交わりをもって生きていけるように、イエス様はしてくださったのです。

 

「安心して行きなさい」、とは、ただ去っていいよ、ということではなく、「そのただ中に入って行きなさい」、ということだと、私は思います。

ここにこの女性の本当の救いがあったのです。まさに、溺れて死にそうになっている者が助けられ、自らを省み、悔い改め、神様に従い、共同体の中で生きていくその救いが起こされました。これがイエス様の救いなのです。自らの十字架の苦難の途上にあって尚、人に触れ、人を救う方なのです。

 

私はイエス様にすがります。時に叫びながら。時にそっと近づきながら。

イエス様の服にでも触れたい。癒してもらいたい、なおしてもらいたい。

不完全な信仰かもしれません。不完全な信頼かもしれません。しかし、十字架に向かう途上のイエス様は、このお方なら助けて下さると、服の房に触った、その信仰のままの私を呼び止めて下さる。そして、救って下さる。

そして今、安心して、その只中に入って行きなさい。と言われるのです。

 

十字架の途上にあってもなお、安心して行きなさい、と言って下さるイエス様が、共におられます。私も、安心して新しい生活、新しい共同体、新しい神の民の中に入って行きたいと思います。

 

私たちも、この世の境界線を越えるような大胆さをもって、イエス様の服の房に触れさせて頂いて、そして、安心してこれからの道を進んで行きましょう。