【最期の晩餐】ルカによる福音書22章14-23節 2023.3/26

【最期の晩餐】ルカによる福音書2214-23節 20233/26

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1,手術の話

 202011月に手術を致しました。その際にどんな手術をしたのかを知るには12枚にわたる「診療明細書」で知る事ができます。人工心肺機械、組織接着剤の種類、血液ろ過機、心臓の代わりのポンプ、保存輸血、血小板、赤血球の使用、52項目の血液検査、7種類の麻酔薬、手術後の点滴の種類と回数と量、5種類のカテーテルの長さや製造会社もわかります。

血液の中の細菌を殺す点滴など約30種類の点滴を使っています。血液の400ML相当分の200MLの血漿を12本使っています。厳密な血小板等の管理と検査を行って手術が行われています。

旧約聖書では「血は生命」であると考えられています。今もその真実は変わらないことを知ります。血が無ければ人は生きていくことができません。今日は「最後の晩餐」を取り上げます。

2,切に願う(14-16

主の晩餐はどんな状況の中で行われたのでしょうか。「22:5彼らは喜び、ユダに金を与えることを決めた。ユダは承諾して群衆がいない時に、イエスを引き渡そうと良い機会を狙っていた。」イエス様をお金で売り計画が進んでいます。さらに「15:苦しみを受ける前に」とあります。現代の死は病院でほぼ苦しむことなくモルヒネなどでコントロールされベッドの上で死を迎えます。イエス様の死は吊るされて殴られて笑いものとされ、裸にされ、見世物のとして晒される死でした。その死を予感されたのです。

このような状況の中で14:食事の席に」着かれました。さらにイエス様は「15:この食事をしたいと私は切に願っていた」とあります。イエス様は伝道しながら何度も弟子たちと魚を食べたり、パンを食べたり食事をしたことでしょう。しかし「この食事をしたいと切に願った」と言われています。この食事はイエス様が特に願い、祈り是非晩餐式をしたいと強く思われた特別な食事です。イエス様を殺す計画がイエス様の知らにところで進み、暗黒の闇が迫っていたのです。34:ユダの中にサタンが入った」とルカは表現します。悪事を陰で行い、気付かれないように邪魔者を消すのです。罪はこのようにして密かに行われます。

3,過ぎ越しの食事

この食事は16:過ぎ越しの食事の席」と言われています。

「過ぎ越しの食事」は、出エジプトの際に小羊の血を鴨居に塗ったところ、災いが通り過ぎたことを思い起す式です。犠牲となった羊の血を思い起こし、小羊の犠牲と贖いが災いを逃れさせたその喜びを分かち合うのです。

 3月~4月は入学、進級、卒業の時期です。お祝いをする方も多いと思います。私の祖母の命日、私の高校進学、兄の進学が重なるので、三つを一緒にやったものです。母はあの頃は大変だったといつも言っておりました。小学5年生だった妹が、父の弁当を作ってくれたと父は記録しています。家族の記念すべき時で繰り返し人生を振り返ります。人生の節目を思い越し、過ぎ越し方に思いを馳せて人生を考えます。大変な時期を共に乗り越えたことに感謝するのです。過ぎ越しの祭りはそのような時でした。

3,血と杯を取る

さて喜びの座に招かれている中でイエス様は一つの象徴的な行為を行いました。

17:イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互に回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』と言われました。その理由は20節以下に述べられています。20:この杯はあなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。」と言われました。

ぶどう酒は「イエス様の血」を象徴しています。ぶどう酒をご自分の血に見たてているのです。それは「あなたの為に」流された血です。「あなた」と呼び、個人的な関係を持つのです。イエス様の「血を受け取ること」で私たちはイエス様と個人的な関係を結びます。あなたはイエス様のからだと血を日々受け取っておられるでしょうか。個人的な関係を結んでいますか。私は手術で多くの血や血清や血小板等を受けました。血液400ml分の血小板などを受け取ったのです。血によって救われました。血は命です。イエス様の血は私とイエス様を結びます。

 さらにイエス様は次のように語っています。16:神の国でこの過ぎ越しが成就するまで、18:神の国が来るまで私は今後ぶどうの実から作ったもの(ぶどう酒)を飲むことをしない。」

と語っています。

イエス様は「神の国が来る」事と結びつけています。神の国が到来する時再びイエス様と食事をする。神の国での食事を連想しています。過ぎ越しの食事に与るとは「神の国が到来した時の」救いの食事にもつながるのです。キリストの血、小羊の血を受け取った者は神の国での会食にも招かれるのです。

何と素晴らしいことでしょうか。十字架の血は「永遠の命」に繋がるのです。死後私たちは神の国が約束されています。そしてそれは共に会食する喜びに与るとも言うのです。平塚教会で子ども食堂が盛況なのをご存知でしょう。それは貧しい人に食事を配るだけではないのです。食事は「神の国での会食」を示す喜びです。「子ども食堂」は「神の国の会食」の先取りなのです。教会では色々な時に共に食事をします。「神の国」が到来した時に共に食卓を囲むことの先取りなのです。

4,パンを取る

 さて次にイエス様は次のように語っています。

19:それからイエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂いて、使徒たちに与えて言われた。これはあなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこの様に行いなさい。」とあります。

イエス様はパンを取りました。パンはイエス様のからだのシンボルです。パンを自分の体に見立ているのです。「裂いて」とは十字架の上で、槍を刺され、鞭打たれて肉が裂かれたイエス様のからだのことを意味しています。

イエス様が体を裂かれたことには、「目的」があります。その目的とは私たちの罪を体に負い、神の一人子が神の贖罪の目的を果たすという目的です。人はキリストの贖いによってのみ、神との関係を回復することができるのです。贖いとは「大きな罪を犯したことに対する償い」を言います。神から離れてしまった人間の罪をイエス様は体をもって償われたのです。

4,裏切る者は不幸である

十字架の贖いを聞いた弟子たちはどんな様子だったでしょうか。21節以下を読んでみましょう。

21:しかし見よ、私を裏切る者が私と一緒に手を食卓に置いている。22:人の子は定められたとおりに去っていく。だが人の子を裏切る者は不幸だ。そこで使徒たちは自分たちのうち、いったい誰がそんなことをしようとしているのかと互いに議論し始めた。」さらに次の24節を見ますと24:また使徒たちの間に、自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか、という議論も起こった。」

とあります。

裏切るのは自分かも知れない、いやあの弟子かも知れないと彼らは不安に満たされます。また誰が一番偉いかという弟子たちの間での序列付け、格付けの論争をします。晩餐の意味をくみ取ることができません。「贖い」を理解できません。事実ペテロの裏切り、ユダの裏切り、弟子たちの逃亡が起こります。イエス様は「22:53/今あなたたちの時で、闇が力を振るっている。」と「闇」を見据えています。

パウロはイエス様の戦いは「エフェ6:12、私たちの戦いは血肉(ここでは表面い見える世界)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものである」と言っているとおりです。この裏切りと嘲りの中をイエス様は十字架を負い進んで行かれます。それが22:人の子即ちイエスキリストは定められたとおりに去っていく。人の子を裏切る者は不幸だ」ということです。

「最後の晩餐」はこのように裏切りの中でキリストが十字架へとかけられていく「原罪」の現実が見え隠れする物語です。

聖書教育は「22:19の記念という言葉はルカ福音書のみに記されている」と書いています。

イエス様の主の晩餐を絶えず記憶し、記念とし、忘れてはならない記憶すべきことなのだとルカは特に強調しているのです。「隠された罪」それが「真理と愛の結晶であるキリスト」を殺害するのだ、排斥するのだ、裏切るのだということを、絶えず覚えておくようにということを聖書は書いているのです。