【ぶどうえんのたとえ】3/19ルカによる福音書20章9-19節

【ぶどうえんのたとえ】ルカによる福音書209-19・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1、財産の相続

 隣の本屋さんは相続する者がなく、競売に掛けられました。相続問題を解決せずに亡くなったということでしょう。高齢化する現状の中で家や土地の相続は大きな問題です。皆さんの家や土地はどうでしょうか。私たちも信仰の相続について課題を頂いています。

今日の個所に「14:農夫たちは息子を見て、互に論じあった。これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば相続財産は我々のものになる。そして息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまった。」

このような事件は当時の人々にとっては大変身近な譬え話であったと思えます。今も昔も財産問題で殺人事件が起こったりする。今と2000年前と変わらない現実があります。金、土地、財産、分配は生活と命がかかった必死な課題なのです。

220:915

一覧表を配布しましたので、ご覧になりながら聞いて下されば幸いです。

ブドウ園の主人が収穫を納めさせるためにその僕を送ります。3人の僕を送る。三人の僕を送りますが、101112;ふくろ叩きにして何も持たせないで追い返す、侮辱して何も持たせず追い返す、傷を負わせて放り出す」とあります。暴力を振るうひどい対応です。

 神様は神様の財産を相続させるために、多くの預言者を送りました。イスラエルの人々は預言者を迫害し神の言葉に耳を傾けなったのです。例えばイザヤは神の言葉を語ります。しかしイスラエルの人々は聞く耳をもたず、彼を無視し悔い改めることもありませんでした。「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、すっぱいぶどうが実った。流血と叫喚・嘆きが満ち、罪が満ちている」とイザヤ書5章でイザヤはイスラエルの罪を嘆いています。

 先週は3年ぶりに12名の連合の牧師が集まって様々なことを話し合いました。私の送別会も兼ねて行って下さり、最後は牧師先生が一つになって按手をして祈って下さいました。本当に楽しい会でした。各教会それぞれが課題を抱える中で牧師同士が励まし合う会となりました。神の言葉を相続するために献身している牧師たちの祈りを頂きました。

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があるとみなされない人は幸いである。」(ロマ4:7-8)を思い起こしました。

 神の言葉は厳しく時に受け入れることが出来ないほどです。しかし罪を赦され、人としての限界を感じ、未熟さを赦されて説教者、伝道者、司牧者として働けることは本当に感謝だと思います。信仰を相続することは何にも代えがたい喜びです。すべての栄光を主に帰したいと思いました。共に聖霊を相続し、十字架の贖いを相続する者となりましょう。

3、私の愛する息子を送る/

次に多くの僕を送った神は、ご自分の愛する息子を送ります。

1315どうしようか。の愛する息子を送って

みよう。この子なら多分敬ってくれるだろう。農夫たちは息子を見て、互に論じ合った。これは跡取りだ。殺して

しまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。息子をブドウ園の外に放り出して殺してしまった。」

農夫たちは、一生懸命働いたのでしょう。一生懸命働いたものは、思いがこもっていますから、自分のものとした

いのです。ぶどうが立派に実るまで働いた。その収穫を息子に持っていかれたくないし、収穫を納めたくもないと思い始めたのでしょう。彼らは後継ぎを殺してしまいます。葡萄園は自分たちのものとしたかったのです。農園の主人の思惑は叶わず、彼の息子跡取りを農夫は殺してしまいます。

これはイエス様の十字架の出来事を示しています。神の子イエス・キリストを殺してしまうのです。「9:葡萄園は主人が貸したもの」です。それを自分のものとしたかったのです。これを罪の姿と言います。イエス・キリストを邪魔ものと排除したのです。 ブドウ園は神様のものです。そして人はそのブドウ園を大切に育てることです。ぶどうの実が豊かになるように育てることです。私たちの家族は神様から預かっている相続財産です。教会は神様から借りている相続財産です。教会員は同士は神様から借りている相続財産です。その主人はイエス様であり、神様であり、聖霊です。ぶどうの房が実るように働く僕なのです。 教会も長くいると自分のもののように思うことあります。何でも知ってる、あれも買った、これも修理した、この人も仲間だと思い始めると神様からの借り物であることを忘れると人間の教会になってしまいます。そうなると神の教会であることが二の次になってしまいます。神様に栄光を帰しましょう。

 「15-16:さてぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来てこの農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人

たちに与えるに違いない。彼らはこれを聞いて、そんなことがあってはなりませんと言った」 ぶどう園の主人が送った僕、愛する息子を殺した農夫たちはぶどう園の収穫を得ることも出来ず、収穫もぶどう園も他の人に相続されてしまいます。

 このことはファリサイ人や律法学者には、ぶどう園は相続されず、異邦人の人々に福音が相続されて行ったこと

を示しています。異邦人たちによっても作られる神の相続者を「新しいイスラエル」と言っています。農夫たちは

そんなことがあってはなりませんと残念がるのです。

4,捨てられた石

最後の部分を読んでみましょう。イエス様は律法学者やファリサイ人を見つめて語ります。「17:家を建てる者の捨

た石、これが隅の親石となった。」

とあります。

「捨てられた石」とはイエス・キリスト」です。イエス様は十字架につけられて殺害されます。しかし「これ

(捨てられた石)が隅の親石となった。」のです。親石は家の土台石です。礎石です。中心になる石です。

 教会の礎石は「捨てられた石イエス・キリスト」です。十字架につけられ殺され、捨てられた石となったイエ

ス様は復活し、神の栄光を現し、「生きた石」となり、聖霊をもって今日も語り続けています。キリストは今も生き

て聖なる霊をとおして働いておられ、生きて働かれるのです。

 ルカは「家を建てる者」すなわち律法学者やファリサイ人が殺したイエス・捨てたイエスは、異邦人の世界へ

と広がっていくという神学があります。エルサレム全土から始まり、小アジア世界へ、ギリシャ世界へ、ローマ

世界へ、そして地の果てまで福音は広がり、異邦人世界へも福音は広っていくという神のビジョンを書ているので

す。福音はぶどうの蔓(つる)のようなものです。元気にどんどん広がっていきます。緑の蔓は広がり、枝が幹と

なり、豊かな身を実らせていくのです。 Ⅰペテロ2:4以下で次のように言われます。「この主のもとに来なさ

い。主は人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、石なのです。あなたがた自身も生きた

石と用いられ、霊的な家に造りあげられるようにしなさい。」と勧めています。

生きた石キリストに生かされて生きた石となる。そして霊的な家を造り上げなさい。生きた石を相続する。聖霊を相続する。そのことによって教会は霊的な家となるのです。私どもが救われたのは「捨てられたが生ける石」・キリストを相続し、霊的な教会を形成する為なのです。

6:そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえをイエス・キリストを通して捧げなさい。見よ。わたしは、選ばれた尊い石をシオンに置く。これを信じる者は、決して失望に終わることはない。」

 先週の牧師会でもコロナ対応やZoom礼拝や集まることの困難な時代の中で活路を見出すために全部の教会が苦労している事実を分かち合いました。財政的にも全部の教会が苦労しています。

 

しかし私たちはキリストを相続ならば希望を失うことは不可能なのです。キリストが相続させる希望は消えることがない、消されることがない、消しても消えない希望なのだと思います。失望に終わる一時的な希望もあるでしょう。だから人は希望を持とうとしません。すぐに失望することを予知するからです。しかしイエスにある希望は「失望に終わることがない希望」なのです。キリストを相続する、土台とした教会は「失望に終わることのない土台に立つ」のです。神は永遠の希望を相続させて下さるのです。キリストの希望を相続しましょう。