『見えない希望をつなぐものとして』2023年4月23日

はじめまして。北九州キリスト教会の西野修平と申します。今日は湘南台バプテスト教会で共に主を礼拝することができて感謝です。

 

私は、今年の3月に、6年間通った夜間の神学校を卒業しました。まだ牧師としての赴任地は決まっていません。しかし、ここまで学びや神様からいただいた恵みを思い巡らすと、祈られながら、また、支えられながら、将来に備えている時なのだと実感しています。

その将来とは、私が通った九州バプテスト神学校のミッションにも掲げられている、「教会を通して、イエス様に仕える」、そのような将来なのだと信じています。

 

神学校を何とか卒業することができましたが、卒業するためには、卒業論文を書かなければなりませんでした。

その卒業論文のテーマを、『モルトマンの終末論における永遠の生』というタイトルにしました。ユルゲン・モルトマン(Jürgen Moltmann)というドイツの神学者の本に、『神の到来』(The coming of God)という大作があります。この本は、キリスト教終末論を、聖書や歴史の教会はどう考えたかについて、詳細にまとめてくれています。

 

その上で、モルトマン自身が終末をどのように考えるのかが、聖書をもとに述べられています。私は、そのモルトマンの終末論を整理しながら卒業論文を書きました。

 モルトマンは、1960年代に『希望の神学』という本で名前が知られるようになりました。『神の到来』も、『希望の神学』を土台にしていると、モルトマン自身が述べています。

 

そして、神の国の到来は、徹底して「希望の出来事」であることが、全体を通して語られています。

 私は、終末論について長い間考えてきました。「キリスト教において終末とは何を意味するのか?」、「『終わり』をどのように理解するのが正しいのか?また、どのように伝えるのが正しいのか?」。そのような疑問を持ってきたのには理由があります。

 

 私が大学生の時、一人の女性が礼拝に訪れました。礼拝後、その方を教会付属保育園の保育士さんが紹介してくれました。その方は、高校生の娘さんのお母さんで、その娘さんが命を絶ったことを伝えに来られました。

 

娘さんは教会付属保育園の卒園生でした。保育士さんも泣いていました。お母さんも泣いていました。その報告を聞いた後、牧師が祈ろうと言い、みんなでご家族の慰めを祈りました。

 

 それから私は考えました、「なぜこの子はいのちを絶たなければならなかったのか?助けを求めることはできなかったのか?教会付属保育園で過ごしたけれど、神様の愛はこの子に届いていなかったのか?教会は助けることはできなかったのか?いのちを救うのが教会ではないのか?」。

 

 その出来事があってから、少しでも助けを求めている人が教会に来やすくなってほしいという思いが湧き上がりました。そう思ったのには二つの理由があります。

 

一つ目は、他の誰が助けてくれなくても、愛し共にいて助けて下さる神様がおられることを、まずは知ってほしかったからです。神様にできないことはありません。

しかし、救いがあることを知らなければ、最後に残るのは絶望(despair)です。一方、救いがあることを知っていれば、最後に残るのは希望(hope)です。そこに大きな違いが生まれます。そのことを教会で知って欲しかったからです。

 

 二つ目は、私達が、イエス様の身体だからです。私が心を打たれた讃美歌にこういう歌詞があります。

「もし私達がその身体なら、どうして主の御腕は届いていないのか?どうして主の御手が癒していないのか?どうして主の御言葉が教えていないのか?」

「もし私達がその身体なら、どうして主の御足が行かないのか?どうして主の愛が彼らに告げていないのか、道はある、と。」

教会がキリストの身体であるなら、私たちがイエス様の腕であり、手であり、足です。私達を通して主はその人に愛を伝え、助けたいと願っておられます。

 

そして、今助けを求めている人や今は助けを求めていない人でも今後助けが必要な時に、教会がその方々とつながる手段として、教会でギターでコンサートを行ったり、証をしたりしてきました。

どれだけ効果的だったのかは分かりません。また、最終的には音楽活動で身を立てることはできませんでした。

しかし、神様は私に与えた思いを、その時の最善の方法で生かしてくださったと思います。そして、きっかけは何であれ教会に興味を持って来られた方に、どのように希望の言葉を語ることができるかが、大事なことだと今は考えています。

 

そう考えた時、終わりの出来事は避けて通れないと思うようになりました。なぜなら、「終わり」は「いのち」に直接つながるテーマだからです。

多くの人が、生きるということ、そしていのちの終わりについて考えます。この点を聖書は、神様は、どのように私たちに語りかけているのか?それが、最も自分の中で学びたいテーマだったのです。

 

 しかし、終末と聞くと、オカルト的なことを想像する方もいるかもしれません。私が高校生の時はちょうど1999年で、ノストラダムスの大予言が流行して、終末が来るのではないかなどの噂が広がった時代でした。終末に関する本も高校の図書室に置いてあり、私も読んだものでした。

 

 また、終末は、実際にカルト宗教に誤った形で利用されやすい教理でもあるため、終末について語る際には、十分に気をつけなければならないと思います。

 

 しかし、終末、終わりの出来事についてどのように理解するかで、生き方が変わってくるため、教会がどのように終末を理解するかはとても重要だと思います。

 

 もし、全ては滅びるのでどうでも良いと考えるなら、自暴自棄な生き方になるかもしれません。また、自然を破壊しても問題ないという考えになるでしょう。なぜなら、どちらにしても全ては滅びるからです。

 

 またもし、終わりなど来ず、この世界はこのままの状態で続いていくと考えるならどうでしょう。そう考えるなら、世界中にある紛争や貧困などの課題を無視して、自分と自分の周りのことだけを考える生き方になるかもしれません。

 

 しかし、聖書の伝える終わりの出来事は、自暴自棄になることへも自己中心になることへも導きません。聖書の伝える終わりは、「神の国が来る」ということです。そしてその意味は、この世界が滅びるのではなく、完成されるということです。

 

 また、その時は、カレンダーで表せるような「何月何日に来る」というものではなく、神様が創造する全く新しい時です。その時、神様が全てを変え、全てを完成させます。

 

さらに、その完成の時は、人間の救いだけでなく、全て造られたものも新しくされる時(黙示録21:5)なのです。したがって、神様が新しくされるその時まで、人間だけでなく全ての被造物を、守り管理するのが人間の責任でもあります。

このような視点は、最近ではエコロジー神学という名前で注目されています。

 

 私たちは、この完全に新しくされた神の国が来るという希望に向かって生きています。それこそが聖書の伝える終末だと、私は理解するに至りました。

なぜそのような時が来ると分かるのでしょうか?それは私たちの罪を赦し救って下さったイエス・キリストの十字架と復活によって、神の愛が示されたからです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれ、3日後に復活された方です。

 

イエス様はその復活を通して、死を超えて新しいいのちに生きることができる、ということを示してくださったのです。

そして、イエス様は再び来られると約束されました。この新しい命とイエス様が再び来られるという希望は、私たちを変え、世界を変える、神の力です。

 

 

 その終末の栄光について語っているのが、今日取り上げたローマの信徒への手紙81825節です。この箇所は、聖書の語る終末を最もよく表している箇所のひとつです。

 

 栄光が、1830節までの箇所全体のテーマになっています。   

 18節の栄光から始まり、30節の栄光で終わります。

 

 18節を見てみましょう。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

 ここで語られていることは、信仰者にとっては、苦しみが最後の言葉ではないということです。 苦しみは、当時のクリスチャンへの迫害だけでなく、病気、愛する人との別れ、飢えからくる苦しみ、経済的危機、死そのもの等、あらゆる苦しみが含まれるでしょう。

 しかし、その苦しみが最後の状態ではなく、将来私たちに表される神様の栄光こそ、信仰者の最後の状態なのです。

 現在起こっている苦しみ、見える苦しみは、将来表されるその栄光の光の中で、最終的には理解することができます。そこに希望があります。だから、神様が将来表してくださる栄光をのぞみながら、今を見ていくことができるのです。

 

19-22節までは、人間以外の被造物の状態が語られます。23節には「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいている私たち」とあるため、ここでの被造物とは、人間以外の造られたものを指してパウロは言っています。

 

 20節には、「被造物は虚無に服している」とあります。「虚無」という言葉は仏教用語であり、イメージを半分しか捉えていないように私には思います。

ある人は、虚無を、「死と腐敗(death and decay)であり、混沌状態(chaos)」と説明しました。いずれにせよ、神様が造られた完全な状態から遠のいていることを指しています。

なぜ混沌状態なのでしょうか?「服従させた方による」、とありますが、神様が好き好んで混沌状態にしているという意味では全くありません。

創世記317節では、「お前のゆえに土は呪われるものとなった」と、主なる神様がアダムに告げます。人間は意図的に神様のルールを破るという罪を犯しました。

そのことで、被造物は、自分たちの意思に反して、人間の罪の結果に巻き込まれたということなのです。現在も、被造物は、人間が引き起こす自然破壊によって混沌状態に陥っている、ということができるのではないでしょうか。

 

 しかし、被造物も希望を持っている、と20節では語られます。その希望とは、21節で語られるように、神の子供達があずかる栄光の自由に、共にあずかる、という希望です。

 

 共にあずかる希望は、23節でも語られています。23節をお読みします。「被造物だけでなく、の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

「霊の初穂をいただいているわたしたち」とありますが、これは現在ですら、クリスチャンは神様の栄光の一部を見せていただいているということです。その中で自由もいただいていますし、神の子とされる恵みもいただいています。

 

しかし、神様の栄光に完全にあずかるのは、最後の日、神の国の到来の日となります。その時、召されていたとしても、からだの贖い、つまり、からだの復活を伴う永遠のいのちが与えられます。この体の復活はとても大事なことです。

私達は決して魂だけが残るのではありません。終わりの日に永遠が始まる時、時間が過ぎても古くはならない「身体」と共に、新しい命が始まります。しかし、その身体はこの世で生きた人生と関係がある身体です。

復活されたイエス様の手には十字架の釘跡がありました。しかしその釘跡は、もはや苦しみと絶望の象徴ではなく、死からの勝利の象徴です。

同じように今の私たちの身体も、もはや悲しみはない、主が涙を拭って下さったからだとして、主が、完成させてくださるのです。

そしてその神様の時は、解放の時、完成される時なのです。

 

 その希望の時に向かって、22-23節で語られているように、被造物も私たち人間も、共にうめいているのです。

 

 このうめきは、「希望の時に向かって」のうめきです。その希望は、19節の「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」という言葉からも見えてきます。

 

「切に待ち望む」とは、ギリシャ語で、「apokaradokia(アポカラドキア)」と言います。この言葉は、船で旅する人が、地平線から来る夜明けの光を熱心に探す態度のことを指しています。

それは暗闇の中にあって光を探す態度です。信仰者は、この世界をただ見ているだけではなく、その背後におられる神様を見ています。したがって、被造物が、そして信仰者が見ているものは、暗闇の中の絶望ではなく、常に光の中の希望なのです。

 

 最後に2425節を見てみましょう。

「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」

わたしたちはこの希望によって救われているのです。目には見えませんが、復活された主イエス様によって約束された確かな希望です。

現在目に見えることは時と共に流れていく一時的なものです。しかし、神の国は目には見えませんが、時と共に流れない完全な希望なのです。

 

 この神の国の栄光を待ち望む私たちは、キリストに固く立って前に進みます。25節には「私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」とあります。

この「忍耐」という言葉は、じっと我慢するという意味よりもっとポジティブな意味があります。ここで言われている忍耐とは、ある場所に留まることです。

クリスチャンが留まる場所はどこでしょうか?それは救い主イエス・キリストにほかなりません。

イエス様が共におられるから、イエス様に支えていただけるから、神の国に向かって、私たちは神様の御心を行うために前に進むことができるのです。

 

 この見えない希望は、教会が伝えなくて誰が伝えることができるでしょうか。教会が伝える以外に誰も伝えられない希望なのです。しかし、これほど確かな希望はありません。

だからこそ、教会を通して、この希望を語り伝え、その希望を次の世代につなぐ者とさせていただきたいのです。主イエス様が再び栄光のうちに来られるその日まで。

これが今私に与えられている思いです。イエス様が与えてくださったこの希望を、共に伝えてまいりましょう。

 

 

イエス様は、私達の罪を赦すために十字架で死なれ、3日後に復活した神様です。そして、この命が絶望ではなく、「希望のかたまり」であることを示してくださいました。皆さんの命には神様の愛が注がれています。このことを信じるなら神様の確かな希望が、皆さんを救い終わりの日まで導くでしょう。