2023年7月16日「すばらしいことを神様のために(Somthing Beautiful For God)」ローマ8:28

「すばらしいことを神様のために(Somthing Beautiful For God)」というタイトルのドキュメンタリー番組があります。1969年にBBC(英国放送協会)が制作した、マザー・テレサを追った番組です。本も発売されています。ドキュメンタリーでは、マザーテレサの設立した「死を待つ人々の家」のことや、マザーテレサの自分の言葉で信仰について語っています。

 20年ほど前の学生時代に私もマザーテレサの活動に惹かれ、本やドキュメンタリー番組、ドラマなどよく見たものでした。今でも覚えているマザー・テレサの言葉には、「聖なる者となりなさい」、「赦すけど、受け入れはしない」(「死を待つ人々の家」でインタビューを受けている中での、加害者への思いを語ったドラマの中でのセリフ)等があります。

 印象的な働きが多いマザー・テレサですが、私が最も印象的だったのは、本の中で書かれていた彼女の日々の礼拝のことでした。マザー・テレサは、毎朝4時に起きて礼拝を捧げ、1時間お祈りをして、それから日々の働きに出かけている、ということでした。私は、「日々目まぐるしく働いている彼女のどこからそのようなエネルギーが湧いてくるのだろう」と思ったものでした。しかし、逆でした。マザー・テレサが本の中で綴っていた思いは、「そうしないと日々の働きを行うことはとてもできない」というものでした。

 「すばらしいことを神様のために」、という思いのその前に、「何か」があるのではと思わされました。その「何か」は、本日の御言葉から神様に聞いていきたいと思います。

 

中心聖句は28節ですが、2627節、そして2930節も同様に大切です。2627節、そして2930節が28節の土台になっているからです

 

26−27  父なる神様の思いと同じ「聖霊」が取りなしてくださる

「同様に、も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

25節までは、イエス・キリストを信じる信仰とイエス様が来られる希望によって、私たちは世の終わりまで支えられることが語られました。同じように私たちを助けてくれるものがあります。それが、「聖霊」です。イエス様が天に上げられた後に送ってくださると言われた、助け主である「聖霊」です。「助けてくれる」とは、重荷を担ってくれるという意味です。聖霊様が、私達の重荷を一緒に担いで下さっているのです。

 そして弱い私たちとは、後に続くどう祈るべきか分からない私たち、ということです。私たちは最善を求めて祈っているつもりです。しかし、弱さを持っている私たちは、神様の最善ではなく自分の最善を求めて祈ってしまうこともよくあります。もちろん私達の状況に基づいて願うことが完全に間違いというわけではありません。しかし、私達の願いと神様の御心が完全に一致していると、即断定することはできません。私達の祈りは、ここで語られている弱さに条件づけられているのです。そしてその弱さは、この地上に生きている間は完全に克服はできないでしょう。だからこそ、パウロは、弱さを克服できない私達に焦点を当てるんじゃなくて、弱さを持った私たちを助けてくださる聖霊に焦点を当てているのです。

その聖霊がどのように重荷を担ってくださるかと言うと、うめきをもって取りなしてくださる、と言うのです。この言葉に表せないうめき、とは異言のことを言っているのではありません。私は異言は否定しません。異言は聖書の中でも語られています。しかし、異言はパウロを始め一部の人にしかできないものでしたが、聖霊の助けは、全ての信仰者に与えられるのです。このうめきは私達のうめきとは違います。聖霊が私達の心の中で私たちには分からない方法で語り、働いてくださっている聖霊の言葉です。そしてその言葉をもって、取りなしの奉仕をしてくださっているのです。

 

取りなしとは私のために祈ってくださっているということです。皆さんが誰かのことを取りなしている時、皆さんは誰かのために祈っています。同じように、聖霊が私のために祈ってくださっているのです。私たちが祈るべきことを分からない時も、私たちにとって最善だとは思えないことを祈る時も、失望する必要はありません。私達のために完全な取りなしの奉仕をしてくださる聖霊に、私たちは信頼することができるからです。27節で語られているように、人の心を見抜く方である神様と聖霊様の思いは完全に同じです。天にはイエス様が神様の右の座におられ、私たちが罪に定められないように取りなしてくださっています。同時に、イエス様を救い主と信じた人の心の中には聖霊様がおられ、この世での困難や不安の中にある私達のために、父なる神様に祈って取りなしてくださるのです。

ちなみに、聖なる者とは私とは違う人、とは思わないでください。この聖なる者は、パウロや使徒のことだけを言っているのではありません。イエス様を信じて救われた人のことを指しています。

 

28節 すばらしいことを神様が成し遂げてくださる

28節も27節から連続的に続いています。28節には、新共同訳には書かれていませんが、原文には「そして」という言葉が入っています。つまり前の節で語られたような、弱さを持っているけれど、聖なる者とされた人達、イエス様を救い主と信じたクリスチャン、すなわちそれが、神を愛する人達、神様がご計画に従ってイエス様を信じるように呼び出した人達です。そのような人達には全てのことは良いことのために、「素晴らしいことのために働く」のです。意味があるのか分からないようなことも、良いことのために主は用いることができるのです。

そして、パウロは、私たちは万事が益となるように働くことを知っている、と言います。そうです、これは、イエス様を信じた私たち一人一人の証しの言葉でもあります。今ともに礼拝を捧げている多くの方が、あの時の苦しかった出来事を神様はこのように用いて下さった、と証しされるのではないでしょうか。

 

ここで、2つ注意したいことがあります。一つ目。益は何を持って益でしょう?「素晴らしいこと」は誰の目から見て素晴らしいのでしょう?それは神様の視点に立っての益であり素晴らしいことです。私たち自身の益ではないことに気をつけたいです。今、私達の目から見てあまり好ましくないと思うことも、神様のご計画の中で益となっていることもあるのだろうと思います。私達の思いが29節で語られるように、御子の姿に似た者、イエス様の思いに近づけば近づくほど、私たちが思う素晴らしいことも、神様の素晴らしいと思われることに近づいていくでしょう。

 

2つ目です。全ての悪いことも、罪の出来事も自動的に良いことへと変わるとはパウロは考えていません。それが起こるのは信仰が磨かれ、希望が確かにされる時です。素晴らしいことを神様が成し遂げて下さったと言うその体験は、神様を愛する人にしか体験できないのです。このことは、2930節にも関連しています。

 

2930節には、「神は前もって知っておられた者たち」、また、「あらかじめ定められた者たち」と、神様が選んだ人達、つまりクリスチャンのことを指して述べられています。そしてそのクリスチャンを用いて、神様の御計画の中で、イエス・キリストが長男で頭となる神の家族を作ってくださった、と言っています。

この聖書で神様が人を「知る」という時には、神様がその人に対して、目的・計画・課題を持っておられることを意味しています。しかし、この人には計画を持っているけど、この人には計画を持っていない、というわけではありません。また、この人は選ぶけどこの人は生まれた時から選んでいませんよ、と言うことでもありません。神様は愛なる神様で一人一人のことを愛してくださっています。しかし、私たちには自由な意志も与えられていて、私達を作ってくださった神様の愛を拒否する、愛さないという選択もできます。もっと言うなら大多数がそのような選択をしています。イスラエルも神様から選ばれた民ですが、神様が持っていた計画や使命を拒否しました。もっとさかのぼれば、最初の人アダムとエバも、神様は愛し守るためのルールも作りましたが、アダムとエバはそれを拒否して破りました。

神様を愛し、神様は私の中にご計画を持っている、と信じない限りは、万事は益とならないのです。私達が、神様を愛し信頼し受け入れるならば、神様が贈られること全てを、へりくだって受け入れることができます。

お医者さんは、私達が治るために時には非常に痛い治療をします。でも、そのお医者さんを信頼して、そのお医者さんが指示されたことを受け入れていきます。もし信頼しないなら、たとえそれが最善の治療であったとしても、自分に苦痛をもたらすそのお医者を憎んで、そして遠ざかっていくでしょう。同じように、私たちも神様を愛し信頼しないなら、神様の意志に対して常に戦い、人生の苦痛が私たちに怒りと憎しみしか引き起こさないことになるのです。

 

冒頭のマザー・テレサの話に少し戻ります。マザー・テレサは、社会を変えていくような働きを沢山しました。ドキュメンタリーのタイトルにもあるような「素晴らしいことを神様のために」したい、という思いもきっと強かったと思います。しかし、その思いに先立って毎朝早い時間に礼拝を捧げていくことで、「素晴らしいことを神様が成し遂げてくださる」、という信仰が強められていったのではないか、と思うのです。そうでなければ、日々理不尽に傷つけられる人々に接していくことはできなかったのではないかと、私は思います。

 

 

素晴らしいことを神様が起こしてくださることをまず信じて、素晴らしいことを神様のためにという思いで生きていきましょう。そうすることで、イエス様が長子となるキリストの教会が完成へと向かうでしょう。